2009年6月の日記&雑感


だらだら書いた日記です。
日記中のURLはメンテしないので,切れてる場合もあります。 あしからず。


6/30(出世)
「なぜ女は昇進を拒むのか」の弾小飼氏の書評。 本の紹介だけど本は読んでないので,主にタイトルに反応って 感じですが…。
女性は昇進を拒むのか?とか言ったりして…,まぁうちの嫁さんも 特に昇格したいというのはないらしいので,そういう人がいるとは 思いますが,男性だって昇進を拒む人がいても変じゃないし,女性で 出世欲が強い人もそれなりにいます。でも実際はなかなか出世しないよね, という気はします。
でも出世ってする必要ある?。まるで出世を望むのが当たり前の様に 書かれるとどうなんだろう?という気がしますが,実は自分にも出世欲は それなりにあります。ちなみに「誉められたい・評価されたい」という欲求と 「出世」を混同してる人も結構いて,そういう人は出世し損ねると 評価されてないと思って落ち込んだりするようですが,実は評価と出世は 必ずしも一致しません。
で,自分が出世したい理由はというと,給料が増えて生活が楽になると いうのもありますが,それよりも組織の中で見える風景が職位が高い人 低い人で違うし,意思決定への関わり方が違うから…っていうのが 大きいかなぁ将来的に社会的な影響力をどう持てるか?という観点で 出世を望む場合もあるとは思いますが,わたしの将来像は,必ずしも 会社での職位が直接反映するものでもないだろうし。 逆にシビアに嫌な仕事を断れない…というのもありますが。 だから,出世はいい事と悪いことがセットで,その按配で出世したら 困るという場合もあるでしょう。
リンクに書かれている女性は平均が上で男性は分散が大きいので, 上の人は上で下の人は下というのは,そうかもなぁとは思いますが, そもそも女性はその性質上必ずしも競争が必要なところで進化して こなかったのかもしれません。進化論的に遺伝子を残すのに有利な ことを考えと,男性はサル山やライオンからわかるようにトップに 君臨した個体がたくさん遺伝子を残せてそれ以外にはチャンスが 少ないですが,女性はそんなことない。女性が他の女性から男性を 奪う必要があるのは,出産より子供を育てる際に資産を他の女性と 分け合っていたら足りない場合でしょうけど,それは結構環境で 変わりますから,人間社会も一夫一婦制のところと一夫多妻制の ところがあります。他の個体と共存していくことでも十分に自分の 遺伝子を残せれば競争する必要がないでしょう。
まぁでも実際の社会での出世というのが今は必ずしも自分の遺伝子を 残すのには有利とはいえなくて,男性の場合,国のトップに立っても 愛人とかを持つことは許されない世界ですし,案外貧乏人の子沢山とかも あります。元々は男性が勝ち抜いて多くの遺伝子を残すというのが 競争の目的だったしたら,今の社会はそれが報われない社会で, 既に競争という手段自体が目的になっている気がします。そういう 意味でいうと社会での出世というのも既にバーチャルな物で, まぁそう考えると虚しいので,出世を望まない…という人が多くても おかしくないと思うんですけどね。

6/29(送迎会)
月末ということで,職場の送迎会でした。

6/28(経済成長)
ちょっとWebで読んだ文について軽く反応。
ほとんど中身ではなく題目だけに反応なのでリンクして申し訳ないけど, 「経済成長って何で必要なんだろう?」というお題に 対してわたしがどう思うかというと,やっぱり経済成長している 状態だとすることで格差や搾取構造をもみ消してるんだろうな…という 気がします。経済成長していても格差があるだろう…とおっしゃるかも しれませんが,経済成長していれば,先進国とか発展途上国とかいう 言葉からわかるように,貧困な世界(人)に対し,格差はあるけど, そのうちあなた達も豊かになりますよとかいってごまかしやすい。
もし経済成長がなかったら豊かな国は貧しい国から搾取してるのが ばれてしまいます。決まったパイを一方が多く取り一方が少なくとってる ことを見え見えになるように思います。経済成長していて全体の 経済が流動的であれば,そういうのは見えにくくなるのだと思います。 国の間もそうですが,国の中でも,また会社とかそういう組織の中でも そういうことはある様に思います。まぁ必要な理由というよりは, 効用の一つ…という風にいうことも出来るでしょうが。

6/27(海遊館)
今日は大阪に来てるのですが,海遊館でジンベイザメとか ペンギンをたくさん観た。海遊館は時々売店までは 来ていたのですが,中に入ったのは十年以上ぶりでした。

6/26(専業主婦と扶養手当と核家族と通勤はセット)
以下…想像であり,確信がないのですが,思っていることを。
専業主婦と扶養手当と核家族と通勤は元々セットなものではないか?, ついでに年金制度も…とか思います。
…というのはいずれも明治以降,つまり近代化が始まってから日本に やってきた形態だと聞きました。それ以前,つまり江戸時代までは 基本的には人は暮らしているところで働いてました。つまり住まいが 職場だったと。農業はそうですが,職人もそう。商売人も多くの 人を雇ってましたが,基本的には住み込みだったと聞きます。 もちろん今の漁業とか出稼ぎがそうである様に,旦那が家族から離れて 長期間稼ぎに出るようなケースもありましたが,そのような場合も 通勤…は無いでしょう。江戸時代に通勤していたのは侍ぐらいだった というような話も聞きます。
住まいで働いているとすると,当然夫婦のどちらかだけが働くわけではなく, 夫婦ともに同じ仕事をする場合が多くあると思います。農業は今でも そうですが,商売人も夫婦で住み込みだったりする場合もあったでしょう。 そのような職場では専業主婦という考え方はあまりなかったのでは ないでしょうか?
明治以降通勤という制度が広がったのは交通網が整備されたからという ところが大きいでしょうが,それによって働く場所と子育てをする場所が 別々になったので,結果的に妻の方は子育てに専念する,そのためには 旦那の稼ぎだけで家族を食べさせる必要があるので旦那の稼ぎを増やしたり 扶養手当みたいのができた,そんな気がします。ついでに年金制度は 子供じゃなくて親の面倒を子供が見なくても住むようにできた, だから核家族が可能になったのだと思います。
つまりこれらの制度は企業や役所とかが雇用を自由に行えるように, 住むところや家族に縛られずに自由に人を連れてきて働かせることが できるようにでき,都市や工場にたくさんの労働力を集めることが できたということでしょう。
そう考えると,今のこれらの制度は家族の中で誰か一人が給料を得れば 十分に暮らしていけることが前提で,そうじゃなくなったら, これらの制度は崩壊することになります。一人分で足りなければ 共働きになり,そうなると子供を育てるためには,祖父母と同居して 面倒を見てもらうか,もしくは職場と住まいが遠い…というのは 不可能になります。
今,共働きの夫婦が増えてますが,好きで夫婦で働いている人ばかりではなく 金銭的な問題で共働きの夫婦も多いようです。そうなると結果的に 子育てもできなくなり少子化になるか,職場が自由に選べなくなり 雇用を自由に行うことができなくなるでしょう。
そういう意味でいうと,一人の収入が家族を養うのに十分ではない?と いう状況が広がると,今の労働や家族や住まいのあり方自体が 崩壊することになると思います。今の日本は派遣社員が増えて, 給料が安くなったり扶養手当もないような職場が増えてますが, それが企業のほうにも不都合であることをもう少し意識すれば いいのにと思います。

6/25(トラブル)
自宅のマックというかパワーブックは内蔵ハードディスクがおかしくなって いるので,外部ディスクからブートしてるのですが,内蔵ディスクは はずすのが大変なのではずさずに使ってます。そのせいか,ここ数日 どうもエラーが出て,使用中に何度も固まります。まぁ古いマシンなので そろそろ変え時か?とも思います。いずれせによ,ちょっとトラブルで 今日は落ち着いて日記はかけません。あしからず。

