2011年11月の日記&雑感


だらだら書いた日記です。
日記中のURLはメンテしないので,切れてる場合もあります。 あしからず。


11/30(自動車を中心とした国)
最近どうも車や交通関係の話題が多い気がする。自転車の そうこう区分の話とかが身近な問題として気になってますが, その他にも自動車の税金の話が話題になっていたりします。あと トヨタの86が復活で若い人にアピールとか,まぁいろいろ。
なんかいろんなところで押し合い引っ張り合いをしてるように 見えて興味深いです。それぞれはバラバラのことのように見えて, 実は要は車が売れてない…って事,特に若い人が車を買わないって 事が効いてきてるのかな…と。
車が売れなくて困る,とくに若い人が車を買ってくれない…って 事を問題にする人からすると,自動車関連税が高すぎるのを 何とかしたい。なんとかすると少し車が売れるかも知れない… という事で,難癖をつけてるのかも知れません。自転車が歩道を 走れなくするというのも,もしかしたら,自転車が便利すぎるから, 歩道から追い出したり,取締を強化して,乗る人を減らして, やっぱり自動車で買い物にで歩いて欲しいという思惑も あるのかも知れません。86という安価なスポーツカーとかいうのも 若い人に車を売りたい…ということでしょう。
とはいえ,なんとなく少し車に配慮し過ぎじゃないか?という気が しないでもありません。車に多くの税金がかかってるのは事実ですが, 街を見渡すと,土地の多くが自動車の道路のために割かれ, 道路標識や駐車場など物凄く公共の設備や費用を使ってます。 歩行者も歩道がありますが,専用の道路を殆んど持たない 自転車からすると,その金と土地を自転車にも回せよ…, そうすれば自転車ももっと安全に走れるよ,と言いたくなるような 気がします。若者に車を売りたいのも,取得金額よりも, 駐車場等の維持費の方が遥かに問題です。あと都市部においては そこまで車が必要ですか?と思いますし,地方は逆に モータリゼーションが進んだせいで,車が無い人が暮せない土地が大量に 出来てしまってます。
もっとも,自動車にコストがかかるのは,流通の問題として, 結果的に車を使わない人に影響が出るのはわかるし,自動車産業は 日本では多くの雇用の確保と納税で貢献してるので,自動車産業の 衰退は,国民全体にマイナス面をもたらすのもわかるのですが…。 どうも自動車産業を支えるためにこれらの問題が今大きく 取り上げられているのでは?という気がします。ただそうならそうだと 言うべきで,取得税や道交法の問題は,本当の狙いを ごまかしているようにも思います。
結局のところ,戦後以来日本は自動車の事情に合わせ町がつくられて きた気がします。道路が全国に整備され,自動車に便利なところに 店舗や工場がつくられ,それにあわせて住宅も出来てきた。 車が衰退していくと,その前提が大きく崩れて町づくりも 変わっていかざるを得ません。でも,一方向に拡大していくことを 前提に未来を考えるのは,いつか壁にブチ当たるし,ぶり返しも あるんじゃないですかね?。今のエネルギー政策がそうであるように, ある前提で物事を決めるのは,ちょっと危険なのかも知れません。
ヨーロッパのある都市がそうであるように,市街地は公共交通機関しか 入れない様にして,そこに住む人は車を使わ(え)ないという 考え方もありかも知れません。まぁいろいろ意見や良し悪しは あるのですが,一方向にしか進めないような計画はとても 恐ろしい…というのが今回の電気政策でもそう思ったので, 車が衰退していく社会というのも,どういうものか?というのも 考えてみてもいいのかも知れません。

11/29(ネットで広く意見を見ることはできないが, 自分の気持ちはわかるのかもしれない)
大阪首長選挙に対するネットの評判を開票前に見ていたところ, 私には橋下氏に対してネガティブな意見が多くみられた。 ネット住民は橋下氏に否定的なのか?と思っていたら,実際の 選挙は圧勝だったので,やっぱりネットは世論を反映しないのだなと 思った。…同じようなことは石原知事の今年の選挙の時も, 石原知事に否定的な意見を多くみていて,でも石原知事は圧勝だったので, 同じように思った。
ところが,今回の話,ネットでは橋下氏応援で盛り上がっていた…という 意見を聞いた。どこの話?とも思ったけど,ちょっと良くわからなかった。 若い人は橋下氏応援とも書いていたのだけど,2chの話だったの だろうか?。プロフとか言われたらもうお手上げだけど,Twitterとか なら目に入ってもおかしくないのだけど。
思ったのが,もしかしたら自分で偏った意見ばかり読んでいるのかもな, ということ。わたしの場合,Twitterは何人かをフォローしていて, そこからあちこちに飛んでいく場合が多い,世の中のブログも, アンテナに登録しておいて,そこから広がっていくfacebookもしかり。 つまり情報の入り口は比較的狭いということになる。最終的に そこからニュースサイトにつながったりあちこちに行くんだけど, そこで広がるというのはたかが知れてるのかもしれない。友達の友達を 7回つなげば誰にでもつながるみたいな話を聞いたことがあるが, 案外そうでもなくて,自分の身近以外のグループまで届こうと思ったら, 結構遠いのかなぁという気がした。
あと経験があるのだけど,自分が読んで不快な意見とか,そういう サイトはあまりちゃんと読まなかったりする。ブクマしておいても, はずしてしまったり,タイトルだけみてさっと避けてしまったりもする。 だからネットで広く意見を読んでるつもりでも,あまり意識してなくても, 取捨選択し,自分がフォローしてる人は,自分と意見があってる 人ばかりになってしまう…ってことなんだろう。
…ではあるけど,わたしは石原都知事に投票したんだけどねぇ。 自分と合わない意見も結構読んでる気がするんだけど…。石原氏の場合 迷いながら入れたので,深層心理的には,批判していたのかもしれない。
というわけで,タイトル通り。ネットで世間を見てるつもりでも, 実際はとても狭い範囲しか見てないし,そこには自分の嗜好が反映されて いるんではないかな?ということ。であれば,むしろそれは自分の 深層心理であり,無意識の部分が案外見えてくるかもしれないなぁ,と いうこと。やっぱり人は自分が望んでいるものしかみない…というのは そうかもしれない…と思った。

