2012年5月の日記&雑感


だらだら書いた日記です。
日記中のURLはメンテしないので,切れてる場合もあります。 あしからず。


5/31(簡単に理解するってこと)
わたしは物事は簡単に説明すべきだと思っていて,実際 簡単に理解しようとするのだけど,仕事とかで難しい話をして いる人を見ると,物事を複雑に説明しようとしてる人がいるよ うに見える。そこに違和感を感じるのだけど,一方で世の中では, 物事を単純に理解しようとして,暴走してる例を良く見る。 その暴走と自分の簡単な理解っていうのは同じなのかなぁ… どうなんだろう?…と悩んだ。
わたしが考える物事を簡単に理解する…っていうのは,例えば iPodのコンセプトというのは「持ってる音楽を全て胸ポケットに 入れられるようした」みたいな話。仕事とかで技術のアピールとか 計画の概要とかの説明資料で人が書いてるのを観ると, やたら沢山の情報を詰め込んでいるのをみるのだけど,要するに どういうこと?一番大事なのは何?っていうような話で,あるでしょ?…。 まぁ外部の講演会とかではシンプルな資料って良く 見るので,こういう複雑な資料って,そもそも誰かを煙に巻く ための資料って意味で書かれるのかもしれないとは思うけど。
まぁちゃんと相手に伝えようとするとシンプルに説明すべきだと 思うし,それは可能なんじゃないか?と思うのです。
一方世の中で単純に考えて暴走する例…っていうと,例えば, 官僚は国を食い物にして悪いことばかりしてる(わたしはそう思ってません) …とか,東大は御用大学だ…みたいな解釈。どんな情報が出てきても, そういう風にまずは解釈して,それ以外は頭に入らない…っていう様な 話を良く見ます。みんな頭が悪いんだなぁ…とか思うけど, わたしも頭が悪い(複雑なことはわからない)って思ってるので, 同類か?と思うと,やっぱりどこか違うよなぁ…と。
ネットとかではWebの見出しだけで反応をしてしまう人も多い ようです。あと,自分が信じることはすぐに信じるけど,自分が 信じたくないことは,どんなことでも信じない。情報がエントロピーの 減少に役立ってないって人っている。
そういうのをレッテル貼りっていうけど,物事をシンプルに理解 するのとレッテル貼りは違うのか?というと,やっぱり違うの かなぁ。わたしが物事は単純に説明できるというのは,本質を とらえろってことであり,物事が単純にできているとか,割り きれないものがない…っていう意味ではない。割りきれない 部分が沢山あるからこそ,本質に目を向けろ…ってことなんだけどね。 本質を単純に説明すれば,むしろレッテル貼りはしにくいと 思うんだけど…。レッテル貼りが盛んだということは, 結局は,本質が情報としては飛び交ってないのかなぁとか思った。

5/30(わかり合う必要ってあるの?)
活字中毒Rの 「当時の私は、極端な考えだとは思いながらも、 『引越し屋とは分かり合えない』と割り切ってバイトを辞めた」 という話。引用してる内容は,当時バイトした先の人とわかりあえないと おもった人の話,活字中毒Rのなか人は,どこにでもいろんな人がいたり いろんな状況があって,わかりあえたりしなかったりするみたいな 意見なのかな…と思いました。
似たような経験はわたしもあるんですが,なんかそういう風に思ったかなぁ …とか思い出して,とある事を思い出しました。そういえばわたしは中学か 高校くらいの時期に,自分は人とはわかり合えない,いや人はそもそも わかり合えないものなのでは?…と思ったのでした。そういうのをずっと 思っていたので,「わかり合えない…」ってもう何十年も悩むことも なくなって,そういう感覚自体を意識しなくなってました(苦笑)。
そもそもわかり合うという感覚が良くわかりません。当時のわたしは 厨二病みたいなもので,世界は自分が彼岸でみている夢みたいなものだ…とか 思っていたので,当然自分以外の存在は全て夢ですから,そんな考え人と 共有できるわけもありません。世界観もそうであれば,音楽や絵画とかの 趣味もマニアックになっていたので,そっちでもわかり合えない。 自分の考えと全く同じような仲間を探しても誰一人として見つからず, 人はわかり合えないものなんだ…と当時思いました。
そういう一方で,人とはあるIF(インターフェース)であっていれば, 話は合うし,そのIFで一緒に行動すれば,それはそれで楽しい。相手の頭の 中身がどうなってようが,性質がどうであれ,一緒にいるときに楽しく 過せればいいんじゃないか?という風に考えるようになりました。
だから,最初の例に合わせると,わかり合う合わないは関係ないのです。 気持ち良く仕事ができるか出来ないか?。相手の話し方や,話題が,今の 自分にとって楽しく合わせられるか,我慢できないか?…というだけの ことです。
大学時代にバイク屋で全然職種の違う人と遊んでもらい,その人達は バイク以外の遊び方とかは全然違う世界でしたが,そっちの話を話半分で 聞いていれば,バイクで遊ぶときは,キャンプで遊ぶときはとても楽しくて 問題はありませんでした。一方会社に入って,いろんな人と会ううちに, えぇ?…と思うような話題をする人がいて,まぁ業界は関係ないなとも 思いました。それに普段の話題の選び方って,その人達もその状況に合わせて いるだけだったりもするんですよね。
最近も高校の同窓会とかで卒業以来全く違う業界に進んだ人とかと会うと, まるっきり考え方や振舞が違う様に思いますが,まぁそれなりに楽しく 過せます。人と人ってそんなにばっちり会う必要があるのかね?…とは 思いますよ。
まぁでも気持ち良く過せない空間に無理に長居する必要がないと思うのは 事実。無理はしなくても良いかと思います。

5/29(NHKスペシャルのオウム)
この土日NHKスペシャルでオウムの話をやっていた。麻原の死刑が確定した からだろうか?。総括なのかなぁと思ってみたら,そうでもなくて土曜日が ドラマ仕立てで,記者がオウムを脱会して,暮らしている当時の幹部に 問い詰めるという話,日曜は上祐氏と当時の警察への取材という内容だった。 つまり,全体を俯瞰するというよりは,誰かの視点で振り返るような 内容だった。
土曜はどちらかというとオウムが初期のヨガサークルから教団になり, 犯罪に走っていく様子。修行中の事故をきっかけに後戻りができない 方向に走っていく…という様な流れだった。まぁ宗教に限らず, 団体が小さな不正をごまかすためにより大きな不正を起こしていくと いうような感じだった。
日曜は上祐氏が普通の人になっていたのが印象的だった。警察も 当時かなりの情報をつかんでいたが,オウムがテロ行為を起こすという 確信がなかったため,まんまとやられてしまった…みたいな感じだった。
総じて思ったのが,今回の番組では,オウムが普通の団体の様に描かれて いたことだった。もちろんやったことは凶悪犯罪なんだけど,普通の人の 集まりが少しずつそうなっていく,もしかしたら程度は違えど, どこかでもあっていることの様な印象だった。昔のTVや書籍では もっとオウムは,狂信的だったり,もしくは若者のやり場のない想いの 集まった場所みたいな感じに扱っていたのが,そういう精神的な 話がなかった。まるで解毒されてしまったようなつくりだったなぁ。
まぁ特に反論は無かったんだけど,NHKは何を伝えたかったんだろう?とは 思った。あと土曜のドラマで記者が脱会幹部を責めるシーンを見ていて, 裁判が確定したあとでも,こうやって新たな罪人を下手あげるのが マスコミなのかね?…って気がした。だったら裁判なんて 意味ないじゃない?。
当時のことを再びいろいろ思い出したけど,番組自体は,ふーん,と いう感じだったなぁ。