6/24(今の偏向報道の責任をきちんと後年とってくれるんだろうか?)
東国原知事が自民党衆院選に誘われた件に言及した橋下さんのコメント。 同じ産経新聞なのに「しゃれでは」と書いていたり,「本気度感じた」と書いていたり,なんなんだ? この報道。
最近の自民党がらみの報道は本当におかしくて,最初からすべてを 自民党批判として取りあげるという規定路線になっている気がします。 昨日は骨太の方針が出たと同時に,骨抜きの方針と言い切っていて,内容を精査せずに 骨抜きという結論かよ?と思いました。特に社会保障費削減凍結としたことを 悪い事の様に書いていたのが腑に落ちないのだけど,朝日は社会保障費は 削減すべきだと思ってるんでしょうか?。でも 友愛の人は,凍結生ぬるいって言ってるんですが。
自民党内のゴタゴタを取りあげるのも,妙に熱心で,よっぽど自民党の 中がボロボロという印象をつけたいのでしょうか?。さすがに 見てるこっちもうんざりという感じですが,これでもし選挙で政権交代が おきて,さらにその結果,日本が混乱した場合,マスコミは自分達が 日本をゴタゴタにした責任をとるのでしょうか?。
足利事件も当時マスコミは散々菅家さんを犯人扱いした…と言われてます (わたしは当時の報道は覚えてません)が,どのマスコミもそれを 自戒するつもりはないようですので,政権交代が悪い結果を呼んでも, やっぱり自戒しないでしょうね。
ちなみに郵政のゴタゴタも,そもそもかんぽの宿は不良債権だから, さっさと手放すべきと言っていたのもマスコミだし,民営化は当時の 選挙の結果だったりしたのですが,何でそれを推し進め役目である, 現郵政の社長を,あれだけマスコミは更迭したがるのか,ちんぷんかんぷんで わかりません。郵政選挙で意思決定されたことは,すべてもうなかったこと, ということなんでしょうか?。
そうやって過去を思い返すと,今のマスコミの騒ぎも,そして熱に うなされたような,政権交代の世論もまったくあてにならず,2年くらい後には なかったことの様にされてるんだろな…そんなことを思うと,今の 日本にまともな民主主義なんて可能なのか?…とすら思います。

6/23(コンビニとスーパー)
セブンイレブンが見切り販売禁止について公取から 指導受けたという話。売れ残りを安く売るというのは, 環境にも良いし,懐が寒い人にもいい…かと思いきや,意外に ネットを観ると,今のままでよかった…という意見がたくさん 読めました。なんというかセブンイレブンの価値とかそんなところ。 売れ残りを安く売らずに捨てることで,維持できてる何かがある みたいです。
まぁなんとなくわかります。というかコンビニで売れ残りの安い おにぎりや弁当を買わなくてもいいよな…とわたしも思います。 もっとも,今のわたしはコンビニよりもスーパーの方が会社の 帰りにあって便利なせいか,コンビニをあまり使わなくなりました。 そのスーパーは12時過ぎまで開いているので,深夜という意味でコンビニを 使うこともありません。スーパーで不便なのは雑誌がない…こと ぐらいで,弁当もあるし,安売りもあるし…。
でもうちの実家は逆に,コンビニは凄く近くにありますがスーパーは 歩いて30分以上かかります。でも年老いた親はあまりコンビニを 使ってる様子がありません。コンビニに欲しいものがないのかも しれません。
考えてみると,今の住まいの近くのスーパーが12時過ぎまで開いていると いうことは,スーパーもコンビニも使える時間という意味では 似たようなものです。でも公共料金はスーパーでは普通払えませんが, 昼間に郵便局にいける主婦にはあまり関係ありません。 スーパーにも弁当はありますが,コンビニで弁当やおにぎりを買う人は コンビニの弁当の方が美味しいと思ってるかもしれません。 でしたら,そこに安さは求めないのかもしれません。
まぁわたしがコンビニがなくて困ってるのは雑誌が買えないこと くらいで,他には困ってないのですが,スーパーとコンビニが 並んである場合にすみわけがどういう風にできるのか?は良くわかりません。 そういうところにあるコンビニは商売が大変の様な気がするし, 地域を独占するような場所にあるコンビニは,安売りなんかしなくても 十分やっていけるのかもしれません。逆にスーパーがあっても コンビニの弁当が好きという人もある程度いるようにも 思います。
そういえばデパートも地下の食料品売り場が最近は稼ぎ頭に なってるとかいう話もあって,なんかますますコンビニとスーパーと デパートとすみわけが良くわからないなぁという気がします。 コンビニはフランチャイズ式で全国的に同じようなサービスを 特にセブンイレブンはやってるように思いますが,そういう周囲の 店の状況とかで,そのマニュアルが有効なところとそうじゃない ところがあるのかなぁとは思いました。

6/22(塾)
先週のクローズアップ現代で教育の話があったのですが レジデント初期研修用資料さんがそれについて書いていました。 この番組,わたしも観てました。数学の文章題を絵を描いて解かせるのを 観ていて,あぁいいやり方かも…と無邪気に思ってましたよ。
それはいいとしてリンク先に塾の経験について書かれてましたが, そういえば…という風にわたしも書いてみます。
実はわたしはあまり長い間塾にいったことはありません。 中学の頃に2回くらい行っただけかなぁ。中学の1年位のときにちょっと 長期に…良く覚えてませんが数ヶ月か半年か一年か?。どこかの 系列ではなく,誰かが個人的に教えてるのに行き,生徒も2,3人くらい しかいない私塾みたいな感じでした。その後確か中学3年の 夏休みに一月くらい。これは中学三年の夏に親の転勤で引っ越したのと, 高校受験とかが近かったので,たぶん学習を補おうとしたのでしょう。
塾に行った覚えがあるのがこの二つだけですが,中学1年時って, 田舎の中学でしたが,数百人の学校の学年で一番をとったことが あるくらい成績良かったのですが,なんで塾とかいったんだろう?。 その後,教育が盛んな県に転校になり,いきなり成績が中の下ぐらいに 落ちて,そこから勉強の辛さを知りました(苦笑)。でも,その後 3年になって引っ越したときは,その前の教育県教材がものすごく 役に立ったんですよねぇ。他の人の倍練習問題をやったりできたので, 学校の勉強以外の勉強をしたという意味では,塾的な面もあったのかも 知れません。
高校は当然塾は行かなかったのですが,しっかり浪人したので, 浪人のときは当然予備校に行ってます。
…とこんな感じですが,中学で転校して勉強を意識する前は, 小学校中学校とあまり勉強を頑張ってするという意識はなくて, 教科書に書かれていることを理解して覚えるというだけをやっていた 気がします。宿題とか学校に出されたものをやっていただけ。 でも教科書は漏らさず理解してたのを覚えてます。それが普通と 思ってました。ですから,学校で習う以外のことを他で習った 覚えはないし,学校の授業は理解していたので他で補強した覚えも ありません。こういう自分からすると「学校の勉強で十分じゃないか?」とも 思うのですが,今の教育はずいぶん変わっているので,今でも そういえるかどうかはわかりません。
学校の勉強が大事か?学校の成績がいい事は大事か?と問われると, 頭がいい子供は結果として学校の勉強ができると思ってます。 また,頭を鍛えるためのドリルは必要である…とわたしは思ってます。 ですから学校の成績以外になにか優れたものがあるなら,そっちに 打ち込んでもいいけど,そういうのがないなら勉強して頭を 鍛えて欲しいとは思います。
学校の成績が悪いとコンプレックスを持つし,学校に行くのが 嫌になったりするので,そういう意味では楽しく勉強をするために, 塾とかで補強することは有用かもしれません。子供は頭も 体も鍛えれば鍛えるほど伸びるので,楽しく鍛えるための動機付けが 必要で,まぁ塾もそのひとつかな?という風に思ってます。 自分自身が塾が役に立ったという意識がないので,本当はどうかは わかりませんが。

6/21(住むところで生活は変わるなぁ)
今日は朝起きたら結構な雨。天気が良かったら自転車で近所の食べるところを 開拓しようと思っていたのに,できなくて結局朝も昼も夜も自宅で 食べました。おかげで安く上がったけど…。
…。新しい住まいに住んで思うのは住むところが変わると,生活の あり方がかなり変わるなぁ…ということ。今まで荻窪の駅前に ふらりと歩いていって,昼食食べたり本屋とか回ったり,カフェで コーヒー飲んだり毎週の様にやっていたけど,ほとんどできない(苦笑)。 荻窪に最初住んだときのところ(先日までとは別のところ)は駅から 遠かったので,歩いていくって感じでもなかったけど,バスの定期を 持っていたので,雨が降ってもわりと気軽に出来まで出ていた。 今のところはバスの定期もないから,雨が降ると,ふらりとするため だけのためにバスで駅前に出ることもないし,歩いていくところに カフェとか本屋とかまだ見つけてないので,どうしても自宅にこもって しまうなぁ。
もっとも,嫁と一緒に住むようになったら,週末に自宅を不在にして フラフラしてると怒られそうだから,こういう自宅にこもる習慣が 付くのはいい事なのかもしれない(笑)。