11/28(当時の状況)
大阪の市長・知事選が話題みたいですが,スルー。大阪に 住んでないので,状況がわからない。橋下府政でどういう 実績があったかわからないし,評価のしようがありません。 まぁ御手並み拝見でしょうか。
都構想って東京都というより慎太郎知事をイメージしてるのかな? という気もするけど,慎太郎知事は都が良くなるようにという意味では 良く動いていると思う。ただ東京都以外が不利益を被っても良いという 考えを臆面も無く出すところと,彼の正義が結構片寄ってるところに, あぁーあと思うけど,都民をしてる分には頼りになる人でもある。 地方行政ってそういうものだから,他の土地の人が評価をしても しょうがないんですよね。
話は変わって。
昨日NHK特集で原発の話をやってた。日本に原発が導入され始めた頃に, 役人とか東電とかの要人をやっていた人のインタビューでした。
日本に原発を入れるために,事故が起きないことにした… みたいなことを言っていて,見てると,まぁそうだろうなぁ… と思う反面,そんなこと良くTVで言えるよなぁ…とも思い, どうやってNHKはこういう言葉を引き出せるんだろう?と不思議に思った。 どう考えても,顰蹙を買うようなことを言っていて,カメラが回って ないならともかく,良く喋ったよな。ロングインタビューをずっと回して, ポロリといったところを切出したんでしょうか?。
どうしてそうなったのか,今一つわからなかったけど,とにかく日本に 原発を導入するということが決まっていて,その為に,つまり原発を 容認するために,保安院も,安全基準も想定もつくられていった気がします。 アメリカでは原発の周りは低人口地帯にするのに日本では低人口地帯を つくるのは無理だから,事故は起きないことにした…みたいな流れがあり, そりゃ強引すぎる…と思った。でも,結論が決まっていて,それにあわせて 説明を作っていく…なんていうのは,会社でも行われて…というか, 学術研究でも普通は仮説をつくって,それを証明するために実験をする わけで,そういうことは普通に行われているわけです。
でも原発の問題は,事故が起きないという想定が結果的に 間違いだったということ。マグニチュード9の地震があそこで 起きなかったら,それは証明されなかったかも知れないわけで, 当時「まぁ大丈夫だろう」と思われたとしても, 不思議じゃありません。年金制度だって国債発行だって, 企業におけるムチャな投資とかだって,自分の時代や自分の 任期中は大丈夫だろう…なんて感じで,みんな動いているわけで, 原発政策の要人がそう考えても,おかしくはありません, というか普通の手法だったのでしょう。
余談ですが,わたしは原発事故は災害じゃなくて操作ミスなどの 人為的なミスで起きるんでは?と以前は思ってました。 以前書きましたが。
さて,そうなると疑問なのはなぜ原発導入ありきになって しまったんだろう…ということ。当時の状況は良くわからないのですが, やっぱり電気不足が不安だったんでしょう。黒部ダムだって, 戦後間もなく日本では電力不足の停電が起きていた中で作られたわけです。 ダムだって今は自然破壊と言われますが,そこまでして つくらなくてはいけない状況だったのでしょう。 火力発電は海外からの石油の輸入に頼っていて,太平洋戦争時に 石油を絶たれた日本としては,あまり石油は当てにならないと いう考えがあったのかもしれません。折しも中東では戦後以来ずっと 紛争が続いていたので,なおさらそうおもったと言われればそうかな… と思います。
先日東電が来年の夏も計画停電はしなくて良いと試算を 発表したら「それ見たことか」と反応した人が多かったようですが, そういう人は,地球温暖化の問題とかはどう考えているんでしょう。 つい一年まで,日本は25%削減するとか言ってたんですよね。 火力発電を増強してそれが達成できるとはとても思えません。
二酸化炭素削減と言っている人と,原発反対と言っている人が 異っていればいいのですが,同じ人も多いように思います。
まぁこう書くとわたしが原発に賛成してるように見えますが, そうじゃなくて,わたしは原発を減らし,新エネルギー開発に 投資をすべきだと思ってます。ただそれだってどんな リスクがあるかわからないわけです。新エネルギーにとんでもない 問題があった場合,今,それに賛成した人達は,未来において, また叩かれるのでしょうか?
なぜその時そういう判断をしたか?というのは,良く考えないと, 後からとやかく言っても,同じ間違いをまたしてしまいます。 そういう意味で言うと,当事者以外は批判も反省もあまり意味がなく, ただ過去の過ちとして勉強するくらいしか出来ないのではないか? という気がします。
そしてそれでも,人は何かを選ばないと先には進めないのです。

11/27(危険な選択は時代で変わる)
昨日予防接種を受けたと書きました。子供が出来てインフルエンザの 予防接種を受けるようになったので今年で三年連続。でもそれ以前は おそらく大学に入って以来受けていなかった気がします。高校の時 受けたかどうかも良く覚えてません。ただ小学校の頃に何かの予防注射を 受けた記憶があります。ただ病院じゃなくて学校で受けたような, そんな記憶があります。インフルエンザだったかどうかは謎。
その時の記憶で,一本の注射で何人かまとめて注射を受けてました。 そう集団接種です。今でこそ注射針を使いまわすなんてご法度で, 予防注射だろうが,病気の治療だろうが,採血だろうが,使った 針は医者ですら素手では触らずに捨ててます。あの大量の針は どう処理されるんだろう?。溶かして金属かなにかにするんでしょうか?。
話がそれました。今は注射針経由の感染を恐れますが,当時は そういう認識はありませんでした。多くの人はそういう認識はなく, おそらく多くの子供たちに予防注射をすることを優先して, 針も使いまわしたのでしょう。もちろん専門家の中には針で 病気が感染するという可能性を疑っていた人もいるでしょうが, あまり定説になってなかったのかもしれないし,それより 感染症の方がまだまだ恐ろしかったのかもしれません。そういえば 戦後間もなく子供に散布されたDDTも,いまは人体に使うには 危険と言われてますが,当時は,危険性を認知してなかったし, それよりダニやしらみによる病気の感染を抑えるのは効果が あったのだろうと思われます。
今考えたらトンでもない…と思われるような処置が以前されたいた というのは,その危険性がわかってなかった場合,または, その危険性よりももっと危険なことがあって,それを抑えるために 優先した…ということがあるように思います。いまだともっと 有効な手立てがあっても,当時わかってなかったという場合も あります。私は小学校に入るくらいのとき,当時は昭和40年代, 扁桃腺の手術を受けましたが血が止まらず200ccの輸血を受けました。 そのせいで,献血が出来なくなってます。その後の検査でB型も C型も肝炎ウィルスは持ってないことはわかってるんですが。 で,5年前に膵臓を取り出すような手術をしたから,また輸血を したかというとしませんでした。今は自分が出した血をまた集めて たぶん精製かなにかして,体に戻す方法があるそうです。人工 血液もある程度使えます。手術前の説明でも,それらを優先し, 駄目な場合だけ輸血をすると聞いてました。輸血のリスクの 考えるようになったということでしょう。ただそれでも輸血を しないと助からない場合は,輸血をします。だから今でも 献血では血が足りないと言ってます。
つまり何が安全で何が危険かは時代で認識が変わります。また 危険なことも,それより危険なことを防ぐために使用されることも あります。それはある意味仕方がないと思います。それを 後になって,あの時危険なことをした…というのは,すこし 無理があるように思います。いや,むしろ私は絶対安全なこと なんってそうそうないのでは?という気もしてます。より危険が 少ないことを選んでるだけなので,それは状況で変わるものでは ないでしょうか?。