5/28(自動車)
国が新しい自動車区分として 1〜2人乗りの「超小型車」というものを考えてるらしい という記事を読んで思ったこと。そんなことより,セグウェイって いい加減認可しないのかな?…と。あと,最近思っていたのが, 「自転車はもうダメかもしれん」ということ。
妙なサイズの自動車区分というと原付と軽自動車の間に「ミニカー」という 3輪とかの50ccの乗物がありました。まだあるんですが,最近あまり みなくなりましたね。原付なんで自動車レーンを走るんですが, スピードは出ないし,車線を占有するので,結構不便です。そういうわけで, スピードも出ないのに,車線を占有するような乗物って,交通量の 多い都心部では混乱の元ですよ。
ところで,原付(原動機付き自転車)と電動アシスト自転車の違いって なんだろう?と思ったらアシスト自転車は28km/h以上出ないそうです。 ほかにもいろいろ制限はあるようですが。電動アシストって原動機付き…って 意味じゃん…というのに,ここではまた新たに区分がつくられて いるんですよね。原付が自動車扱い(バイク)に近いので,自転車扱いに 近いという意味で別にしたんでしょうが,最近は自転車も車道を 走るように…とかいわれていて,じゃぁ原付と一緒じゃん…とますます 思うのです。
で,セグウェイ,そんなにスピードが出ないからどちらかというと 自転車か歩行者扱いなんでしょうけど,保安器具がついてないし, あまりアメリカも日本に売るつもりがないのか,日本の車両法に 合わせないので,いつまでも公道を走れるようになる気配はありません。 新しい超小型車とかつくらなくても,前述のミニカーとかセグウェイとかで いいじゃん…と思うのでした。
さて,自転車はダメと思ったのは,最近,結局日本では車道と歩道という 2区画しか存在できない。自転車はそもそもその両方を走れるという 曖昧さで便利さを持っているのだけど,それが結局危険さを増強させている。 歩道を走れなくなったときに,自転車ってどれくらい便利なものに なるのかしら?…という事。日本の道路できちんと居場所があるのは, 歩行者と,あとは自動車のみなんですよね。中途半端な乗物は先の ミニカーやセグウェイやそして自転車とか全部事故の元なんでしょう。だから 新型の超小型車とかつくったら,また事故が増えるだけでしょ?って事を 思ったのです。
もっとも,この辺,インドとかにある小型車とかその辺が日本に入って 来る前に産業化するとか,海外に売るとかそういうことを考えてるのかも しれません。まぁそれでもいいんですが,そうなると事故は増えますよ。 それを自己責任とするか,免許制度を厳しくして,ルールを守れない人は 乗れないとかするなら,まだ別ですが…。
少なくともリンクの記事に乗っていた試作車の様に,体が外部に露呈してる ような乗物だと,事故で大怪我をする人も多いだろうから問題に なるだろうなぁ。あともう一つ思うのが,都心部と田舎と走れる車両を 変えることは出来ないんですかね?。特にこういう長距離を走らない前提の車。 だったら,まだわからないでもないですが。

5/27(休日)
昨日熱を出した子供は明け方には下がり,今日は元気でした。
今日は買い物のついでにちょっとバラの花を見てきました。 いい天気で気温も暖かいけど風が吹けば気持ちいいくらいで, いい季節でした。

5/26(同窓会)
今日は高校の同窓会があった。個人的に某記念日でもあったので, 家族全員で行こうと思っていたのだけど,子供が熱を出して断念。 自分ひとりで行って来た。
会場が良くて,料理も美味しく楽しめました。二次会も参加。 久しぶりの終電でした。

5/25(音楽について難儀な世代)
今,「坂道のアポロン」というアニメをやってるのですが, これが1960年代の佐世保が舞台で,高校生がジャズをはじめるという内容。 少女マンガが原作で人間関係が濃厚っていうのもあるのですが, 実際の演奏をプロがやっていて,しかもそれにあわせたアニメが やたら高品質ってことで,なかなか見ごたえがあります。 今朝のセッションのシーンは絵的にも音楽的にもすごくて, 高校生でその演奏はないだろって感じでした(笑)。
このアニメで興味深いのは60年代という時代で,ジャズがまだ 現在進行形の時代です。なんせ今朝の話ではコルトレーンが 亡くなった…という話題が出てきました。ちょっと前に ビルエバンスのワルツフォーデビーが出てきましたが,この アルバムが発売されて2年くらいの話です。
今回主人公が学祭でジャズを演奏したら,学校中から人が集まったという シーンがあったのですが,自分の時代と照らし合わせると,どんなに うまい演奏でも,ジャズでそこまで高校生を熱く出来るかな? という気もしたのですが,時代的にまだジャズは現在進行形なんですよね。 一応ビートルズが既に出てきた時代で,そういうシーンもあったのですが, このジャズからロックに移っていく時代の,ジャズの捉え方っていまひとつ, わたしには解らないのだろうなぁ…という気がしてます。1950年代以前だと ジャズはいわゆるポピュラー音楽の一種で,スィングは若者がダンスホールで 踊る音楽,ジャズボーカルは歌謡曲,そしてバップとかは音楽マニアが 熱くなる最先端の音楽という位置づけだったのかもしれませんが, そこからロックンロールが生まれた50年代から60年代に,ジャズを どれだけ一般の人が聴いていたのか,ピンと来ません。
わたしは60年代生まれですが,聴いた曲を覚えているのは小学校に 上がる頃だと70年代の歌謡曲だし,選んでレコードを買い出したのは 70年代後半になります。音楽を選んで聴きだしたのは楽器をやり始めたのと ほぼ同時ですから,外国の音楽は特に楽器を上達するための音楽という感じで 聞いていて,ジャズなどは技術的に高度であること,またコルトレーンとかは そのジャズで偉大な功績を残した巨人という風に捉えてます。 だからなんか若い人が熱狂するという感覚が沸かないのですよね。
こういうのは実は演歌にも感じていて,演歌はわたしが子供の頃は 父親などの世代が聴く古臭い音楽というイメージが強くて, 若い人が楽しむ音楽という風には取れません。父親の世代は 多分若い頃に楽しむ音楽だったなのに。
最近思うのは,ジャズとか演歌は,今の若い人は,あまりそういうふうに 権威付けられた音楽とか,年寄りの音楽という風に捉えてなくて, もっとナチュラルに音楽として捉えてるんじゃないかな?ということです。 今回のアニメも,こんな本格的なジャズのアニメを作ってもジャズマニアが 喜ぶだけじゃないか?と思ったのですが,そうじゃなくて若い人が聴いたら, 単純にかっこいい曲を演奏するアニメとして捉えるのかもしれないな…,と いう気がしました。
そういう意味でいうと,我々の世代はジャズとか歌謡曲とか演歌について 妙に変な歴史的な意味づけを刷り込まれていて,結構難儀だなぁと思います。 こういうのって世代的なものなんでしょうか?。今の若い世代は, そういうのに当たる音楽ってあるのかなぁ。我々の時代は,軽音楽が 急速に変化したので,音楽ジャンルが時代と妙にリンクしてるんですよね。 時代も高度経済成長だったし。ある意味あまり変化がなく古いスタイルが リバイバルしてる時代になると,こういう感覚とかなくなるのかも, 時代自体も停滞しているし…と思ってしまいました。個人的には音楽に 色がついて純粋に楽しめない分,難儀だなぁと思ってます。