6/20(わが人生に悔い無し?)
会社の後輩が演奏会をするというので見に行きました。それは まぁ良かったのだけど見ていて,アマチュアながら演奏の場を 持っていて,楽しそうだなぁと少しうらやましく思いました。
他にもわたしの知り合いで趣味で音楽をやっている人で, 演奏の場を持っている人は何人かいて,うらやましく思ったりも しますが,じゃぁ自分もそうできるか?というとやろうと思うと できるんだろうな…とは思うのですが,いろいろステップがあるよなぁ, まず練習しないと(苦笑)とか思います。
最近すっかり楽器の練習をしなくなってますが,わたしの一番の 趣味は一応音楽のはずで,聴くだけは聴いてますiPodで。そのほかの 趣味というとマンガを読んだりアニメを見たり,読書をしたり…, そんなことが多いですが,マンガとかアニメはちょっとやると 頭がやわらかくなっていいな…とは思いますが,あっという間に 時間が過ぎるので,そればかりになってしまうと,あまり生産性が よくない。コンテンツを消費してるだけなので,何かそれでわたしに 能力がついたり新しいものを生み出しているようなことはないように 思います。
学生の頃楽器を演奏するのは好きでしたが,大学の頃は演奏をするよりも 音楽を聴いていろいろ考察したり,あとジャズの理論書を読んで, いろいろ考えたりすることに時間を割いたりしてました。それは それで得ることはあったのですが,もっと何も考えずひたすら 他人の演奏をコピーしたり,人前で演奏をしていたら,なんか もっと違った音楽との関わりになっていたかもなぁ…などと思います。
無心に行動するよりも頭で考えることが好きなのは性分で,仕事とかも 手を動かして実験とかするよりも頭の中でシミュレーションを してる時間の方が多い気がします。そんなことする暇があったら, 実験して論文を書いたほうが成果が出るんじゃないか?と思うので, それに関しては,少し按分を変えようかとか思ったりもします。
…などと考えながら,わたしは「あの時ああすればよかった」という 想いがあるのだろうか?などと急に思い出したのですが,以前も そう思ったけど,わたしは,そういう風に思うことはほとんどありません。 確かに「ああすれば人生変わったよな」と思うことはありますが, あの時はそれが最良の選択だと思ったし,そうじゃなくても楽しかったら それで良いし…みたいな感じ。今のわたしの人生が,すべて順調か?と いわれるとわかりませんが,致命的に困った状況でもないし,まぁ 将来がバラ色かは不明ですが,まだまだ人生あきらめたわけでもない。
だからといって,例えば自分に子供ができたとしたら,自分と同じような 人生を歩ませようとするか?,自分が先生になったら生徒に,自分が 歩んできた道を勧めるのか?…とかなると良くわかりません。他の人生も あったよなぁとは思うけど,じゃぁそこに自分が果たせなかったものを 託すかというと,あまりそういう気分でもないか?。
教育熱心な親は,「自分の様に生きろ」というパターンと「自分が 果たせなかったものを託す(言い換えればルサンチマン)」のパターンとか ある様に思いますが,自分の場合どうなるんだろう?とふと 思いましたが,結局のところ良くわかりませんでした。
まぁ自分の人生に悔いがなくても,それがベストな人生だとも 思ってないってことなのかな?。そんな感じのことをいろいろと 総括しておいたほうがいい時期なのか?などと思ったり思わなかったり(謎)。

6/19(臓器移植法と死の定義を切り放して はいけないのだろうか?)
臓器移植法の改正案が衆議院を通過したということで 話題です。心情の問題もあるのか,議員も様々で,今までより臓器移植の 条件を緩和するA案に賛成の意見反対の意見が党によらず両方あります。わたしも いろいろ考えますが,問題が難しくて簡単には答えが出ません。なので, ちょっと逃げを打ってメタな話を書きます。
思ったのが個別のケースをみないと何とも言えないなぁと。 わたしは自分自身は人様の臓器を頂いてまで長生きをしようとは 思いませんが,自分の子供がそういう風になったら,どう判断するか わかりません。その病気もどれくらい本人が苦しそうにしてるか, 逆に全然見た目正常で,長生きしそうなのに障害があり,これからどんどん 悪くなるとわかると,今の状態で止められないのか?とか思うだろうなとは 思います。逆に自分や自分の家族が脳死になったら,死んだことにして いただいても構わないかな?とか思うし,人様の体内で自分の体が生きて いくのも一つの生き方の様にも思ったりもしますが,「まるで寝てるようだ」 という姿をみたときに考えが変わらない自信もありません。
でも,こうやっていろいろなケースを想像すると思うのは,一つに 決めなくてはいけないのだろうか?ということです。いや,今回の法案の事を 否定してるのではなく,この法案に付随して言われている「人の死の定義」 ってやつです。
今回の法案の議論で難しくなってるのは,この法案が人の死の境界を変えると みなす意見があるからでしょう。人の死の定義を決める法案であれば, 難しいし,議論が十分にされてないといわれるのも当然のようにも思います。 でも,わたしは人の死の定義を国が決めるのか?とも思うし,それって 個人の心情や宗教の問題では?とも思うし,多様性があっていいんじゃない か?という風にも思います。
今回の法案は別に死の定義をしたのではなく,「こういう場合はこうしていい」 というのを決めただけ…という風にしてはいけないのでしょうか?。
法案を詳しく知らないので,勘違いしてるかも知れませんが,そもそも 臓器移植法が死の定義をしてるのでしょうか?。関係してるように いわれるのは,死んだ人から臓器を移植するってことでも書いてあるので しょうか?。もちろん,日本では生体の臓器移植も出来ますから,死んだ場合 のみ臓器移植が可能になるというわけでもないでしょう。でも心臓の様な 臓器は移植することで元の人が生死の境界を越えることになるから, 死体のみ移植可能…ってことになってるんですかね。
日本では(当たり前ですが)死んだ人と生きてる人の扱いが違います。 死んだ人は燃やして骨にして埋めても構いませんが,生きてる人にすると 殺人になります。生命維持装置がないと生命活動が弱まり心臓が止まり 肉が腐る人も心臓が止まる前は生きている事になるので,生命維持装置を 止めることは,条件により殺人に問われることもあります。 生きてる人を殴ると傷害になりますが死んでいる人殴るとどうなんでしょう?。 でも,ほっておくと死体遺棄になります。 死んだ人と生きている人の扱いが違うので,生死の境界を決める必要が 出てきます。
ふと思うのですが,生と死の境界にある程度幅を持たせたらいけないのかな? という気もします。ある人にとっては,ここを越えたら死んでいるとみなし, ある人は生きているとみなす。それは本人や家族によって決定する ということは出来ないのだろうか?ということです。このことは, 尊厳死とかの問題にも絡んで来る様に思います。それで法律は何を決めるのか というと,やってはいけないことを決める。こういう状態の時移植をしては いけない。こういう状態の時だったいい。でもその間は,本人か家族が 決めればいい…という感じで。死の定義なんて踏み込んではいけないように 思います。そういう意味では今回の通った法案はそうなっているようにも 思います。法案の文書の中身はしらないので,死の定義を書かれてるのかも 知れませんが。
一つ思うのが死の定義を決めちゃって,こういうときは臓器移植すべき みたいになっちゃうとおかしなことになるし,あの人は死んでいるのに 家族が死を認めてないのはおかしい,みたいになるのも良くないように 思います。