11/26(休日)
今日はインフルエンザの予防接種を受け,あとは自宅でゆっくり していました。

11/25(空気を読めなくても行動は読める)
fujiponさんが「「しがらみ」を科学する」と いう本の書評を書いています。空気が読むのが苦手と いう人に,社会の事だって理屈で理解できるんだよと 書かれているらしいです。どうやら高校生向けに 社会心理学を説いているらしいです。
あぁ,懐かしいなぁ,この感覚。わたしもずっと人の心なんて 理解できないと思っていて,でもその人や社会の行動ルールを 全部把握すれば心を理解できなくても,対応は可能だと 思ってました。いや今でも思ってるかなぁ,自然にやってるから あまり意識しなくなってしまったけど。
わたしのホームページの古い文章に「 共感の幻想」と いうのがあるのですが,あれは結局人はインターフェースでしか 感じてるものを表現できなくて,その先でどうなってるか わからないし人それぞれなんだけど,インターフェースがあって いればとりあえずコミュニケーションは取れる…という ことをいいたかったのだと思います。やっぱりわたしも 高校ぐらいに,そういうことを感じ始め,だから相手が どういうルールで(どういう働きかけをすると,どう答えるか?)を 徹底的に知ればよい…という風に思うようになりました。
つまり私の場合,自分がこう感じるから相手もこう感じるだろうとは 思わないし,その自分の感覚を元に相手の行動を予測することは ほとんどしないのです。あまり知らない人に対しては, この人はこういうときどう行動するのだろう?と観察するし, 良く知ってる人は,その経験を元に対応します。それは心を 読んでいるのではなく単に行動を予想してるだけです。
社会に対しても自分の考えが社会の考えと近いはずだとかは 思わないし,例えば誰かの行動が集団の行動に見えてしまうことや, 意図なんか無くて,なし崩し的に進んでいくことが結構多いとか, まぁいろんなケースがありますが,こういうのも経験から ルールを見出して予想したり,受け答えたりしてます。そもそも, わたしは社会に対しても人に対しても,あまり過剰な予想や 期待をしてなくて,なったことを「あぁそういう風になるんだ」と 受け止めるようにしてるから,がっかりすることが無いと 思います。空気を読めないのじゃなくて,読むことをあまりしない。 でも,歳をとると経験から,空気は読めなくても結果は読める 場合も多いので結果的に空気が読めたようなことになってたり するんだろうなと思います。
こういうのって口にしなくても出来てる大人ってそれなりにいると 思うのですが,自分も高校の頃に結構意識していたので,高校生って こういう悩む年頃,つまり自分と他人の心の違いとかを意識して ギャップに悩むとか,つまりは「個」が確立されつつあるとか そういう時期なんだなぁと,懐かしく思ったので書いてみました。

11/24(追悼,ポール・モチアン)
日本ではほとんど話題になってないがジャズドラマーのが ポール・モチアン一昨日くらいに亡くなったそうです。80歳。
それにしても話題になってないなぁ。そんなにマイナーな存在でしょうか。
新聞的に書けば,ポール・モチアンはビル・エバンスがスコット・ラファロと トリオを組んでいた黄金時代のドラマー。またはキース・ジャレットの 最初のトリオのドラマーという表現でしょうか。ものすごいピアニストと 共演歴のある人です。わたしが始めて彼を聴いたのは25年くらい前かしら?, ポール・ブレイのアルバムの中です。そういえばブレイもすごい ピアニストです。
ただわたしがモチアンを好きになったのは,それらのピアニストとの共演では なく,彼自身のリーダーアルバムのすごく個性的なこと。特に ビル・フリゼル,ジョー・ロバーノとのトリオ,つまりギターと サックスとドラムという変則トリオで,ものすごく空間的で,アバンギャルドで でも美しい静かなアルバムを何枚も出していた活動の辺りからです。 その他にもギター二本と複数の管を使ったエレクトリック ビバップバンドとか,個性的な編成のバンドを率いていて独特の 音楽を作ってました。彼のバンドメンバーの演奏はどれも個性的でしたが, 個性的なメンバーを連れてきて,サウンドをつくっていたというより, 彼のところで才能が開花したような人も多く,どの様にモチアンが 彼らをコントロールしていたのか非常に不思議でした。
おもしろいのはモチアンの音楽って音楽と音楽じゃないところの ギリギリのところ,言い換えれば彼自身が音楽の領域を広げて いたようなところがあったことです。「えっ?これでいいの?」 というような表現がある場合もありました。また彼のドラムのプレイ自体が 技術的に難しいことをやっているというより,発想の自由さというか, うまいのか下手なのかさっぱりわからないのだけど, 結果的に聴いたことがないような音楽を作りつつ,トータルでは 非常に美しいところに仕上がってるところでしょう。
ライブを見たのは一回だけだったかも知れません。ピットインで アンコールに何度も答え,最後はおしゃべりをして帰っていったのを 覚えてます。笑顔が素敵で非常に愛敬のある人でした。 噂によると非常に人格者で,多くの人に慕われていたという話です。 80歳という,まぁ年齢的には高齢でしたが,まだ新作をどんどん 出していたわけで,しかも斬新な音楽を今でも作っていたので,残念です。
でもすばらしい音楽経験を沢山させて頂きました。ありがとうございます。

11/23(徒然)
ネットで拾った幾つかのネタ。
「イヤなことを確実に忘れる」意外な方法」。 要は書けば抽象化されて忘れるってことらしい。個人的には 心当たりがある…というか,忘れるわけではないが,冷静になる。 書くことでうっぷんがある程度吐き出せるのと,書くときに 整理して考えるので,すこし客観的に観れるようになるという感じがする。
20年ほど前,ネットを始めたばかりの頃,メイルのやり取りで, カッとなることが良くあったけど,反射的にメイルで反論を書いて, 送信する前にふっと深呼吸して,一旦消すと,今度は落ち着いた 反論が書けたりした。もういいやと思うこともあった。 そういう経験を何度かやってるうちに,書いて捨てるのは結構落ち着くのに 役立つと思った。まぁ「王様の耳はろばの耳」と一緒だと思うけど。
次。
「制限」が創造性を高める理由
」。自由を 与えられるより制限があったほうが表現しやすいという意味か?と 思ったら微妙に違っていた。というか表現しやすいのは, 制限があったほうが,逸脱とは何か?がわかりやすいから,つまり 取っ掛かりがあるからだったりするが,リンクは障害が あるほうが視野が広がる,つまり一歩下がって全体を見渡す, みたいな話だった。
見出しが誤解を招くというか,いろんなケースがあるのでは?と 思った。
次。
喧嘩上等のカメラ店が「ど素人」に教わった商売の極意」。 栃木のあるカメラ屋の話。素人の客に1時間以上説明をするというような店が, 凄い利益率になってるという話。なるほど,と思ったし, 結構いい話だなぁとも思ったけど,商品によるかなぁ…という気もした。 ある程度単価が高いというか生活消耗品みたいのはやっぱりだめというか。
買い物の中には店舗と仲良しになっておいたほうがいいものというのは 結構ある。車やバイクとかの様にアフターサービスが重要なものも そうだろうし,素人にとってのカメラやパソコンの様に,スペックが複雑で, 説明を詳しくしてもらいたいものとかそうだろうなぁ。
面白いのは,今は量販店に対抗するのはニッチなマニア向けの店, 例えばオタク向けの書店や日本酒に特化した酒屋とかそういうものと いうイメージもあったのだけど,取り上げられている店は,むしろ 素人をターゲットにしてるという意味で面白いなぁと思った。
ただこうやって常連になった客でも,多分量販店でフィルムと 買ったりとかはするんだと思う。それでもやっていけるような 価格設定とか,来店を促す仕組みになってるとは思うけど。
高い買い物をする人は結構店員と長く話をしたがるものだと思う。 わたしもTVやエアコンを買ったのは量販店だけど,30分は店員と しゃべっていたかな。賃貸住宅を借りるときとかは一軒2,3時間いたり した。そうなると,そこまで客に時間をかけて,逃げられないノウハウと いうか,同じものを安い所で買わせないというか,そういう何かが 必要なんだろうなと思う。