5/24(食べるために賞をとる)
私は広告賞を獲りたかった」っていう文章は, あるクリエータが今の地位に至るまでの苦労話が書かれてるんですが, この文のタイトルが気に入りました。
「賞をとりたかった」というのは,逆説的で,つまり, 自分の作品が受け入れられたいとか,成功したい,技術を磨きたいとか いう目標に比べて,賞狙いというのはあまり品があるように 思われないので,敢えてタイトルにしたって事でしょう。 つまり普通は賞は結果としてついてくるものであり,目標とすべきものでは ない,というような意見が,特に表現(特に芸術)の世界では あるような気がします。
でもわたしはこういう具体的な物差しがある目標というのはいいと思います。 結局芸術でもデザインでも食べていこうと思えば,誰かに評価を してもらわなければいけません。自分の好きな表現だけを追求しても, 趣味としては良くても食べていけませんし,評価をしてもらうことにより, 表現の品質が向上したり,また活躍の場が与えられると思います。 「評価をしてもらう」という曖昧なものを具体的なものにするのが 賞だと思います。そして具体的な目標を設定することにより,言い訳が できなくなるし,より具体的な努力ができるようになると思います。
とはいえ,わたしは学生時代は絵を描いたり,音楽をしたり,文化系の 活動ばかりやっていて,しかも具体的に賞を目指して活動をしたことは ありませんでした。ですから,順位がつかないことの居心地の良さは 良くわかっていたいんですよね。一方で体育会系の活動をしてる人達は, 具体的に勝負に勝つという物差しで活動が評価されていて, そういう人と接すると,その強さのようなものを良く感じてはいました。
社会にでたらますます具体的な目標をたてないと,なかなか人は 動けないって事もわかってきて,本当の目標がもっと別のものでも 目の前には具体的なものをたてた方が良いと思ってます。そういう 意味で言うと,この歳になって,なぜ賞というものが存在するか? っていうことも,改めてわかってきた気がしてます。賞をとりたいと 公言できる人は強いと思います。

5/23(星の数が味の物差しでも悪くない)
脊髄反射。
食べログの星の数で味を確かめてるんですか?」 というタイトル。人が自分よりうまいものを食べてるんじゃないか?と あせるなら確かに不幸だけど,人がうまいと言ってるから, きっとうまいのだろう…と思うのであれば,それは案外普通の ことの様に思う。
だいたい味が先天的にわかるとか本能でわかるというのは 幻想で,経験と教育でわかるものではないだろうか?。もちろん, わかるものはある。わたしの子供(2歳児)はすっぱい物は イチゴだって食べない。生野菜も食べないしメロンも食べない。 一方,チョコとかアイスは好き。この辺は本能レベルで 多分美味しいのだろう。でも世の中で美味しいと大人が薀蓄を たれるのはそういうものじゃない。食べ物の素材や産地,新鮮度を 問題としたり,同じ料理でも隠し味や調理方法で変わるところを 問題とする。そういうのが先天的に解るものだろうか?。 自分より年配者がこれは美味しいものだと教えてくれて, 美味しいと認識していくものじゃないだろうか?。。 大体珍味と呼ばれるものは,「珍味」と聞いて美味しいと 思うものでしょう。
つまり味なんていうのは,誰かに教えられてわかるものであり, 人の評判で判断してるもの。自由なんてないのだと思う。 たから食べログに教えられて味を覚えるっていうののどこが 悪いのかイマイチ解らない。もしかしたら,自分が体験して 多くの人との人間関係によって味覚が作られたのだから, 味覚は人生そのものであり,それが食べログで上書きされるのが 我慢ならない…って事だろうか。それであるなら解らないでもない。
まぁ自分の味覚に対する経験は,そんなにたいしたものではないし, 食べログにどれだけ影響を受けてるわけでもないので, そんなに食べログに人生を侵食されてる実感はないので, そう思うのかもしれないが。

5/22(ゴルフボールでは喰えない)
ネットで「マヨネーズの瓶と2杯のコーヒーと原発事故と 」という文をネットで読みました。
この中で引用されている文章は要は「人生において大事なもの」 「重要なもの」にまず取り組み,「意味はあるが些細なもの」 は後回しにしないと,些細なもので人生がいっぱいになってしまうよ, という話のようです。つまり本当に大事なものの選定と 取り組む順番に注意せよということでしょう。微妙に例えには 共感できないのですが(^^;)。
この文を引いてその後に原発の話を書いてます。そこで書かれている 「土にまみれて遊ぶ子供の笑顔」,「自分の庭で育てた 野菜で作った夕ご飯」,「祖父の時代から改良に改良を重ねて 育んで来た畑の土」が何よりも大事っていう話,まぁ気持ちは わかるんですが,本当かな?という気がします。
この例えになってしまうと,じゃぁ些細なものってなんでしょう?。 「原発を動かすこと」が些細な事でしょうか?。そうじゃないですよね。 多分この文脈で書くと,「些細なこと」は,地元で働くことに なってしまうんではないでしょうか?。
原発を誘致した地方はなぜ誘致するかというと,自治体への交付金が あるからと,あと地元に雇用が産まれるからでしょう。 それによって,町が活性化したり,病院などの公共サービスが ちゃんと回るようになるからでしょう。日々地元で働いてご飯を 食べることを優先して,「土にまみれて遊ぶ子供の笑顔」を 失ってしまったのだと思います。
でもこれって難しいですよね。確かに将来に遺恨は残すけど, 今月の収入がないとご飯が食べられないのです。ご飯を食べるのを 我慢して,子供は笑ってくれるんでしょうか?。
こういう話は原発以外にも沢山あります。基地問題もそうですし, 公共工事による環境破壊もそうです。国債の発行だって, 今日の経済のために,将来につけを残しているといるでしょう。 実際はゴルフボールを入れた後に砂や珈琲を入れる気力が残ってない 場合も多いのです。
これらの問題って,綺麗事だけで語れる話ではありません。原発に 反対したい気持ちはわかるけど,食べるための心配がない様な 前提で語っても,おそらく当事者(自治体)の理解は得られないのだと 思います。個人的には答えはわかりません。
人は最低限の生活が保障されないと,未来のことは考えられません。 ただ最低限というのは,人や時代で変わります。豊かさが 最低限をむしろあげてしまったのかも知れません。