6/18(休暇中はどこまで会社に縛られる?)
昨日の麻生さんと鳩山さんの党首討論,わたしは どう読んでも,麻生さんの優勢を感じたのですが,ネットとか 報道とかを見るに,鳩山さんが優勢だったという意見が結構あって びっくりしました。
あぁ,本当に世の中って藪の中なんだなぁと思いました。というか, 皆さん麻生さん嫌いなんですねぇ(笑)。絶対先入観で見てるよね, 袈裟まで憎いという感じがします。
わたしはあの答弁は,鳩山さんが政権を取ったら,「お金がないので 国民の皆さん我慢してください」と清貧を要求されそうだな…と 思いました:-p。
話を変えて…。
病気で欠勤してる間にブログをしてることで解雇された 人の話を読みました。よくあることなのか?と疑問に思ったのですが, 他にも海外でそんなことがあったとか,それを当然だとどこかの 経営者が書いているのを読んで,欠勤中にネットをするとクビになる場合が あるらしい…ということはわかりました。
それが解雇理由として正当なのかは裁判とかやってないのでよくわかりません。 でも,病欠中に遊びまわっていたら誉められないものの,じゃぁ 病欠中にTVを見ていたらやっぱりクビに値するのでしょうか?。 本を読んだら?。昼休み以外の時間に食事をしたら?…。どれかが OKなのであれば,どこに線があるのか良くわかりません。さらに じゃぁ有給休暇中に遊んだら?…これは問題ありませんよね?。欠勤だから 問題なの?。でも欠勤ってそもそも無給ですよね?
ネットといってもブログやSNSだからよくない…というようなことが 読んだ文からは読めて,じゃぁ検索で仕事に関することを調べて いたらOKなの?。というか病欠中に仕事をしてるほうが,むしろ まずいんじゃないか?という気すらするのですが…。休暇中に 仕事してると労働局的にはまずいはずだし。
ですが,以前病気休養中に海外旅行に行って問題になったという 話も聞いた事があって,それはさすがにまずいだろう…と,わたしも 思ったので,病休中に何でもしていい…というわけでもないとは 思います…が,線引きは難しいなぁ…と思いました。ネットだから 遊んでいるに違いない…というのもどうかと思いますが,だったら そういうことよりもむしろ成果で評価したらどうなの?…と思います。

6/17(コミュニケーションとアートの関係はDNAに刻まれている)
WIRED VISIONで隔離した鳥でも子供に歌を 教えると上達したという文を読んで。
鳥は親から歌(鳴き方)を習うことで上達し,親から習わない鳥は うまく歌えない…というのは昔から知られているのですが, そういう鳥を隔離して数世代過ごすと,だんだん世代を経るうちに 歌がうまくなるとのことです。リンクの記事はこれをもって, 歌い方がDNAに刻まれているという風に考えてます。
同じことを人間に当てはめると,人間は親から習って言葉を 覚えますが,いきなり赤ちゃん二人を宇宙船に連れて行き,機械に 育てさせると当然言葉をしゃべれませんが,その二人が子供を作って, さらに子供を作って,と続けているうちに数世代で言葉を しゃべれるようになる…という事になります。
この実験結果を読んでわたしが思ったのはDNAに言葉(歌い方)自体が 刻まれているというよりは,言語や歌い方の様な情報,もしくは 何かを「伝える」という技術は相手に伝えることで,成立,もしくは 上達していくのだな,ということです。そしてそれは,もしかしたら 世代差みたいのが必要なのかもしれないということです。
つまりDNAに刻まれているのは言葉自体よりは,言葉を受け取れるか?と いうことで,相手に言われたことを理解できるか?,自分の言った事を 相手は理解しているか?,そういうことを判断する能力は DNAに刻まれているのではないか?。そして相手に伝えていくうちに, 伝わっているかが判断され,表現はすごいスピードで精査されて いくのではないか?ということです。
であれば,同じ世代の二人でも表現は上達するように思いますが, 実際そういう部分もあるのでしょうが,こういう表現を受け取る 能力は子供の頃に極めて高いのは子供の言葉を覚える能力の 早さを見れば明らかだし,でも複雑な表現は子供より大人の方が うまいことから,実際はある程度子供と大人の組み合わせで伝えて 行くほうが,精査されるのが早いのではないか?ということです。
芸術も実際に売れている,つまり多くの人に表現が伝わっている人の 方が,どんどん上達することの方が多いように思います。もちろん, それは経済的な理由とか他のこともあるのでしょうが,表現をして 受け手が反応してというやり取り自体が文化を育てる,そして それはコミュニケーションこそが文化であり言葉である…ということ, そのこと自体はDNAに刻まれている…ということをわたしは思いました。

6/16(技術がどう人を幸せにするかがわからないので 誰かがやって欲しいことを書いてみる)
内閣府が先端的研究テーマを募集してるらしい とのことで,科学技術に何を気にしますか?…ということを考えてみるに, あまり浮かびません(笑)。いや自分は管理職研究者なので こんなこといったらいけないんですけどね。
もちろん自分の周辺の領域で,こういうことをやらせてもらえると いいなというのはあります。ただどうしてもシーズ思考的になるかなぁと。 はっきり書くと将来の人間が幸せになるために必要なこと…という風に 書くと,どんどん話がメタな方にいってしまって,研究テーマに 落ちないという感じでしょうか。幸せなんて人それぞれだし,貧しく なくなっても食料やエネルギーに不自由しなくても,公害がなくなっても, 幸せかどうかわからないよなぁ。医療が発達して病気になる人が 減っても,結局人は死ぬのだからどういう風に死ぬのが幸せなんだろう? などと…,まぁ既に科学が手を出せない領域に(苦笑)。
というわけで,そういう人々を幸せにする…とかいう視点はあきらめて, 興味があることを,あたかも役に立つようなこととか,夢があるようなことに リンクさせてお金を取ってくる…っていうのが研究者の常套手段だったり します。もしくは産業を活性化させるような技術を勧めるっていうのも 企業研究者の常套手段だったりします。
ここでわたしやりたい分野を…というよりせっかくだから自分が できないというか,だれかがやってくれないかな?と思うようなことを 書いてみます。地球の裏と表くらい離れても,データを送るのに End to Endで0.01秒以下の遅れで送れるようなことができると 凄くうれしいのだけど…。
ネットの発達でデータを大量に送ったり貯めたりすることはどんどん可能に なってるけど,案外速く送ることに関しては,技術的な壁があるんだよなぁ。 だから地球の裏と表で音楽のインタープレイとかはいつまで経っても できなかったりします。
だれか何とかしてくれないかなぁ。

6/15(思考と言葉と聴覚と脳)
麻生内閣の支持率が20%切ったとのニュース。 いま選挙すると厳しいってことか。鳩山大臣の件はだれが悪いか 良くわからないし,なんか,それで支持率下げるんですか?,どういう 結論を世論は求めていたのか?良くわからんなぁ,という気がします。 一方で民主党の鳩山代表が支持率を伸ばすのも良くわからない。 ここ数日彼は何もしてないのではないか?。
なんか雰囲気なんですかね?。これだと誰が総理になっても, すぐ支持率落ちるんだろうなぁ。
そんなことを思いました。
…。そんな話はおいておいて。
弾小飼氏のところで脳がよくなる耳勉強法の書評を読んで。
わたしも必ずしも思考は言語で行うわけでもないと思ってるのですが, 行うわけではないと断言はしません。実際言語で行うと思ってるときと, そうじゃないときがあります。思考を外部に取り出すときは言語を 使ったり,記号を使ったりしますが,内部でも言語の階層と 非言語の階層が両方動いているときもあるし,どっちかだけのときも ある気がする…という感じか?。意識して言語を使わずに思考することは 可能だけど,複雑な思考を組み立てるときは言語がないとうまく思考 できないこともあります。人間の短期記憶ってそんなに容量がないので, 論理を言語という道具を使って組み立てると,コンパクトに物事の 関係が表せるので,少ない記憶で複雑なことを考えられる…って 気はします。
その後の耳が目より優勢というのはわかるようにも思うけど, 実際は個人差もあるのでなんともいえないかな。わたしは人と 感じ方の違いを考えるのが好きなのでよくやるのですが,視覚にしても 聴覚にしても人によって全然違って,比較自体が無意味な気がします。 わたしは普段からいろいろと音を聞いている様で,周りの状況を 音ですぐ気づくのですが,でも結構空間的に音を聞いていて,むしろ わたしの聴覚は非言語的にできている気がします。
この辺はあまり断言できるものはないのじゃないか?という気がします。 むしろあまり自信ありげにいわれると胡散臭く感じるというか。
後,もうひとつ。「脳が良くなる」というフレーズ。これは紹介されて いた本のフレーズですけど,まぁ脳なんてどう刺激を与えるか?だから, これも回答がひとつなわけじゃない。ダイエットと一緒で,どれだけ 新鮮味を維持できるか?みたいなもんじゃないかね?と思います。 そんなところで。