11/22(ガン治療は多かれ少なかれ賭けの様に思う)
イレッサの高裁判決が出たという件。 毎日新聞は批判的。ネットをみるとどっちもあった。
一般論的には抗癌剤に副作用があるのは当たり前だし, ドラッグラグが問題なのは事実なので,こういうことは防げない (ある意味しかたない)という言い方は出来る。でもエビデンスと かに詳しい人にはイレッサ自体が延命効果があまり無い割りに 早急に認可されたという話もある。個々の事象をみたら問題が あったのかも知れないけど,良くわからない。ただ裁判の争点 に限っていうと,判決は妥当な気もする。
自分が抗癌剤治療を受けてない事もあって,わたしは少し抗癌剤に ついて頭で考えてるんだろうなと思う。体験があればもっと 副作用の危険性や選択の切実さについてもっと感情的に 理解できるだろうから,割りきれないものを感じるかも知れない。
とはいえわたしも手術を受けるときは,死ぬかも知れないという 可能性をずっと考えてた。手術自体は普通の開腹,膵尾摘出だったから, その場で死ぬことは無いのだろうけど,麻酔の事故や, 止血の事故などの可能性はゼロではないわけで,死ぬかもとは 思っていた。入院前に自宅でみられたらまずいものを結構 捨てましたから(苦笑)。わたしは小学校1年の時と2年の時簡単な 手術だけど,全身麻酔を受けたのだけど,麻酔に落ちていくときに, 親に「このまま目が覚めないかも」と言ったらしい。 子供は寝るときに恐怖を覚えるものだけど(わたしは子供の頃そうだった), 麻酔という逆らえない眠気に普段よりその恐怖は 強かっただろうなぁと思う。
話がそれた。いずれにせよどんな医療でもリスクがある。特に癌の場合, 処置をしないと死ぬのだから,比べる方の治療もより 深刻なリスクまでターゲットになる。つまり治療がうまく行かなければ 死ぬということまで想定となる。うまく行けば,完治したり, 延命もするのだろうから,両端の差は物凄いものになる。
そういう意味で言うと,最初の社説にある「安全」とは 何なんだろう?と思う。ガンのような深刻な病気の場合安全を 選ぶのではなく,助かるための賭けの様なものがわたしには あったので。
とはいえ,「副作用ほとんどない抗がん剤」などという 能天気な見出しをつける新聞を見ると,深刻に考えることを 邪魔してるのはマスコミじゃないか?という気もする;-)。

11/21(だから僕はホームページに書く)
はてなの人が書いた 「なぜ今、ブログなのか」という文を読みました。 Twitterでは「個」を綴りづらいというのはそうだと思います。 でもだったらブログじゃなくてホームページの方がいいんじゃない?と 思ったりもします。ブログだって時系列順に文章がアップされ行き, 構成を後からいじることはとても面倒です。自分のホームページだと, 章立ての前書きと結論から書いて,後から中を入れていくとか 可能ですが,ブログでそれをやるのは大変な気がします。
まぁブログのほうか書くほうに特別の技術が要らないし, ファイルの管理をしなくていいという意味ではいいんでしょうけど, ブログの管理のしやすさと,ホームページ的な,構成の自由さを 組み合わせたような,他の新しいものを作ったほうがいいんじゃ 無いかなぁとか思います。
まぁ書かれている内容には賛同できることも多く,たぶんまた Twitterでは物足りなくて新しいサービスが生まれるとは思います。 でも,それはブログじゃないんじゃないかなぁ。わたしの 経験だと,主流のサービスが移り変わるのは,移り変わることに よって話題がリセットされて,再度新鮮な気持ちで書き込める という点が大きいと思います。そうですから,古いサービスに 回帰するのではなく,見た目が古いサービスと同じであっても, 新しいカテゴリーであることが重要な気がします。
もしあたらしいビジネスを探るのであれば,ブログ的であっても 新しい概念を取り込んで新しいサービスを模索したほうがいいように 思います。
まぁ現状ではわたしはパーマネントに個人を綴るなら, ブログよりはむしろホームページの方が適してると思うし, そういう意味ではまだまだホームページをメインコンテンツと してやっていこうと思ってます。

11/20(ぶらさがり健康器)
「ぶらさがり健康器」というと年配の人は覚えてるかもしれませんが, 家庭における鉄棒のようなもので,ぶら下がるだけのものです。 wikipediaによると昭和50年くらいからブームに なったらしく,わたしも覚えてます。自宅にはありませんでしたが。
ブームはすぐに廃れましたが,個人的にはこの健康法は結構効果が あると思っていて,今年の春に坐骨神経痛になった時に,結果的に 近くの公園で毎朝ぶら下がっていたのが功を奏してなおりました。 今の住まいにはぶら下がれるようなところが無いので,自宅に欲しいなぁと 思い,近所のお店を回ったら結果的に現品を見つけられませんでした。
流石にいまどき欲しいのは自分だけか…と思ってネットを観てると, なぜか最近ぶらさがり健康器に言及してる記事が多いように思いました。 wikipediaを観ても今年の8月にTVで取り上げられたわけですから, 再ブームが来てるのか?,それともこのTVでちょっと話題になったのか?。
ネットを観てると関西の方が店頭においてあるそうです。通販では 結構売ってるので生産はされているようですが,やっぱり関東では あまり在庫してないのでしょうか?。でももしブームがこれから 始まるのであれば,そのうちその辺の店でも見かけるようになるのかしら?とか ちょっと思い,もうしばらく様子を見るかなぁ…などと思いました。
実は入手できないなら自作か,脚立辺りで流用しようかと思って いたのですが,もうしばらく様子を見るかなぁ。

11/19(暴風雨)
今日は休日だったのですが,朝から雨。徐々にひどくなり午後からは かなり強く夜になってからは,もう暴風雨という感じだった。 まるで台風のような。おかげで買い物に行くのも一苦労でした。