5/21(日食)
今日は金環食でした。世の中大騒ぎでしたが,実際は曇り。 ただ金環状態になっている時,雲の切れ間からなんとか確認。そういう 意味ではラッキー。日食観察用のメガネも買ってなかったので, なんとなく勝ち組気分。そういえばこれから売れ残りが叩き売られるなら 買っておこうか?(笑)。皆既日食よりも金環食は珍しい気がするし, わたしの記憶では初めての体験だったので,レアな現象を見れたのは 良かったです。
午後からは都内に出張でした。

5/20(寝た)
今日は午前中社宅の掃除,そのあと買い物。昼食後息子が寝たので, お出かけは無し。その間に料理。
夕食後,8時過ぎ眠かったので,わたしが寝てしまった。夜中に起きたけど, 結構寝た。今朝は久しぶりにジョギングしたので,体が疲れたのかも。 昨日も結構歩いたし。

5/19(休日)
今日は11時前に出かけて,花の国で遊んで,その後は横浜に買い物に。 帰ったのは6時前。7時間くらい外出していたことになりました。 流石に息子もお疲れの様でした。

5/18(全入時代の学生のあり方ってあると思うのだが)
studygiftという妙なサイトが話題になっていました。 学生を助けましょうということらしいけど,唯一載っている話が, 奨学金をもらって大学にいっていたのが,バイトをやっていたら 成績が落ちて奨学金がもらえなくなったので,大学にいけない, 助けて…ってことらしいです。
成績が落ちたら奨学金をもらえなくなるのは当然だし,そもそも 成績が落ちてる人を,どうして大学に通わせないといけないの?と いう気がするのはわたしだけでしょうか?。そもそもバイトとかを しなくて勉学に集中できるように奨学金ってもらうんじゃない?, って気がするのですが。
まぁ早稲田に入学したので,そんなに頭が悪いわけでもないだろうに, あと東京という事情から奨学金を二つもらっていても,バイトしないと やっていけないのだよ…って事なのでしょうが,でもそもそも 勉強できない人は大学に通えても卒業は出来ないし,そういう人は 就職も苦労するよ…って気がします。あっ,就職は成績と学歴だけで 決まるわけではないから,そうじゃないかもしれませんが。
このサイト,ネタなのかもしれませんが,寄付を募ってるってことは, 逆にこの仕組みで詐欺とかできるよなぁという気もします。いや, このサイトはそうじゃないのでしょうけど,この仕組み自体がね。 ネタという意味でいうと,「 メチャクチャにヤバイ就活生」の方が面白かったです。 みんながこれやりだすと効果ないけど,最初の人は,これで 就職とか本当に出来るかもしれませんね。
さて,…。
最近,なんか大学生に手取り足取り,だよなぁ,と思うことが よくあります。大学が学生の就職指導をするのは当たり前に なってきてるみたいだし,授業とかでいろいろ先生がきついことをいうと, アカハラだと騒いだりとか,研究室見学を申し込んだ学生が返事を受け取れないのに 学生が逆切れしたりとか,いや先生大変です。
我々が学生の時くらいまでは,先生は大学に来ている求人票を 渡してくれるくらいで,あとは何もしてくれませんでした。まぁ 推薦はしてくれたか。学生は自分で履歴書の書き方とか,勉強して 就職試験に行ったものです。まぁわたしはバブル世代だから, 大変じゃなかったのですが,その前もそうでした。
今は少子化で,大学も学生を集めたいから,そういうサービスが どんどん過剰になっている気がします。でも一方で大学に 全入って感じになってきて,大学生であること自体に価値が なくなってきてます。きちんと大学でいろいろ身につけないと いけないのに,妙に甘やかされてるから,ますます自分の やるべきことをやってないのに人を頼る…人がなんか増えてるなぁ ちという気がします。そういえば,会社とかでも思いますが, 今の若い人は,結構無償で助けてもらえると思ってる人が多いんじゃ ないですかね?。上司は部下を助けるものだと思ってる。部外者にさえ お願いすれば断らないと思ってる。それは学生時代に, そういう風に扱われてきたからかなぁとか思います。
だいたい大学生が授業に出ないでバイトするなんていうのは, 大学が入るのが難しくて大学生に価値があったから,入学さえすれば 優秀であることが証明された時代の名残です。いま,そんなこと 通用しません。なんか妙なことになってるなぁと思いました。

5/17(出張)
「モットー」が英語ってはじめて知りました(挨拶)。
今日は出張。ずっと外にいました。

5/16(夫婦)
下世話な話を。
大手小町をみていたら, 結婚の条件で年収800万と言った女性が 叩かれてました
まぁ叩くのもわかりますが,この条件,そんなに非現実的かな?… という気もします。800万以上も出来れば…で最低600万。 サラリーマンで親と別居で大都市に住んでいるというのは, いる気がします。そんなやつはとっくに売れてる…と書かれても いますが,売れてない人もいたします。というか自分の結婚したときの スペックは,まぁこれに近いかな…と。嫁さんにこんなに小遣いを あげられてないようにも思いますが。
もっともこの希望を出している人が10年間婚活をしてると書いてる 40歳の人というスペックだけでみると,まぁ良くわかりませんが…。 人の魅力はスペックでは語れない部分もあるので,40歳であっても, 魅力を感じれば,お付き合いになるんではないですか?。
結婚の希望で年収とか親と別居とか書くことで叩いてるのかも 知れませんが,それが第一というわけでもなくて,でも,希望として こういう事もあるよねぇ…というのはあるんじゃないですかね?。 本音を書いてはいけないのであれば,ネットで相談をする意味が ありません。
そんなことを思いました。。もう一つ。
男性への絶対離したくない彼女・奥様はどんな方ですか? という質問。多くが回答がのろけ話ばかりで,幸せな気分に なりました(笑)。たまにはこういうの読むのもよいですね。 中には資産家だからという生々しいのもありますが(苦笑)。
個人的にはわたしも今の奥さんがいなくなったら嫌だし困るなぁ…と 思ってます。理由は…なんだろう?…。特にといったものではなくて, いろんなもの全て…という感じではあります。
大手小町は泥々した話が多いけど,こういうのもあるんですね。