6/14(休日の生活パターン)
厚生省局長の逮捕には驚きました。真実は わからないけど,わたしの印象だと,こういう組織で出世する人って 危ない橋を渡らないような人かと思うので…。
…と珍しく休日にしてはビッグニュースがあったのですが,私生活の話。
引っ越して二週間。部屋の片づけが終わっておらず,昨日と今日は片付け。 ただ後は物を捨てないと入らない…状況になっていて(苦笑),あまり 進みません。仕事のピークがちょっと過ぎたので,先々週のボロボロの 状態から復帰すべく,この二日間はあまり無理をせず。実は今月に 入って体重ががっくり落ちたので,嫌な感じがして,少し様子を 見てるのだけど,少し体重が増えてきたかな?。間食もしてるし。
まだまだ生活のペースが決まらなくて落ちつきません。荻窪時代は, 週末というと,午前中洗濯,昼食を外食し,買い物,夕方喫茶店で お茶とかして帰ってくるパターンが多かったです。買い物は荻窪界隈で 済ませることもあったし,新宿や吉祥寺まで出ることも多かったです。 夕食は土日は外食が多かったです。平日が自宅で食べるので,口直しというか バリエーションというか。
今の住まいは午前中日当たりが悪く,午後の方が日が当たるので, 午前中の洗濯意欲というか,布団を干す気があまり起きない,というか 今梅雨で晴れません…。外食は近くにどういう店があるか良くわからないので, なかなか落ち着きません。今日お昼を食べた中華料理屋は値段の割りに 美味しかったので,定期的に行くにはいいと思いました。昨日食べた 割烹は,まぁまぁなんだけど荻窪で近所にあった「ゆず」という定食屋が きわめてレベルが高かったので,ちょっとそれと比べるとなぁ…という 感じ。
昨日は昼食後スーパーで買い物したあと自宅に戻ってしまいました。 今日は昼食後吉祥寺に行って買い物し,帰りに喫茶店というかケーキ屋で コーヒー。ケーキが美味しくてわりと気に入りました。自宅からちょっと 遠いけど。
いけそうな店が見つかると少し気分的に落ち着くんだな…と思いました。 でも,近所に本屋がないので,やっぱり週末は三鷹か吉祥寺まで行かないと 自宅にこもりっぱなしになりそう。今日は吉祥寺まで行くと気分的に 一杯になって新宿に行く気とか起きず…,なんか電車乗らなくなったなぁ, と思いました。
近所にあまり店がなくて…ってパターンは横須賀時代と似てるかな?と 思っていたのですが,横須賀時代は車があったから,わりとすぐに 横浜まで出かけてました。車があるとないとでは出かける範囲も 変わるなぁと思いました。

6/13(自我の目覚めは動物の本能?)
TVアニメでとある動物の子供を飼育していたら,その動物は 飼育していた人を親の様に思うようになったという話をやってました。 子供の動物は飼育していた人より,体格はずっと大きいという 設定です。ちなみにそのアニメは架空の話なので動物の架空ですが,現実にも ありそうな話です。
子供が親を親として認識して,ついていったりするのは,動物が 生きていくためには必要な能力でしょう。餌をもらったり,守ってくれたり するからです。でも,通常の動物はいつまでもそうであるわけではなく, ある歳になると親離れをして独立して暮らし,今度はつがいを探す ことになります。この流れだけを見ると人間も同じです。
では,なぜ親から離れるのでしょう?。成長すると体が大きくなり 親が親に見えなくなるのか?というと,上記の様に自分より小さい 他の動物を自分の親と思うことがあることから,別にサイズの 問題ではないように思います。子供が大きくなり自分だけで餌を 採る能力がついたり,他の危険から守る能力がついて,結果として, 親を頼らなくても生きていける自信がつくことで,親から離れる…って いうのはありそうです。であれば,動物園に飼われているような 動物は餌を採る能力を身につけませんが,彼らはずっと飼育員を 親として慕うのでしょうか?。それとも身体的に生殖能力がつくことで, 親を避けて,つがいを探すような本能があるのでしょうか?。
さて,上に人間と同じと書きましたが,人間の場合親離れは反抗期とか 思春期とセットの様に思われてるので,身体的なものというよりは 精神的な成長…と思われがちです。でも動物と同じ行動ってことは, 動物も精神的な成長で親離れするのか?,それとも人間も単に 身体的に成長したことで親離れするのか?…そのどちらかのような 気がします。
人間は自分達を高度な生き物と思って特別視してますが,案外他の 動物と同じように遺伝的に仕組まれている本能に拠って親離れを するのかも知れません。そうであれば,同じく思春期の頃に 始まる,自我への目覚めとか世界観を確立したりするような 思考行動も,単なる動物の本能の延長でしかないのかな?と 思いました。
まぁ良くわからないけど,ふと思ったことを書きました。

6/12(時事徒然)
最近のニュースを見ていて…。いろいろ思うところはあるのですが, あまり気がきいたことをいえないという前提で。
鳩山大臣辞任の件は,結局大臣が何にこだわっているのか良くわからなかった, というのが印象。簡保の宿のこととか…とか言ってるけど,なんか 今の時期?とピンとこない。ずっと不信感があって,認可の時期だから 再燃したということだろうか?。むしろ政局…というか選挙のために 麻生総理ともしくは自民党と距離をおきたかっただけじゃないか?と いう気もするけど,読みすぎ?。
それにしても手続きの問題なんだろうか?総理は民間の会社人事に できるだけ口を出すべきじゃないと言ってるけど,それは同感です。 でも与謝野さんは大株主だから株主の権利として社長の更迭は民法の 手続きからできるはず。監督官庁と株主が異なる特殊法人って 他にもあるんだけど(苦笑),まぁいろいろとややこしいなぁとも思う。
…。
足利事件冤罪…。
被害にあったというか冤罪にあった方がTVで怒っているのを見て 彼が怒るのは十分すぎる理由がある,とは思った。けど,裁判的には 当時の限界だったのではないか?という気もする。検察や警察が 犯人を作り上げた…とはいえるんだけど,そもそも検察って,犯人を 犯人と信じて起訴するんだよねぇ。それを弁護して無罪や減免を 勝ち取るのは弁護士の仕事のようにも思います。
弁護士が被告の罪を少しでも軽くしようとするように,検察も少しでも 重くしようとする。それは別にどっちも真実を明らかにしようという 姿勢じゃなくて,両極端の立場から物事を述べているだけ。そして その間のどこかに真実があるという前提でそれを探るのが裁判官だけど, 裁判官は捜査をするわけじゃないので,あくまでも弁護士と検察の 主張のもっともらしさから判断するしかない…ってことかな?と 少し思った。
ただいずれにせよ,警察や検察の捜査には,とにかく誰でもいいから 犯人を…という姿勢があるのではないか?という気がするのは恐ろしい。 こうやって他人事として冷静に書けるけど,自分が巻き込まれたらと 思うとかなり恐ろしいな…と思う。
…。
新型インフルエンザ…。今日は展示会に行ったのだけど,だれも マスクしてなかった。うーむ。でもマスクは売ってないのだよねぇ。 全然ってことはないけど,まだ少ない。
…。 そんな感じで。