11/18(要求する資格が必要か?という価値観)
結論は無く,ずっと以前からわからないなぁと思ってること。いまさら ですがちょっと書きます。
タイトルの通りです(^^;)。要は自分が出来ないことを他人に要求するのは 良いか?ということです。実は私はずっとよくないことだと思ってました。 でも以前,ある人に「当然」の様にいわれてすごくビックリしたのを 覚えてます。
確かに考えてみたら自分が出来ないことを人に要求していけないのなら, ほとんどのことを人に要求できなくなります。会社でも役割というか それぞれの人に得意分野があって,その仕事をするわけですから, 自分が出来ないことをその人にお願いするのは当然のことです。 もっと広げると,会社の経営陣,そして学者,政治家にいろいろ 人は要求をしますが,普通要求する人は自分が出来ないことを 要求します。給料上げろとか,何かを作れとか…。
でも,やっぱり私はどこかで自分の出来ないことは,少なくとも 当然のことの様には要求できない…とどこか思ってる気がします。 そうしないと,人は矛盾したことを人に要求する様になったり, 要求がエスカレートしていく様に思います。
今の世情で言うと,増税をせずに福祉を増やせとか,海外に 物を売りにくい状況にしておいて,経済的には強くあれとか矛盾する 要求がエスカレートしてますし,ある職業の人はミスをすることが 許されなかったり,どんな時でも全力で仕事をすることを求められたりとか ムチャな要求がまかり通るようになっているような気がします。
もちろん自分の専門以外のことをほかの人に要求するというのは, わたしもあるのですが,そういう場合はその仕事どれだけ大変なことか?と いうのは自分にはわからないものなので,あくまでもお願いすると いうのが正しいやり方の様な気がわたしはしてます。
自分が出来ないことを要求する人が増えて,そして自分が出来ないことを 出来るという人にやらせようとする…その結果が今の日本ですから, やっぱり行過ぎるのはまずいんじゃないかなぁ…とか思います。

11/17(自由と孤独)
フリーランスになって半年経ってこの世で一人ぼっちに なったことに気付いて究極に失敗した」という文章を読んで, 面白いなぁ…と思いました。本人は真剣なんでしょうけど。ごめんなさい。
一人で起業して自由に仕事が出来ると思ったら,人と全然会う機会がなくて, 孤独感からだんだん落ち込んでいるみたいな感じでした。企業で 働いていてわずらわしいと思っていたものから解放されたら,かえって しんどくなった…様な感じでもあります。
自分が望んでいることというのは案外わからないものだということでも ありますが,私は高校から大学ぐらいの間に,自分で選んだ選択が 結果として自分にとって辛い状況を呼んだ経験がなんどかあって そういうことを良く考えるようになりました。仕事に関しては, 仕事自体の面白さよりも職場の人間関係が案外重要だと 思ったり,人から仕事を押し付けられると嫌なことも多いが, 人の仕事を手伝っていると結構充実したり,がんばれたりすることも 多いとか…。もちろん本当に孤独が好きな人もいるかと思いますが, 人は結構社会的な存在なので,わずらわしい人間関係がまったく 無くなると結構辛い人も多いんではないでしょうか?。
というわけで,この人の心境は,そうだろうなぁ,という気がしました。
もっともこういうのも家族がいるとまた変わるんだと思います。 家族がいれば自宅にいても孤独じゃないし,子供の教育に 携わったら地域社会ともそれなりにつながりはできるので, 本当の孤独感は減ると思います。
リンクしたページは結構同じような経験をした人のコメントが 書かれていて,面白かったです。仕事以外にボランティアをやったり バイトを外でやったりとかしている人がいるのを見ると, 働くことと収入を得ることは,直接結びつくものではないのだなと つくづく思います。
定年まで会社人間だった人が,定年になったとたん孤独になるという 話とかも聞きますが,やっぱり仕事だけで人間関係を深めるのも リスクだなとも思います。自分の場合も歳をとってから,また 職場や住まいが大きく変わる可能性もあるわけで,そこで どういう人間関係が出来るんだろうなどと思うと,いろいろ 考えてしまいます。

11/16(自分が死ぬことをイメージできるか?)
先日がんによる死はましか?という 話を書きました。マシじゃないのかな?と私は思ってるってことです。 こういう話をガンじゃない人がすると「ガンの人の気持ちがわかるか?」とか 怒られそうですが,私はガンを経験したので,多少こういうことを 語ることができるという意味では特権なのかもしれません。折角 得た立場なので;-)もう少し書きます。
ある見方をすると,ガンは脳卒中や心臓病の様に不意の死亡や, 長期の寝たきりで衰えていくような病気に比べ,適度な長さで 死の準備ができるという意味でマシな部分があるかと思います。 ただ,ガンは進行すると止めることすら出来ないという意味で, 若い人がかかる場合はかなり悲劇だと思います。でも高齢に なった場合は,そういう死に方もありなのでは?と思います。
でも世の中的にはガンの撲滅というのは目標になってます。 若年性のものだけが対象かというと,高齢者にもガンの検診を勧めたり するので高齢者も対象なのでしょう。そういうのを観てると, さて,人はどういう風になくなりたい…と思っているのかなぁと 思います。みなさん,どういう風に死にたいと思ってるんですか?。
良く「老衰」で死にたいとか「ぽっくり死にたい」とかいう話も 聞きますが,老衰で死ぬっていうのは,ある意味徐々に死に近づいて 行くわけで,どういう状態なんでしょう?。
私の父親は割りと高齢なので,一度聞いてみたいと思ったことが ありますが,なんとなく考えてないのかな?とか思って止めました。 まぁ洒落にならないとも思うので。高齢になって欝になる人もいるし。
そういう意味でいうと,今日読んだfujiponさんの「死にたい老人」という本の紹介は とても興味深く思いました。高齢で断食をし安楽死をしようとした 老人が空腹で辛くて断念するという実話らしいです。あぁ, この歳になっても結局人は死ぬということをあらかじめイメージ できてないものなのだな,と思いました。具体的に死ぬイメージが無いから, 断食等で綺麗に死ねるだろうと思い込んで実行し,そうもいかなくて 断念のだと。80歳を越えているなら,戦争なので死ぬ人をたくさん 見ているはずで,それでもそうなのですから, 目の前で人が死んでいくのをほとんど見てない戦後の世代等は, 本当に自分が死ぬことをイメージできないだろうなぁと思います。
もっとも私もガンになるまでは,全然わかってなかったなと 思います。良く映画などで死ぬとわかったら何をするか?などの話が でますが,実際に死ぬと思ったら,そういうことを考える気分に ならなかったし,いろいろと「想像と全然違っていた」と当時 思いました。まぁこれも現在一旦生き延びたわけですから,また 歳をとって死が見えてくると,やっぱり想像と違ったと思うかも 知れません。例えば老化が思ったより辛いとか,気分を落ち着けて 死を待つなんて出来ないよ…と思うとか,まぁそういうことはあるだろうな, と。
でも,個々の人が死をイメージできないのはしょうがないとして, なにか社会自体が死を無い物のように扱うのはどうなんだろう?とも 思います。それが都市化といえばそうなんですが。死ぬことのお手本が みえないので,良い死に方がイメージできないんだよなぁとか 時々思います。