5/15(その発想はなかった)
就活失敗して人生詰んだ私がそれでも自殺をしない理由 」という文章を読んだ。他人の苦労は実際わからない ものだし,「アスペルガー症候群」というのもその苦労を わたしはわからないので,ここで書かれてることの肯定も否定も 出来ません。ただ一つだけ引っ掛かったことがあるので。
この文章に「実際に実行に移すかどうかはともかく、自殺願望を 抱いたことがないという人を私は信じられない。何か人として 大切な物が欠落しているのではないか、そんな気さえする。」 と書いてます。あぁなるほど…と思いました。わたしは自分で 自殺願望を抱いた記憶がありません。あったかも知れませんが, 覚えてません。で,「人として大切な何かが欠落してる」と 言われちゃうと,「そうかもなぁー」と思ったわけです。
わたしは他にも「悩むとか考えるいうことがわからない」とか 普段思ってますが,やっぱり何か欠落してるんでしょう。もしかして 何かの症候群ですか?…。
生きていてしんどい…と思うことはありますが,自分で死のうと 思ったことはありません。そういえば,若い頃,「まぁ大変と 言ってもせいぜい死ぬくらいだし」とか言ってました。いや, 死ぬより大変なことはあるんだよね…とはその後思いましたが。
自殺しようと思わなかったのは,多分物心が付いて「自殺」と いう行為を知る前に「自分が死ぬ」ということを意識したせい かな?…という気がします。わたしは小学校1年と2年の時に手術を 受けてますが,2年の手術の時,母親に「死ぬかも」と言って いたそうです。自分が麻酔から覚めないかも知れないという 恐怖を意識していたってことです。余談ですが,5年前に癌の 手術ために全身麻酔を射たれたときも,手術直前は,このまま麻酔から 覚めないかもなぁと思って,結構いろいろ身辺整理をしました。
そういう意味で言うと,自分はあまり死ぬってことを遠い行為だと 思ってないので,死ぬほど辛かったらわざわざ自殺しなくても 死ぬ状況に身をおけばいいと思ってるんじゃないかな?…と。 念のために5年前に手術をしたときは,死ぬかもなぁと思いつつ, まだ生きたいなぁ…と思ったので,今は死にたくないです。
余談ですが仏教やインドの宗教とかで輪廻しないのを解脱といって 良とするのは,現世が辛いという意識からでしょう。それでも 彼らは自殺という選択肢を選びません。中東の三大宗教だって, なぜ自分達は辛いのか?…が延々と説明されてます。本当に 死にそうな地域の人達は,自殺という選択肢はあまり選ばない じゃないでしょうか?。
もう一つ,自分は物心ついたころから転校生だから,「今この場所で 頑張る」必要がないと思ってます。辛かったらどこかに逃げ出せば良い。 逃げ出したらの垂れ死ぬかも知れないけど,わざわざ自殺する 必要ないよ…と。若い頃は死にたいなら,どこか戦地で奉仕活動でも すれば,みんなに感謝されながら死ねるよ…と思ったりました。 まぁこれは本気では思ってませんが。
リンクの文章に「完全自殺マニュアル」を読んだと書いてました。 この本はタイトルの通りの中身ですが,いつでも死ねる方法を知ることで, 逆に「いつでも死ねるから」って今の辛さをやり過ごせる…という 目的で書かれていたりもします。まぁそういうことなんですよね。 いつでも死ねる人は気軽に死にたいとか言ったり思ったり出来ないわけです。 思った瞬間に死んじゃうから。
まぁそんなわけですが,結局自分は死と隣り合わせだったのか, それとも本当に辛い目にあってないのか,それともどこか欠落してるのか 結局のところ良くわかりませんでしたが,まぁこういう人もいるって事で。

5/14(売れ線狙いでも愛も誇りも必要)
コンプガチャの問題はやったこと無いものに対して語っても 仕方ない…ということから避けてました。ですが,ちょっと ネットの文章をみて連想したことがあるので。
金のために作ってるクソ商品の方が顧客を幸せに したりする」という文章。なんか芸術の様な感じだな…と 思いました。ゲームとかじゃなくて,音楽とか絵でもそういう話は ありますよね。むしろ若い芸術家は「売れること」と「自分が 作りたいもの」が一致しない場合,そういう悩みをするはずです。
わたしも若い頃は「やりたいこと」をやるべきか「求められてること」を やるべきか悩みました。もしくは「出来ること」。 これらが一致してる人は希でほとんど違うでしょう。そもそも 簡単に出来ることは本人はやってても楽しくないものですから, 若いときは。これ芸術に限りません。なにかを仕事にする場合は そういう悩みは持つのです。
ですから,ゲーム制作者がそういうことを訴えても,昔からある 悩みであり,たいした話じゃない…と思います。別に売れるもの, ユーザを幸せにするものを追い求めるのは,悪いことでも なんでもないのです。ただし詳細は知らないので,想像で書きますが, コンプガチャの問題は,ユーザが求めるクソ商品だからじゃなくて, ユーザの懐に優しくないからでしょう。ユーザが事前に想定していた コストと,実際にかかるコストが大きくずれていたからでしょう。
もっとも本当に作りたいものとは違ってユーザが求めるものを つくっていても,つくり手は誇りを持ってつくることが出来るはずで, もしそういう誇りがあればユーザを騙して金儲けをするするって いう発想にはある程度の歯止めがかかるものだと思いますが, 「クソ商品」ということはその誇りがないのでしょうか?。あっ, リンク先は問題のゲームの話じゃないのはわかってますが。
…とゲームじゃなくてモノづくりの心意気みたいな話でした。
ついでに,日経の社説「ゲーム市場の健全な発展を」っていうのを読んで, 「戦略産業」って何かね?…と思いました。つまりユーザの話じゃなくて 業界を存続させたいっていう想いがあるのかなぁ…と。
個人的にはわたしは一時期ゲームをやってましたが,その時は ゲームは他の遊びよりも安いと思っていたのですよ。例えば5000円 くらいを一旦払うと,一ヶ月くらい他の遊びをしなくても済むくらい 休日そればかりやっていたとか(苦笑)。そういう製品の産業じゃ いけないのだろうか?…と思いました。