6/11(箱ものは国の姿勢の象徴ともいえる?)
麻生さんが提唱した「国立メディア芸術総合センター(仮称)」が結構 話題になってます。与党のことは何でも反対する民主党が 「マンガ喫茶」とか言ってるのはまったくの的外れなんで 無視するとして河野太郎も批判してるそうで。河野太郎は アニメやマンガを日本の重要なコンテンツであり,外貨を稼ぐ将来性が あることをわからないのか?と思ったら,どうもよく読むと 箱を作るのではなく,人材育成に使うべきだ…とのことです。
なるほどそれはそれで一理あるな…とは思います。このメディアセンターは アニメマンガファンの間でも,箱ものと批判する人は結構いるようです。 ただわたし自身は,国がアニメやマンガを保護すべきものだと認識して 毎年継続的に予算をつけるという意思表示として,まずは箱ものを 作るというのも手ではないか?という気がしてます。育成に使うとしても 単年度で終わってしまうかもしれません。それこそ箱ものは設備投資であり, 人材育成は損益費用ですよね?。まぁ人材育成は将来への投資とも いえるんですが,経理的には費用のはず。冗談ですが。
今,マンガやアニメはサブカルチャーからペアレントカルチャーに まさに切り替わろうとしている時期なのか,いろんな戸惑いが ある様に思います。古い世代からは,サブカルチャーがメインに 出てくることを低俗と眉をしかめて理解しない人たちもいますが, 逆にどっぷりと使ってる人たちも,表に出ることにより,自分達が それを支えてきたというアイデンティティが揺らぎ,それで「国が 口出しするな」という風に言う人もいるのでしょう。そういう気持ちも わからないでもありませんが,実際に海外からは注目されていて, それなりに市場性もあるのですから,おそらくほっておいても外資が 入ってきたり,海外にフォロアーが出てきたりします。気がついたら, 国内には何も残ってなくて海外の金持ちどうして取引されていた, という風な浮世絵の二の前にならないか?という心配があります。
そういう意味でいうと,やっぱり今の居心地がいい空間が壊れてしまう 可能性がありますが,日本の社会全体が,アニメやマンガを重要な 文化として捕らえ,その形して国が支援するというのもありかな?と わたしは思っています。
まぁ実際に作ってみたらひどいものになる場合もありますけど, 地方はともかく都内の美術館とかはどこもそれなりにおもしろいので, 少なくとも最初に作られるものは,意味があるものができるんじゃないかな?と 思ったりもしてます。

6/10(インフルエンザの現状は?)
インフルエンザの警戒レベルが6に上げられそうらしい のですが,すっかりマスコミが飽きちゃって,取りあげてくれなくなったので, 海外でどういう広がり方をしてるのかが良くわかりません。…って 思ったら,夜のNHKでちょっとやっていて,南半球で広がってるのと, あと日本も一日辺りの発生数がまた上がっていてるそう。全体の 数の累積よりも,こういう発生状況の変化とか,あと病院にどれくらい 入ってるかとか,そういう情報はコンスタントに流して欲しいなぁ。
マスコミは冷静になれというのは,わたしも そう思うけど,でも,現時点で既にインフルエンザを総括してる時点で, この文章を書いているジャーナリストも,熱しやすくて冷めやすいって 自分で書いてるようなものだなぁ…と思います。
ワクチンの製造計画もまだ決めかねてる状況の 様なので,まだワクチンが出てくるのにはずいぶんまたされそう。

6/9(ネットで見つけた音楽ネタを読んでブツブツと)
ネットというよりNHKのTVニュースでも時間を割いてましたが盲目のピアニスト辻井さんがコンクールで優勝した件。 素直に良かったですねと思います。一方,こう書くと不快に思う人も いるかもしれませんが,やっぱり目が見えない分音に関しての 感覚野が広いのだろうか?とか少し思いました。いずれにせよ, それもその人の個性だと思うので,賞の価値には関係ないと思います。 これからの活躍に期待します。
次。
タモリが山下洋輔と共演の話。もしかしたら, 今は,タモリがトランペットを吹いていたとか,山下洋輔と 懇意だとかその辺の話を知らないのだろうか…と少し思いました。 昔は「今夜は最高」って番組があって,毎週トランペット吹いていたの ですけどねぇ。マイルスデイビスが来日したとき,タモリが インタビューに行ってものすごく緊張していたのを,つい最近 昔録画したビデオで見直したので,個人的にはそんなに古い話でも ないよなとちょっと思ったりもしてます。
次。
はてなで「メロディとリズムはどっちが先か?」という質問を 読んで…。専門じゃないので想像で書きますが…。
そもそも音楽でリズムとメロディが常に明確に分けられるわけでも ないよなとか,あとメロディとリズムのどっちが先というのがあっても, 音楽はどこか一箇所で生まれたわけではないだろうし,民族で 違うのでは?という気がします。
現代の音楽を見るとアフリカ系の音楽はリズムがかなり優勢だし, 西洋はメロディが優勢かな?。和声はクラシックが成立したあたり (バロック以降)に確立されたので,これが先ってことはないのは わかります。日本はどっちか?というとどうなんでしょう?。 日本の音楽は雑音を音楽表現に積極的に取り入れてるらしいのですが, それはリズムでしょうか?。
音楽表現には音色の変化というのもあって,実は和音もリズムも メロディもそれに集約することができるといえないことも ないと思うんですけどね。どんな音楽でも共通していえるのは, 時系列上の変化が音楽表現の根本ではないか?ということです。 それが周期的に繰り返されるとリズムになり,音程方向の 変化になるとメロディになるともいえますが,もちろん同時に 組み合わせることもできるので,まぁ綺麗に分かれるものかな?という 気がします。
あと違った見方で,歌から生まれた音楽と身体運動から生まれた 音楽があって,前者が旋律,後者がリズムというのも,まぁ そうかな?とも思いますが,まぁやっぱり正解はわかりません(^^;)。

6/8(ハンズとかスタバをありがたがるということ)
ライターの小野寺氏がハンズと秋葉を比べてる文を 読んで…。
わたしはハンズで店員からアドバイスを受けたことはないので, ハンズの定員はそんなことしてくれるのか?と思いました。でも,別に わたしは秋葉のガード下とか秋月とかそういうところに,そういう店員を 欲しいとは思わないなぁ…と。
そもそも秋葉に部品を買いにくるのは素人ばかりじゃない…というか, プロの技術者の方が多いでしょう。そういう人たちの知識はとっくに 店員を超えているので,逆に店員はアドバイスする必要はありません。 スペックだけをしっかりいえたらいいわけです。売るほうも,なんに 使えるかわからないものが,たくさんあるのが秋葉のいいところです。 店員が使い方を想定していて,客にそれをアドバイスしていたら, 来た人たちは同じものを作ることになり,それではプロの商売は できません。
…という話は,本質ではなく,それより思うのは,ハンズなんて 渋谷や新宿や池袋とか…それこそ都内で何箇所もあるのに,なんで 今更秋葉がハンズ化する必要があるんだろう?…ってことです。同じような 店しかないなら秋葉に行く必要がありません。そういう話じゃなくて, 秋葉の品揃えでハンズ的な店員をってことなんだろうけど,それにしても 小野寺氏が使いやすい店っていう意味で共通で,それにより失われるものが 何かないのだろうか?とも思います。
ハンズ…っていうのはよく「おらが町にあったらいいのに」という 感じでよく聞きます。先日某SNSで吉祥寺の伊勢丹が閉店するって話で, その後何が入るんだろう?っていう話になって「ハンズが欲しい」と いう意見が結構良く聞こえました。個人的にはハンズは新宿にあるし, 吉祥寺にはロフトやユザワヤもあるので,必要ないと思います。というか ハンズができてユザワヤやロフトがなくなったら,そっちの方が 困ります。
この間まで住んでいた荻窪もここ1年くらいでスタバとユニクロが 出店しましたが,あそこのビルが改装になる度に「スタバができればいい」とか 「ユニクロが来たらいい」とよく言われてましたが,わたしは 「別に…」と思ってました。むしろヴィレッジバンガードダイナーみたいな 店があるのがうれしかったり,あとモスバーガーがないことの方が 気になったり(苦笑)。まぁモスは冗談ですが,ユニクロは吉祥寺に あるし,別にスタバがなくても困らない。今は以前ほどじゃないけど, スタバも良く「近所の駅にはスタバができて」とかいう人がいて, 「それって自慢ですか?」と良く思ったものです。
好きなものがすべて自宅の最寄り駅にあったほうがうれしいという 気持ちもわからないでもありませんが,チェーン店がどんどん集まって くるというのは街の個性がなくなるってことじゃないでしょうか?。 スタバがあるよりもへんな変わったカフェとかがあるほうが楽しいし, ハンズがあるより,妙なグッズ屋とかあるほうがわたしは好きです。
スタバとハンズ,あとユニクロとかをありがたがるのって,そういう ことで素直には共感できなかったりします。店は好きですけどね。 別に地元にはなくてもいいというか。