11/15(クリスマスプレゼント)
世の中は11月からクリスマス商戦らしいですが,なぜか我が家では早々に プレゼント交換をしてしまいました。まぁ一つはアップル製品を 買ったというのと,もう一方は冬の服だったので。アップル製品は どうせ待っても定価売りだし,服は寒くなる前に買っておこうという事で。
というわけで,今年の大きな出費は終了。ボーナスが入ってきてないので, ある意味苦しい?。まぁカードから落ちるのは,その頃だからいいか,と いう感じでもあります。
アップル,なにかキャンペーンとかするかなぁ。

11/14(子供に休ませるのは?)
「子供を平日欠席させてディズニーランドに… ありでしょうか?」という質問。同じような状況だと,私も 悩むなぁ,と思ってみたら,意外に「休んでいくだろ普通」という 意見が多くてビックリした。むしろ逆だと思ったんだけど。 ちなみにこの記事をブックマークしたはてなの人は,休みの日に 行けという意見も結構多くてホッとした(苦笑)。
自分の経験を思い返すと,子供の頃に学校を休んで旅行や 遊びに行った記憶はありません。だからそんなに普通にはありえないという 感覚があります。もっとも私の場合ディズニーランドなんて いける場所じゃありませんでした。もしかしてこういう悩みって 首都圏特有のものですか?。地方の遊園地なんて休日でも そこまで混んでないし,東京に行こうと思うと日帰りは無理だから, やっぱり長期休暇が取れる時期になるし,平日にディズニーランドに行くとか いうのが首都圏特有の話だとすると,ちょっと滑稽だなぁ…とか 思います。
親としては空いている平日に遊園地に行って楽しみたいというのが あるのでしょうけど,やっぱり子供にとって学校を休んで 遊びに行くというのは,勉強で遅れるかもしれないというリスクもあるし, 他の同級生から悪い意味でうらやましがられる可能性もあるし, いい事ばかりじゃないように思います。なにかご褒美としてわかりやすい 事でもあればいいのかもしれません。例えば授業一日分,丸々 予習できているとか,テストで全科目100点取ったとか。
でも子供がディズニーランドに行きたいか?というとこれまた微妙で, 私の幼少の記憶だと,結構親と一日どこかに出かけるのは,楽しさ半分, 辛さ半分だったような気もします。大体,途中で不機嫌になって かえりたくなっていたように思います。だから平日にディズニーランドに 行きたいというのは親の願望かもしれなくて,もしくは親が子供を 喜ばせようと思っていてから回りしてるのかもしれません。
うちの場合,子供の都合関係なく,私たちはあちこち子供をつれて 遊びまわってますが…。子供の都合無視なので,親自身は最後まで 楽しそうにしておこうとは思ってますが。
結論としては良くわかりません。子供がそういう歳になったときに, 子供の様子を見て考えるかなぁ…という感じです。一般論的には 語れることってないのかなぁと思います。平日じゃなくても, 夏休み冬休み春休みってあるんだから,そっちにあわせて会社のほうを 休めばいいかなとも思いますが。

11/13(会食)
昨日の旅行継続中。
今日は昼も夜も友人と会食みたいな感じでした。

11/12(終わり)
家族三人の小旅行中につき日記は簡単に。
今日から旅行。時間ギリギリになってしまい結構あたふた。 移動に時間がかかりちょっと大変。一瞬緊張した空気になった 気がするけど,最終的には,まぁ楽しかったって事で, 終わりよければすべてよし。

11/11(イイネ!)
先日「批判的な意見ばかり言う人が多い」と 書きました。そこでfacebookにイイネボタンがあるのは皮肉だよなと 書きましたが,イイネボタン自体はいい仕掛けともいえます。 でもワンクリックで押すくらい簡単にしないと人はなかなか イイネとは言わないという意味だとやっぱり皮肉だよなぁとも 思います。
良く思うのは「意見を言う=批判する」事だと思ってる人が結構 多いんじゃないかということ。「何かご意見は」というと,まず 悪いところを一生懸命さがして指摘しようとする。イイネと 一言言えばいいのになかなか言わない。言うと参ったということに なるとでも思ってるんだろうか?とも思いますが,良くわかりません。
前も書いたけど音楽の批評をしようとすると,こういう風に悪いところだけ 列記する人が結構いて,それって読んでるほうはちっとも面白くなくて 閉口しました。音楽に限らず映画や漫画,アニメの感想をネットに 書いている人の中には悪いところだけ書いている人が結構いて, やはり面白くありません。まぁ逆にどんなひどい作品でも いいところを探して挙げてる人を見ると,偉いなぁとも思うのですが。
実際の会話のテクニックでも,褒めるのを最初にもってくると, その後会話が弾んでよいことの方が多いです。悪い点が気になっても, まず「いいね。でも…」と続けるほうが相手が警戒感を減らすので, 会話が活発になります。悪いところから挙げていくと,だんだん相手が 萎縮したり怒ったりして,人間関係が悪くなります。そういう意味で, イイネと最初に言うことは大事なのですが,それをできない人が 結構多い様に思います。
「良い」というのも立派な意見です。確かに悪いところを列記する 方が,しゃべることが増えるのかもしれませんが,悪いことを 挙げて意見を述べるのは実は簡単なことで,わたしとかは稚拙に 思います。褒め主体でたくさん意見を言うのは結構高度で, それがうまい人を見ると「この人は褒めるのがうまいなぁ」と 感心します。
というわけで,まぁイイネボタンはある意味良い仕掛けですが, ボタンに頼らず,言葉でイイネというのも良いことだよなと 思います。一時期「へぇー」が流行ったように,イイネも 流行るといいかなと思います。