5/13(休日)
今日は天気もよく,気温も暑くもなく寒くもなく, 近所の公園では多くのBBQとかが行われていた。そういう きせつだなぁと思った。

5/12(発熱は必要)
今日は午前中散髪に行って,夕方羽田に嫁と息子を迎えに行った。 途中時間をつぶすために新横浜の競技場にちょっと行った。 ずいぶん久しぶりに行ったが,ちょっと変わっていた気がする。
さて,数日前にNHKのニュースに 病原体の退治 体温37度からって記事が出てました。 ウィルスに感染した際に,それを殺す物質が37度以上の体温になった時に 出るって話です。
経験的に感染症で熱が出た場合,熱を無理に下げるよりも, 出し切る方がすっきり治るというのは解っていたので,当たり前じゃん と思いましたが,経験的に解ってることが科学的に機構が解ったという 記事なのかもしれません。わたしは時々8度とか9度とかの熱が出ますが, 体を殺菌してるような感覚があるので,あまり無理に熱は下げません。 あとがん細胞も高熱に弱いし。湯治とかで病気が治るのも,単純に体を 暖めること自体が免疫力をあげるからです。
ネットでの反応を見ると,驚いてる人が多かったので,みんなそう思って いなかったの?ってちょっと驚きました。どうりでインフルエンザにかかったら タミフルやリレンザで無理やり熱を下げて働こうとする人が多いわけだ, かえってこじらす可能性が高いのに。
もっともわたしが熱を出すと病気が治ると思うのは,免疫系とかの 勉強をして低体温では免疫が働かないこととかを知ってるからって いうのもあるでしょう。 学生時代はそういうことは知らなかったのですが, 知り合いから熱が出るのは体に悪いものがたまっていて,汗をかいて それを出してしまわないといけないといわれていたので,ちょっと 違った理解で,やはり熱は出したほうがいいと思っていた気がします。
さて,そういうわけで当たり前な話ですが,熱を出すと病気が治るとか 逆に熱はがんがん上げたほうがいいと勘違いして危ないことをする 人が出てきそうなので,ひと言。
熱が出たら頭を冷やすのは脳に関しては,あまり熱を上げすぎるのは 良くないからです。体は37度以上で病原菌を殺してくれるかもしれませんが, 神経系はあまり熱が上がると,壊れます。発熱で麻痺とか あと感覚器が悪くなることがあるのはそのためです。特に子供は 体が小さいので熱が上がりやすく40度以上とかにすぐなるので, 危険です。つまり37度以上といっても上限があるわけです。からだは たんぱく質だから熱が上がると変質するし。
というわけで,病気の時に熱を無理に下げるのはどうかとは思いますが, 上がり過ぎないようにきちんとして…っていうのが前提のことですから, 早まったことはしないように。

5/11(世界一幸せな日本人)
ライブの感想は別途書きますが,今日キース・ジャレットのコンサートに 行きました。キースのライブに行く度に思いますが,日本人,特に 関東に住んでいる人は世界一幸せなんじゃないかなぁと。
キースは年に数回しかコンサートをしません。でも日本には 2年に一度くらいのペースで来てます。コンサートやライブを 沢山していた若い頃はともかく,この10年くらいはおそらく 日本が一番キースのコンサートをやってるところです。キースは アメリカに住んでますが,アメリカ在住の人でもキースのコンサートを みるのは大変です。
日本でも今回は東京のみの公演です。大阪に行く時もありますが, 最近は結構稀なので,東京の人は特に幸せです。夕方まで 会社で仕事をして,キースの演奏を聴いて,その日のうちに帰れる チャンスを作れる人って人って世界中で,ちょっと稀なんですよ(笑)。
ところでライブの時に,なぜキースはこんなにも日本でコンサートを するんだろうか?と思いました。・ギャラがいい?,・プロモータ(鯉沼氏)との 関係?,・日本の演奏環境や観客が良いから?,・日本自体に来るのが 好き?,とかいろいろ考えられます。鯉沼氏の力が一番なのかなぁ,と いう気がします。
一方で他のジャズミュージシャンもアジアにくるとしたら 日本という人も結構います。これは日本にジャズファンが多く観客の 質がよいというのと,何だかんだいって経済大国で,ギャラが いいというのもあるのかもしれません。以前韓国にメセニーグループが コンサートをしたときに,韓国や中国が日本に追いつくってこういうこと かも知れないなぁ,と少し思いました(苦笑)。
日本にジャズミュージシャンが来るのは波があって,今は一時期より 減ってる気はします。大きなジャズフェスがないというのも あります。でも結構小さいライブハウスに海外の有名どころが 来ることもあってビックリします。
こういう環境がいつまでも続くといいなぁ,そのためには経済の 維持も重要だけど,ミュージシャンにとって魅力的な観客や 文化というのも重要じゃないのかなぁと思うので,その辺は こっちも努力したいものです。
関東から引っ越すと,こういうライブに気軽に行けなくなると いうのも悩ましいのですが。

5/10(働けない人のこと)
最近時々「新型うつ」の話を聞きます。例えば仕事にはうつ病の 症状が出て行けないけど,遊びには行けるという。世の中的に 病気の扱いなのかイマイチわかりませんが,ネットとかで 意見を見ると,病気として同情的な意見と甘えとして批判的な 意見と両方あるように思います。
わたしは良くわかりません。というか,どっちの人もいるんじゃ ないか?という気がしないでもありません。そもそも病気か性質かと いうのは,いろんな思惑で決まったりします。障碍と病気は 治るか治らないかですが,これもつまり治療法が見つかれば 変わります。人の性質も変わりますから,やっぱり 病気と区別はつきにくい。
そして,病気だったら「しかたなく」性質だったら「その人のせい」と いうのもおかしくて,性質こそ本人にはどうしようもないものも あります。
新型うつが批判される理由に仕事(嫌なこと)以外は普通に出来るって ことにありますが,でもだから病気じゃないというわけじゃないだろうし。 ただ性質にしても病気にしても,働けないものは働けないのだと思います。
少し話が変わりますが,一方で最近の就職難から働き先で,激務に さらされうつ病とかになり自殺をするという若い人も多いそうです。 労働時間が多く病気になるのは本人には否がありませんが, 体が壊れる前にそれを察知して逃げることは出来なかったんだろうか? という気もします。出来なかったんでしょうが。
今の若い人の心が以前より弱くなってるのかそうじゃないのかは, 確信はないので言及は避けます。ただみんな自分の体や心をもう少し ちゃんと見つめて知ることが重要じゃないのかな?という気はします。 病気だろうが性質だろうが,人は一人ひとり違うので,結局は 安全な線というのは人ごとに違うので。