6/7(スーパーの囲い込みはどれくらい意味があるんだろう?)
新しく引っ越した家は,バス停一個半くらい行くと 商店街があるのだけど,スーパーが二つ並んであります。 とはいえ,別にバスで通勤してるわけでもないので,週末とかは 自転車で出かければ,他のスーパーにいけないことはありません。 まぁでも普通は近いスーパーにいくわな。
でもいまスーパーってどこもポイントカード見たいのをつくって いて,囲い込みが凄い。マイバッグも値引きじゃなくてポイントで つけるところが多いようです。近所のスーパーは二軒あるので, こういう囲い込みって意味がある気がしますが,二軒並んでいると 結局はしごして安いものを安いほうで買ったりするような気がします。 近くの商店街もあるし。
そうなってくると,ポイントカードで囲い込みするのって,どれくらい 意味があるんだろう?,などと思います。
一方で,近くのスーパーはテンポ独自のクレジットか,現金じゃないと ポイントがつかなかったりするので,今のところ現金で買い物。 荻窪にいるときはほとんどカードで買い物をしていたので, なんか現金で買い物をすること自体が久しぶりな感覚です。 行くスーパーがどちらかに絞り込めたらクレジットカードを作っても いいようにも思うけど,どっちかに絞り込むことがあるのかなぁ。 セゾンカードも吉祥寺の声優とかLOFTとかではサインレスになるので, 便利で手放しにくい…っていうのもあるんだけど。
というわけで,今のところ,自分の中で買い物する場所が最適化 されておらず,毎回頭を使うので面倒。まぁこれも引越しの 醍醐味といえば醍醐味なんだけど…。

6/6(世間と私事)
いつもはニュースは他人事の様に思うこともあるのですが, ちょっと自分の経験と照らし合わせたネタを。

妊婦検診の女性が自治体により3倍も差があるって 話。わたくしごとではありますが,嫁が大阪に住んでいるので, どういうことよ?という気分です。というかリンクのニュースには 大阪だけ3万台で,他は6万以上…10万以上のもあって笑った。 大阪だけ極端に低すぎです。国からは同じだけ支給してるのに, どういう計算をしたら,こんなに差が出るんでしょう?。 手数料とかの関係で若干の差が出るのは,まぁそういうこともあるかな? とも思いますが,あまりにも差がありすぎて,理由を問いただしたいです。 まさか他の用途に使ってませんよね?。
次の話…
マイバッグにして万引きが増えたというニュース。 なんかそれは予想の範囲だろう?という気もするのですが,店としては 確かに困りますよねぇ。自分もマイバッグを持っていきますが, 最近はお金を払ったらそのままかばんに入れてもいい店もあったりして, なかなか危ういよなとも思います。もっともかばんを見せてくださいと いわれたら,拒否れないくらいしてもいいと思いますが,とはいえ 全員のかばんを見るわけにもいかないだろうし。
ところで以前,マイバッグは普及しないなぁと思っていたら,今は 結構あちこちでやってる人,見ます。杉並はレジ袋に税金がかかるので, マイバッグで値引きをしてくれる店が多いし,今住んでいる武蔵野市は ゴミ袋が市の指定なのでレジ袋をもらってももてあますので, やっぱりもらわないのでしょうか?。マイバッグでスタンプとかを くれて,ためるとお金になる店も結構あって,消費者のほうにも それなりのメリットがあるようになってから, ようやく広まった気がします。
というわけで,せっかく広まったのにまた無くなるのもなぁ…と いう気もします。もっともレジ袋自体が普及したのは,万引きしにくく するため…という面もあったようですから,なんか別の工夫が いるんでしょうねぇ。

ローカルニュースですが,福岡の岩田屋百貨店が伊勢丹の完全子会社になる とのこと。実は30年位前には熊本には「岩田屋伊勢丹百貨店」というのが あったんですよ。昔からこの二つは結構仲がいいというか。
ただ岩田屋って昔は福岡では一番のデパートという感じだったのに, どうしてここまで廃れたのかなぁ…とか思ったりもします。 別に福岡の三越が流行って…ってわけでもないだろうし。まぁ デパート自体がどこも苦しいのは伊勢丹だけが,なぜか元気…って 気もしますが。

6/5(打ち上げ)
今日は仕事が一山超えて,その一緒にやった人たちとのみに行きました。 なんか打ち上げチックに飲むのって凄く久しぶりて気がしました。
とはいえ,今日は雨。東京はここ一週間くらいずっと曇っていて 気温も低くて雨もよく降るのだけど,もしかしてもう梅雨?

6/4(表現と倫理と新しい表現)
性暴力PCアダルトゲームをソフ倫が許可しなくしたと いうニュース。個人的にはへーって程度で特になんとも思いません。 わたしも昔一時期エロゲームをやったことありますが,性暴力のシーンが メインのゲームや興味ないしやったことない。もちろん,それが 主じゃなくてもTVドラマやマンガだって男女の暴力シーンがストーリ上 出てくることはあって,アダルトゲームの場合,描写が過激に なることもありますが,そんなのなくてもいいやとも思うので, 別にそういうのを禁止されるのは特に困りません。
ですが,あくまでも自分の趣味じゃないから別に規制してもいいんじゃない?と いうのは,ちょっと身勝手すぎる気もします。確かに現実の暴力を 助長するような表現はよくないと思いますが,どの表現が現実の 暴力を助長するかはとても線引きが難しく,合意を得ることは たぶん無理でしょう。ですから,社会的に悪い影響があるからという 理由で表現を規制することを当たり前にしてしまうと, 別の規制で,もしかしたら自分が好きな作品を規制することに なるかもしれません。
…という仮定は成り立つんですが,では,自分の場合,どういう作品の どういう表現がなくなると困るのか?と想像するにどうも思いつきません。 なんだろう?例えば映画やドラマで男女の絡みがなくなっても別に 困らないし,決闘シーンがなくなっても困らない。もっと極端に 昔の日本みたいに,男だけ女だけの様になっても困らない。 映画とかドラマとかにこだわりがないからか?…じゃぁ音楽とかで, 何か特定の表現(楽器とかフレーズとか歌詞とか?)が禁止されると 困るか?…どうでしょう?
もちろんこれらはわたしが消費者というか表現の受け取り手だからで, 表現するほうからすると得意な表現が禁止されるというのは死活問題と いうことはよくわかります。ただ純粋に表現を受け取るほうの立場で いうと,規制である表現ができなくなっても,別の新しい表現は 常に出てくるし,その中によりすばらしい表現というのはあるのでは ないか?という気がして,特定の表現事態がなくなることは,そんなに 致命的な感じもしない気がします。逆にもっとエロい表現が 生まれる可能性もあるんでしょう。
もちろん,これらはわたしの勝手な思いだし,表現自体はなにがあっても 規制はすべきではない…という立場もよく理解できます。まぁ 今回の規制も流通に乗せないといことであり,表現自体が規制されたとは いえないといえばそうなんでしょうが。
結局のところ今回の件は各論(暴力規制)と全体論(表現を規制すること)に対する 自分の意見が食い違ったりするから,なかなか難しいなぁと思いました。

6/3(インフルエンザから見えたもの)
レジデント初期研修用資料さんが新型インフルエンザ雑感 を書いているのを読みました。いろいろと興味深いなと思いました。
まず医学的な話で,インフルエンザウィルスが紫外線とか湿気で 破壊されるというのは不勉強ながら知らなかったので,そんなに 脆いのか…と驚きました。これから夏になってもどこかに ウィルスが潜んでいると思っていたのですが,そうでもないのか, とりえず接触する箇所に感染者がいなくなれば安全なのかと思い, ちょっとホッとしました。
マスクの件は…,まぁ良くわからないのだけど,わたしもエビデンスを 過剰に信用する危うさみたいを現場の医師が感じているのを読んで, 少し共感しました。エビデンスってこれまで医者が個人の経験や勘で 判断していたものを,実験的データから判断するという位の 意味しかないのではないか?という気がしてます。 もちろんそれも重要ですが…,エビデンスが100%正しいというか, ちゃんとした条件で実験された結果のかは,自分も研究者だから, どうかなぁと思ったりします。
責任者の件は医療というよりは,日本の意思決定システムの問題で…。 読んで思ったのは,確かに舛添さんも麻生さんも責任者としての覚悟は 出来ていたように思うけど,肝心の方針は素人だからわからないのだな… という気がしました。そりゃそうでしょう…。でもこの場合素人が出す コメントを我々が信用できるか?というとそれもまた難しい。
今の日本はマスコミが風通しを良くしてくれたせいか,逆に意思決定の プロセスが見えすぎて,偉い人が言った事を簡単には信用できない。 舛添さんがインフルエンザで何か言っても,「それって誰から聞いた話?」 と思ってしまう。日本の社会は,組織が大きくなると結局ボトムアップに なって,だからトップは覚悟はしてくれるけど,中身は良くわからない という感じになってしまうのではないか?という気はします。 シビリアンコントロールの限界の様なものを感じるけど, まぁ専門家がトップをやっても,トップをやるような人は, 既に最前線からは退いたような人が多いので,どっちでも一緒かな。
上からの判断を待っていた地方とか…現場は,結局,責任をおそれて なんだよねぇ。上が方針を決めてくれて,それに従ってやれば 責任を取らなくて済みますから。橋下知事が,関西の事情を訴えながら 緩和を要求していたのは,わたしにはちょっと奇異に映りました。 批判という意味じゃなくて, そんなにいうなら,あなたが判断して決めればいいのに…と思いました。
地方や医療現場の事情は末端の人の方がわかるけど,でも責任は負えない, トップは覚悟があるけど現場が見えない,なんかそういう絵が浮かびました。