11/10(医者の役割)
医者を信じるしかないのだけど」なる文章を 読みました。お母さんが悪性リンパ腫になったのだけど,お父さんが 以前がんになって,医者に言われるまま治療を受けていたら, 結局亡くなったという経験から,今回も医者の話を聞くのに 戸惑いがあると。「医者に対する恨みみたいなことはないけれど, かといって全面的に信頼をすることもできない,という気持ちだけは 残ってしまいました。」という言葉は,納得するとともに,筆者の 人柄の良さをわたしは感じました。とにかく医者を恨む人もいるからね。
私自身は医者を全面的に信用しなくても別に医者に失礼じゃないと 思うし,でも,治療方針については結果的に言いなりにならざるを 得ないんだろうな…と思ってます。もし担当のお医者さんが信用 できなかった医者(病院)を代えるしかない。医者全体が信用できないのでは なく,その医者が自分の考えと合わなかっただけだろうな,と 思います。
わたしは結構な大病院で手術を受けましたが,担当の先生は 一日何本も手術をして,その後は回診したり,外来を受けたりと, とにかく忙しそうでした。手術前の説明は2時間くらいかけて じっくりと話しましたが,その後の回診とか外来は10分とかまぁ そんな感じ。それでも朝早くから夜までいて大変だろうなぁと 入院中思ってました。
だいたい,わたしからすると自分のがんは命に関わって大変なことですが, 先生からみたら,毎日何本もやってくるお仕事の一つです。わたし一人に 集中するのは無理なのは良くわかってました。それでも まぁそれで良いかなぁとわたしは思っていたし,忙しいからかも しれないけど,受け答えは簡潔で,頭の回転は速そうに感じたし, わたしの病気はたくさんある案件の一つにしか過ぎないのだろうけど, でもむしろその経験の多さの方がわたしには良いと思えたのも あります。
ですから,わたしの病気も,その先生からすると,多くの経験から, 「普通こうだろう」という対処をやってきただけかもしれません。 自分に例外的なことがあるとしたら,それは自分で他の病院をあたるとか やったほうがいいのでしょう。あと精神的な悩みをその先生に ぶつけるつもりもありませんでした。退院後,再発におびえた時, わたしは手術をした大病院ではなく,近所の内科に行って, (当時便秘がひどかったので)お薬をもらったりしました。そっちの方が 話術的には人当たりも良くて,まぁ少し落ち着いたとか。
高価な自然食品には手を出しませんでしたが,青汁を飲んだり, 冷たい水を飲むのを止めたり,手洗いに気をつけたり,いろいろ やりましたが,それも病気が治るというよりは,精神的に落ち着ける ためにやってるという自覚が自分にはありました。
医者はわたしの体を切って病巣を取り出してくれるけど,心を落ち着ける 手段は自分で見つけないといけないとずっと思っていたし,暴走的に 変なことをする自分をその時は許してあげてました。
まぁ今でもそう思ってます。病気になった自分の医者はすべてを 救ってくれるわけではなし,そもそもその「お医者さん」が 常にいい人とも限らない。ミスをされたらたまらないけど, でも,不可抗力な事もあるだろうし,そもそもがんで死ぬのは 日本人としてはそんなに珍しい話でもないのです。
安心と満足は結局自分で探さなければいけなくて,病気を治すのも その一部だと思うと,医者に頼るのも一部でしかないわけです。 オカルト嫌いの人が呪いをやる人を馬鹿にするけど,わたしは 病気を病院で治しつつ,呪いで気分を落ち着けるのは何も 矛盾したことと思いません。単なる分担でしょう。まぁだから 医者を全面的には信頼できないというのはそんなに変な話ではないんじゃ ないかなぁ,そう思います。

11/9(生活していて考えたこと)
生活環境が変わると実感することが変わるので,考えも変わるのですが。
都内から横須賀に引っ越して,しかも仕事もその辺だから,都心とかに 出る機会があまりない…という状況になると,買い物が結構不便。 食べ物とかじゃなくていわゆるコンテンツ。本とかCDとか。そうなると 通販で買おうか…という気がふつふつとわいてしまう。本やCDは なるべく店舗で買うと言っていた私ですが,考え変わりそうです(苦笑)。 まぁ近隣の店舗で買えるものをわざわざ通販で買うつもりもないのですが, 遠くに行かないとないとなると。
まぁCDは数ヶ月待って,まとめて買ってもいいのですが,雑誌とか 時間が経つとなくなるので,そのうちというわけにもいきません。 でも雑誌って通販でも手に入れにくかったりして,雑誌って どうやってうってるんだろう?とちょっと思ったりしました。 まぁこの辺,しばらく悩みます。将来田舎に住んだら,もっと 大変だろうなぁ。
別の話。
自転車の事故が問題になって歩道を走るな…という流れになってますが, 子供を自転車に乗せて徘徊することが多い身としては少し悩ましいです。 聞くところによると子供を乗せた自転車は歩道を走っていいらしいのですが, じゃぁそれで妻と一緒に行動する時は,片方が車道を走ることになります。
スポーツサイクルとかに乗ってる人が車道を走るのは当然ですが,ママチャリの 人まで車道に追いやって大丈夫なんだろうか?という気がします。
それと,あまり言われませんが,歩行者も例えば自転車用の横断歩道を 歩いたり,歩道を塞ぐように歩いたりとか,事故の原因になる行動を することも結構あるように思います。とか書くと水掛け論ですが, 要は自転車も歩行者も問題がある人はあるということ。歩道は 歩行者優先だから歩行者が優遇されるのはわかりますが,自転車は 車道でも歩道でも走れる代わりに,逆にどちらでも優遇されないわけで, これで歩道から追い出されたら,もっと優遇していただけるんだろうか? とか思ったりもして。まぁ無理でしょうが。
個人的には自転車も免許制にするとかできないのかな?とか思ったりも しますが。

11/8(搾取されてるのは,たぶん自分たちじゃない)
アメリカで富裕層に対して若者たちが抗議デモを行って いましたが, アメリカの富裕層と一般の格差のグラフというのがあって 観ました。興味深いです。国全体の生産力(総生産なんでしょうか?)は 上がっているのに,実際の週給は上がってないとか, 大企業のCEOが一般労働者の1700倍の収入を得てるとか,失業者が 増えてるとか,富裕層の方が減税やその他の優遇を受けてるとか, なるほどと思いました。ある意味わかりやすい。
これだけの格差は日本ではまだまだありません。日本が そこまで行くのかはわかりません。ただ,日本の場合, あんまり日本人CEOが高額収入を得てるという感覚でも 無いのですけどね。
で,それで労働者は本来自分たちの収入になるはずだったお金が, 富裕層の政治力などで彼らに集まっていると考えるわけです。 自分たちは搾取されていると。
でも,ふと思ったんですが,富裕層が稼ぐ元となっている 企業の収入って本当にアメリカの労働者が生み出したものなんですかね?。 もしかしたらアメリカじゃなくてアジアとかその他の途上国の 人にものを作らせて,それをまたアジアやヨーロッパに売りつけて 儲けたお金だったりしませんか?と。そうなると,実は既に アメリカの労働者は搾取すらされてないということになります。
その場合,労働者がお金をよこせというのは取られた金を返せじゃ なくて,自分たちにも分け前をよこせということかもしれません。 金持ちに税金を払わせて,自分たちに保護をというと,そういう ことになります。まぁ実際はそうじゃなくて仕事を回せって 事なんでしょうが,そうなると低賃金の国の人より,自分たちの方が 有用だということを言わないといけなくなります。
可能なんでしょうか?。我々は先進国に生きていて,裕福な 生活をしてますが,それは働きと収入がみあってるんでしょうか?。 例えば1時間お店で店員をやったとします。その時得る給料は 先進国と途上国ではレートの関係で全然違う数字になります。 まぁ実際にその国の中での生活水準は同じようになるのかも しれませんが。でも,同じ生活水準でも1年ためたお金で, 海外旅行ができるのは…というと明らかに先進国の人です。 これは国の豊かさの差から来る差ですが,その差を生み出したのは 誰だろう?ということです。もしかしたら商品を設計したり 企画する人は先進国と途上国では明らかに違うのかもしれませんが, 日常的に国内で普通の仕事をしてる人はたぶんどちらも同じ。 ということは,先進国の豊かさを生み出している人は別の 人なんですよね。
ということを考えると,国の中で豊かさを得てる人からすると, 別に国内の普通の人たちはいなくてもいいってことになります。 実際に日本もアジアの低賃金の国に労働力を求めるというのは そういうことでしょう。
TPPに賛成してる人にいわせると経済はゼロサムじゃなくてサムプラス らしいので,その低賃金で雇われている人たちも,それなりに 豊かになっていてWin-Winらしいです。ですから決して先進国に 途上国が搾取されているわけではない…とのことらしいです。
話がとっちらかって来ましたが,なんかいろいろすっきりしないなぁと 思いました。金持ちには金持ちの責任があるとは思いますが,でも, 国内の低所得者がただ金持ちを批判すればいいのか?というと それで解決するんだろうか?という気もします。