5/9(食卓の料理)
fujiponさんのところで読んだ家族の勝手でしょ!写真274枚で見る食卓の喜劇という本の 書評。家庭の料理で素材が少ない料理がある(増えてる?)みたいな 話で,あたかもそれが手抜きみたいに取れちゃいますが…。
そもそも料理に正解などあるんでしょうか?。正解があるとしたら, それはその流派の中での話の様に思います。もちろん栄養学的に こうしたら望ましい…という様な料理法はあるように思いますが, じゃぁ料亭の料理がそうかというとそうとは限りません。うちの実家の 味噌汁はやたら具が多いらしい(自分にとっては標準)のですが, 確かに料理店で食べると味噌汁やお吸い物は具より汁のほうを 楽しむように出来ているように思います。そもそも日本料理は 出汁や味付けは複雑でも,材料自体は素材の味を楽しめるように, 結構種類を絞っているものもあります。ゴタゴタといろんな 材料が入っているほうがごった煮みたいという場合もあるかと。
まぁそんなことは実はどうでも良くて,こういう家庭毎の料理って 興味あるなぁ…ってこと。料理は地方色もありますが,家庭色も 強く,特に昔の主婦は外食もあまりしなかったからか,ちょっと 独自の料理をする場合が結構あったようです。わたしも子供の頃から 自宅で食べていたのが,大人になって外で食べて,違った作り方を 覚えて自宅で披露したら,母親に信じてもらえなかったこと あります(苦笑)。
ここでは材料が少ない料理を手抜きの様な文脈で紹介してますが, そもそも海外と比べると日本の料理は多彩で,毎日毎食違った おかずが出てくること自体海外の人からは驚かれることもあります。 海外では毎日シチューとか,朝はシリアルだけとか,そういう家も 結構あるんだと思います。また,おそらく江戸時代以前の一般人 (特に農民)の料理なんて,鍋に取れた材料をぶち込んだだけの 料理が主だったんではないでしょうか?。
というわけで,紹介してる本は単純に他の家庭料理はどんなの だろう?という興味が惹かれました。栄養的な問題がなければ, それぞれの家庭の料理でいいとは,わたしは思いますが,一方で 味覚って社会的合意が必要なんだろうか?という気もします。いや 気がするんですけどね。うまいと思うものがみんな違っていたら 大変だし。

5/8(GW終了)
世の中はとっくに平常営業のはずですが,わたしは今日までお休み。 今日福岡から帰ってきました。何も異常なしといいたいところですが, 先日の強風のせいか,ベランダの鉢が倒れていました。うーむ。

5/7(どこかおかしい)
言っていることは理解できるんだけど,どうも違和感がある 主張とかニュースとかが目立った。
猪瀬副知事が車の気配がなければ赤信号を渡ってよい と言った話。まぁ言いたいことは解らないでもありませんが, そもそも車の気配を感じるかどうかが,個人の感覚によるもので, わたしはそんなもの信用してないのでダメだと思います。あと 客観的に測定でいないから,やっぱりルールとしてはダメ。事故を 起こした時に「車の気配を感じなかった」と主張される可能性大だし。
まぁジャーナリストの中には個人の能力を過大に評価してる人が 多く,国民が自分で考えろといったり,きちんとマニュアル通り 操作しろといったり,そういう人が多いけど,むしろ行政は みんなちゃんとやってくれないからシステムや法律で何とかすべきと いう思想にしないといけないのだと思う。そういう意味では 副知事としては違和感がある。
次。
子供がデモで原発を止める権利をと主張した件。脱原発には 賛成なんだけど,こういう風に子供を矢面に立てるのは正直嫌い。 子供の意見の様にいうけど,子供は周囲の意見に影響を受けやすいので 結局は周りの大人の鑑でしかない。子供に言わせると話題になるという 戦略がいやらしい。高円寺という場所を聞いて,ますます萎えた。 ちなみに大人でも原発を止める権利はないのですよ;-p,残念ながら。 某政党が解散してくれないし。
次。
今の原発は危険だけど熔融塩炉なら大丈夫という話を,最近よく 聞くのですが,熔融塩炉の詳細がわからなかったので, WIRDの熔融塩炉の話が興味深かった。というか, コメント欄で,反論されていて,そっちの方に納得行ってしまった。 現在実用化されてないのは,結局技術的な問題が大きく,決して安全とは まだ言えないようです。まぁ廃棄物がでかいのはいいんでしょうけど。
個人的(一応学者としての)な感覚で,あまり完成されてない技術に 過度に期待するのは危険だと思うので,軽水炉はすぐ廃棄, これからは熔融塩炉っていうのも妙に違和感あるんですけどね。 まぁ技術開発は続けるべきでしょうが。
次。
デフレ脱却こそが国債累積問題の解決策」との 主張。確かに緩いインフレになると国債の問題はかなり解決すると 思うけど,一般国民の生活が良くなるかどうかは,未確定でしょうね。 経済が変化していく場合は,物価と賃金の間にタイムラグが出るので, うまく調整しないと,どちらかがしんどくなるでしょうし,損をする人と 得をする人が出てくるでしょう。
まぁそれでもデフレは脱却したほうが良いとわたしも思いますが, デフレ脱却すればよいというのは危険な気がする。今と変えれば 良くなるには,もう騙されないで。ちゃんと,どう変えるべきかを 考えてくださいな。

5/6(原発停止という祭)
北海道の原発が止まり(だっけ?)日本で稼動している原発が なくなったということで,なぜかネットとかマスコミが騒いでます。 その感情がまるで理解できず,ちんぷんかんぷんな気分です。
反原発の人は記念すべき日だとか言ってますが,こういう ことをシンボリックに語る感情が,わたしは理解できないというか, 好きになれないというか。
私自身は脱原発というか原発は現状なくしていくべきだと思ってますが, 原発をすべて止めることが原発を無くすことではないし, 動いている原発がなくなると日本の給電状況や電気代は どうなるのか?をいきなり社会実験の様にやってしまうのは どうなんだろう?と思います。原発は止めたらそのまま廃棄 出来るわけではなく,発電所を解体するなら,それなりの 計画が必要だし,ただおいておくなら,燃料を冷やす電気が むしろ必要だったりします。止めて喜ぶっていうもんでも ないでしょう。
むしろこの夏電気が足りなくなり,混乱が起きることの方が 心配です。電気が足りなくなるのは夏の数日間だと言いますが, じゃぁその時にどういう風に計画停電させるか?という準備も 全然見えません。昨年の計画停電になれた関東の人ならともかく, 未経験の人がいきなりの計画停電で混乱はしないのでしょうか?。
結局混乱が起きて「原発が必要」という世論に傾くんじゃないか? ということの方が,わたしは心配です。
原発を減らすには,原発を止めるのではなく,いつまでに どういう計画で原発を廃炉にしていくのかの計画を決めるという ことでしか,物事は進みません。止めて満足というのは,むしろ 原発を廃炉にする気が無いという風に,わたしは見えます。 脱原発をするには他のエネルギー手段を開発する必要がありますから, そんなにすぐに出来るものでもありません。危ない原発と 危なくない原発,耐久性をあげる対策をすればいいものとかを きちんと分類し,必要な分だけ動かし,その間に新エネルギーへの 移行をしていく,移行が進めば徐々に原発を廃炉にしていくと いうのが,脱原発じゃないのでしょうか?。
国内の原発がすべて止まっているという事実は単なるシンボルで しかありません。しかも,脱原発のシンボルではなく,反原発の 意見が世論で支配的…というだけのシンボルです。こういうシンボルが ないと物事が進まない。一旦原発を動かすとなし崩し的に, 脱原発は先延ばしにされる…という意見もわかります。でも,それって 結局,国民は愚か…って言ってるようなもんなんですよね。 長期的な計画は立てられず,その場の感情に流されているって。
というわけで,今回の騒ぎは私にはあまりすっきりせず, 今後世の中がどういう風に流れていくのかなぁ…というわけで, 少し頭を抱えてみているわけです。まぁ政権交代のときから 日本人は嫌なものを取り除けば良い,取り除いたあとどうするかは 考えない…という性質なのをいやって程見せられてるから, しょうがないのかなぁ…とは思いますが。