6/2(住所変更)
引越しと仕事の繁忙期が重なって,未だに落ち着きません。 なんか忙しいからか体重も減ってる(^^;)。
今日市役所に転入届を出したので正式に武蔵野市民になりました。 今まで職場の横だったので昼食を買いに行ったりATMを利用しに いったりしてたことありますが,窓口を使ったのは初めてです(笑)。 昼休みにでもいける距離なので便利といえば便利。
そういえば,郵便の転送は,まだ送られてこないけど,ちゃんと 転送処理されているのだろうか?と気になる。

6/1(デファクトと技術革新)
Google Waveがちょっと話題の様ですが, いくつかのページで紹介を読んだものの,イマイチピンと来ません。 メールとかIMとかブログとかWikiとかが統合されたものといわれると, そういうものはこれまでなかったっけ?と思ったり,それって Googleが提供するってことは,まずはみんなが使えるものじゃないよね?とか, そういうことを考えました。良くわからないけど。
コミュニケーションツールというのは,便利に使えることが重要とは いえますが,まずは使う仲間がいるか?が重要です。そしてこれまでの サービスより便利とかいわれても,相互接続性があればともかく, そうじゃなかったら,古いものから新しいものに乗り換えるのは, 何らかの,それを使わずにいられない…ってものが必要じゃないのかな?と 思ったりします。
Googleもそうですが,新しいコミュのケーションの提案をしている 企業とか学者は山の様にいますが,なかなかメイルや電話に とって変わるものいうものは出てきてないように思います。
インターネットの世界は分散型のフリーなネットワークで, IFで相互接続できることで成り立ってます。分散型でだれかが 支配してるわけではないので,どこかが新しいサービスを始めても, 他が同じサービスをするとは限りません。そうするとユーザは なかなか手を出さない。時々,今までなかった便利機能を だれかが発見してつけて,広まるもの(mixiとか)もありますが, つまりは従来の足し算だけではダメって事でしょう。
一方でディジタルTVや,光ファイバーとかってユーザがメリットを 感じなくても切り替わっていきます。それは,やはりその インフラをどこかが独占的に提供していて,そこの中の意思決定で 更改が始まるからでしょう。もちろん,ユーザにメリットがなかったら 反発が起こりますが,分散型の様に,ものすごく便利になるわけじゃ なくても,今までと同程度使えて安いとか…そんなものでも, まぁ,導入されていったりするようです…って地デジにすんなり 変わるのか良くわかりませんが。
でも,こう考えるとデファクトで技術革新をしてきたネットですが, そこには必ずユーザを強くひきつけるものが必要で,そうでなかったら, どこかが独占してるようなものの方が,それなりに技術革新して 行くものなんだなぁ…とふと思いました。ネット界にはオープンな 物の方が進歩するという考えが強いし,それを否定もしないのですが, 進歩はあまりしないけど,ちょっとだけ便利になるっていう 進歩の仕方だとどうなのかなぁと思います。


'09年05月に書いた日記, '09年04月に書いた日記, '09年03月に書いた日記, '09年02月に書いた日記, '09年01月に書いた日記

'08年12月に書いた日記, '08年11月に書いた日記, '08年10月に書いた日記, '08年09月に書いた日記, '08年08月に書いた日記, '08年07月に書いた日記, '08年06月に書いた日記, '08年05月に書いた日記, '08年04月に書いた日記, '08年03月に書いた日記, '08年02月に書いた日記, '08年01月に書いた日記

'07年12月に書いた日記, '07年11月に書いた日記, '07年10月に書いた日記, '07年09月に書いた日記, '07年08月に書いた日記, '07年07月に書いた日記, '07年06月に書いた日記, '07年05月に書いた日記, '07年04月に書いた日記, '07年03月に書いた日記, '07年02月に書いた日記, '07年01月に書いた日記

'06年12月に書いた日記, '06年11月に書いた日記, '06年10月に書いた日記, '06年09月に書いた日記, '06年08月に書いた日記, '06年07月に書いた日記, '06年06月に書いた日記, '06年05月に書いた日記, '06年04月に書いた日記, '06年03月に書いた日記, '06年02月に書いた日記, '06年01月に書いた日記

'05年12月に書いた日記, '05年11月に書いた日記, '05年10月に書いた日記, '05年09月に書いた日記, '05年08月に書いた日記, '05年07月に書いた日記, '05年06月に書いた日記, '05年05月に書いた日記, '05年04月に書いた日記, '05年03月に書いた日記, '05年02月に書いた日記, '05年01月に書いた日記

'04年12月に書いた日記, '04年11月に書いた日記, '04年10月に書いた日記, '04年09月に書いた日記, '04年08月に書いた日記, '04年07月に書いた日記, '04年06月に書いた日記, '04年05月に書いた日記, '04年04月に書いた日記, '04年03月に書いた日記, '04年02月に書いた日記, '04年01月に書いた日記

'03年12月に書いた日記, '03年11月に書いた日記, '03年10月に書いた日記, '03年09月に書いた日記, '03年08月に書いた日記, '03年07月に書いた日記, '03年06月に書いた日記, '03年05月に書いた日記, '03年04月に書いた日記, '03年03月に書いた日記, '03年02月に書いた日記, '03年01月に書いた日記

'02年12月に書いた日記, '02年11月に書いた日記, '02年10月に書いた日記, '02年09月に書いた日記, '02年08月に書いた日記, '02年07月に書いた日記, '02年06月に書いた日記, '02年05月に書いた日記, '02年04月に書いた日記, '02年03月に書いた日記, '02年02月に書いた日記, '02年01月に書いた日記

'01年12月に書いた日記, '01年11月に書いた日記, '01年10月に書いた日記, '01年09月に書いた日記, '01年08月に書いた日記, '01年07月に書いた日記, '01年06月に書いた日記, '01年05月に書いた日記, '01年04月に書いた日記, '01年03月に書いた日記, '01年02月に書いた日記, '01年01月に書いた日記

'00年12月に書いた日記, '00年11月に書いた日記, '00年10月に書いた日記, '00年09月に書いた日記, '00年08月に書いた日記, '00年07月に書いた日記, '00年06月に書いた日記, '00年05月に書いた日記, '00年04月に書いた日記, '00年03月に書いた日記, '00年02月に書いた日記, '00年01月に書いた日記

'99年12月に書いた日記, '99年11月に書いた日記, '99年10月に書いた日記, '99年09月に書いた日記, '99年08月に書いた日記, '99年07月に書いた日記, '99年06月に書いた日記, '99年05月に書いた日記, '99年04月に書いた日記, '99年03月に書いた日記, '99年02月に書いた日記, '99年01月に書いた日記

'98年12月に書いた日記, '98年11月に書いた日記, '98年10月に書いた日記, '98年09月に書いた日記, '98年08月に書いた日記, '98年07月に書いた日記, '98年06月に書いた日記, '98年05月に書いた日記, '98年04月に書いた日記, '98年03月に書いた日記, '98年02月に書いた日記, '98年01月に書いた日記

たろのページへ戻る

(C) 2009 TARO. All right reserved