5/5(世界の広さ)
昨日ドライブからかえってきた後,用事があって街まで買い物に 出かけた。わたしの実家から街の中心部までは10キロ程度。 昨日はGWだからか,市内は比較的道が空いていて,中心部に入る までは渋滞も無く,30分程度で着いた。買い物を10分程度で すませ,駐車場の出し入れなどを加えても往復一時間半程度だった。
なんとなくずいぶん近いな…という感じがした。これだとちょっと 買い物に行って帰って来るという感じ。でも高校の時は, 街まで出かけるとなるとバスか自転車だけど,ずいぶん遠くまで 行くというかまぁ半日仕事の様な感覚だった。まぁ高校は 自宅からやはり8キロ程度離れいて,街の方がまだ近いという 場所だったので,通学のついでによるという行動範囲からすると 確かに街も守備範囲ではあるのだけど,やっぱりちょっと 買い物に行って,すぐ帰って来るという感覚とは違う。
わたしの実家は高校に入ってから引っ越して今の位置なので, 今の実家の周りの遊びの縄張り感覚はあまりわからないのだけど, その前に住んでいたもっと中心部に近い範囲で言うと,中学や 小学校の時の主な遊び場は校区内なので,せいぜい1キロくらいの 距離だったんではないだろうか。
そう思うとずいぶん距離の感覚が変わったなぁという気がした。 都会に住んでいて,30分くらいの移動は近所と思うようになったのか, はたまた車で移動するから,そういう感覚になったのかは 良くわからない。まぁ10キロを車で30分で移動できるというのも, ちょっと都心だとそういうわけにも行かない気もするが。
一つだけ懸念なのは結局車で30分くらいの移動が近いとか なっちゃうから,地方ではモータリゼーションが進んで,歩いて いける範囲に日常品を買う店が建たなくなってきてるということ。 これ結構深刻な問題なんだけどなぁ。

5/4(GW)
熊本に帰ったので,阿蘇へドライブに出かけた。 俵山の峠に行き,そのあと白川水源に行ってお昼を食べて帰ってきた。 帰りにグランメッセでやっていた鉄道展を見てきた。
俵山はバイパスが出来てここに用事がある人以外は通らなくなって いるのだけど,結構人は多かった。風車が10基以上あった。 白川水源は昔に比べ観光客が減った気がするが,それなりに にぎわっていた。南阿蘇全体でドライブインとか施設が 増えていて,観光客は多かった。
いい天気で,新緑もきれいでなかなか楽しかった。

5/3(沈黙は金)
学生がWebに研究内容を書くことについてどう 教えればいいか?という件を読んでいて。
確かに今の若い人は何でもネットに書いてしまう。研究内容ならともかく 犯罪行為まで書いてしまってお縄になる件も良く聞きます。ばかだなぁと 思うのですが,そもそもSNSとかblogは書かずにいられなくなるような 仕組みが仕組まれているわけです。つまり書いてしまう人は まんまと乗せられているわけ。ですから,「君らはネットの仕掛けを 作った人に操られてるんだよ」と言ってもいいのですが,最近の 若い人は「それでもいい」とか言いそうだよなぁ…。
基本的に誰かに情報を伝えるという行為は利益の移動を行っている と私は考えます。ぶっちゃけていうと,「ただでしゃべったら損を している」と。つまり自分が持っている情報や何かを行って得た ノウハウを考えなしに公にすると,それで誰かが得をするばかりではなく, こっちに損が来る場合もある。SNSやblogは親しい人にしゃべってる つもりかもしれないけど,誰でもそれを見ることができる…と 言うのかな,と思ってます。
今の若い人は結構お金にシビアな気がしますが,一方でそういうところが 無防備なのは,情報がお金だということに気付いてないってことでしょう。 まぁネットにただの情報があふれてるので,そう思わないのでしょうけど, 一方でネットでも有料の情報というのはただの情報とまったく品質が 違うんですが,それも有料の情報に触れたことがないとピンとこない わけです。
じゃぁ自分が持ってる情報を誰かに伝えることは常におろかなことか?と いうと,実はそうでもありません。情報には価値があるので,うまく 伝えれば,誰かに恩を売ることが出来ます。ただ不特定多数の人だと 誰に伝わったか解りません。ですから,限られた相手や場で 情報を流すとかいうことがあったりします。研究会とかに行くと, 実は結構懇親会で赤裸々に情報をしゃべったりしますが,それも 相手がわかってるので,こっちが情報を出す代わりに何か代償を とろうというするわけです。
まぁそういうやり取りは結構高度ですから,ここで元々言われていた 学生とかの立場だと難しいだろうなぁ,と思います。まぁ 勉強してくれ…と。
あと,ネットで不特定多数にいろいろ書いている人。そういうことを する人は基本的にそこを宣伝の場だと思ってる場合がほとんどです。 ですから,そこで成功して本まで出すようになった人は,そこまで 行くととたんに書く内容が変わって,金になるようなことは 書かなくなります。まぁプロモーションってわけですね。そういう 人はただで書いている時代も,実はどこか肝心なネタを温存していたり するものです。
…という言い方で伝わるかどうか解りませんが,きれいごとより, そういう言い方の方がいいかな?とは思いました。

5/2(GW)
昨日と同じ状況。今日はちょっと出歩いた。

5/1(GW)
今日は一応平日らしいが,休みをとってるので,相変わらず帰省中。 親族が集まったりとかあった。それにしても今年のGWの天気は ころころ予想が変わる。


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