11/7(機械の体)
銀河鉄道999では鉄郎は機械の体をもらって永遠の命を得ようとしましたが, 実際に機械帝国がくれるのは,機械帝国を支えるネジとしての体でした。 なので鉄郎はそれを否定します。 松本零士の作品には他にも同じようなプロットを使った作品 (大純情くんとか)あります。永遠の命の批判と機械化された社会の否定, そのいずれもが人間性を損なうものだ…という思想を感じます。 人間が社会に組込まれ機械のようになってしまうというのは, モダンタイムスにもみられる見方で,「機械(化)の社会に人が組み込まれる」 ことはそういうことだ…という思想はずいぶん昔からあります。 それを直接的にある意味表現したのがマトリクスでもあり, これは機械が人間を直接食い物(燃料)にしてます。
さて,ちょっと前に話題になったWeb2.0というのは,ユーザが ネット利用しながら情報をアップしていくことでネットが進化して いくというような考え方がみられました。いまはビッグデータと いう考えがありますが,これも世界中の巨大なデータを利用する という考え方の中にSNSの様なユーザが手を加えた情報や, ユーザの行動自身を利用するというのも含まれていて, そこからサービスを産み出すというような考え方が あるような気がします。
こういう技術は別に新しい技術じゃなくて,アマゾンの様なネット サービスでは購買履歴を利用してユーザにセールスをかけたり, その統計情報を販売戦略に利用したりしていると思われます。 検索サイトだって検索履歴を商売に利用してます。
つまり,ユーザはネットを(お金を払って)便利に使っていると いう感覚ですが,実際はネットでのサービス提供者に商売の種を 提供してることになります。つまり彼らを支えているのはユーザの 行動情報になります。
…なんとなくこれって,ユーザがネットを支える一部になって いるって事だよな…と思いました。しかもそもサービス提供者から 謝礼をもらってるわけでもない。まぁただで使えるサービスも 多いですけど。
松本零士が描いた機械社会のネジになるとかいうのは,いかにも人間に 辛い社会でしたが,案外機械のネジになる社会というのは, 人間に気づかれない様にやってくるのかも知れないな…と思いました。 まぁマトリクスでもマトリクスの社会の方が居心地がいいという人間も いましたから,ネジが悪いものとは限らないのかも知れません;-p。
iCloudでアップルは何をしようとしてるんだろうと思いながら, ふとこういうことを考えました。

11/6(「いいね」だけを述べればよいのに)
折角の休日だったけど,天気がいまひとつはっきりしなくて, 霧雨というか,それも降ってるのかやんでるのかいまひとつはっきり しない感じ。出かけようか出かけまいか,様子を見ていたら一日 終わった感じ。夕方に近所のスーパーに子供のおもちゃを 買いに行っただけ。
…。
以前から思ってることだけど,ネットとかを読んでると,何かの 対象に批判をしているというものがとても多い。特にプロじゃなくて 素人のものがそういうのが多い。そういうのを見ると「批判することが 意見を述べること」と勘違いしてるんじゃないか?と良く思う。 元々は20年以上前,ネットで音楽批評とかをしてる時に思ったの だけど。ネガティブな意見を言って,ポジティブな意見を言わない 人が多かった。それはへんだなぁとわたしは思って,ネガティブな 意見はできるだけ言わないことにした。
別にネットに限らず現実でも意見を求めると悪いところだけを 指摘する人は多いんだけど。
で,最近はそういうのが世情に対してとか,政府とか企業とかに 対してとかとにかく批判するネタを探しているだけじゃないか?と いうものが多い。批判だけの意見はとても質が低いと思うのだけど。
そういう意味じゃfacebookのボタンが「いいね」というのは, とてもいい仕組みだけど,なんか皮肉だよなぁ。
わたしの場合は批判よりも疑問は多いかな。基本的に物事の よさがわからないときは,自分の理解が足りないのだろうか?と 思うことにしてるから。

11/5(留守番)
今日は嫁が出かけたので息子とお留守番だった。お昼前に公園で 遊んだまでは良かったのだけど,自宅に帰ってから急に息子が不機嫌になり 食事も取らずに泣き出し,抱き上げもできない状態。ずっと泣いて, 泣きつかれて寝て…って感じでこっちもくたくたになってしまった。 夕方に起きた時は機嫌が治っていたけど。ふー。

11/4(ご馳走)
今日はある記念日なので,夕食は嫁がご馳走を作ってくれていた。 美味しかった。
わたしも一応花を買ってかえった。
ワインも飲んだ。ウィスキーもショットグラス一杯だけ飲んだ。 ウィスキーは手術してから初めてなので,少なくとも5年以上ぶり。 飲んだウィスキーは1995年ごろ買って封も開いていたものだったけど, たぶん味も変わってなく,美味しく飲めた。やっとウィスキーを 飲んだなぁ…とちょっと感無量。

11/3(TPPとかゴミ問題につぶやく)
ちょっとつぶやき風に。
TPP参加に反対している人でスマホやアマゾンを使っている人とか いないんでしょうか?。いたら,そういうのを使うこと自体が日本の 市場や雇用を壊してるということに気付かないんですかね?。アマゾンは 日本に法人税を払ってないとかご存知?。
TPPに参加しても日本の法人は現地に工場を持ってるので,メリットが無い と言っていた専門家?を見たけど,その状況を是と言ってるんでしょうか?。 もし国内に工場が戻ってくるのなら,国内に利はあると思うけど。
新しいことをやろうとすると文句を言うって事は,今の状況や, このままで行くとやってくる未来に満足してるって事ですかね?。 であれば,現状の方に文句を言うのは矛盾してますよね。もしもっと いい対案を出すのであればいいのですが。
農家がTPPで損失を被るのは良くわかりますし,保障で済む問題かは 良くわかりません。
個人的にはやっぱりTPPは良くわからない。最近医療制度の危機に つながるって言ってる人が多いけど,本当にそうなのかなぁ。 基本的にはまだ賛成でも反対でもありません。
やる前提で考えた場合,どういう協定にすべきだ…とかいう 意見は無いのだろうか?。
別の話
岩手の瓦礫を東京で処理する件。岩手の人のことを考えると いいことだと思うけど,子を持つ親としては複雑。福島のゴミは 福島で処理するらしいので,原発周辺の瓦礫が来ることは無いはず ですが。
こういうのは相互扶助だと思うので,自分たちが困ることも ありえるはず。ゴミなんて東京だって困ってるでしょ。他県に処理を お願いするとかなる可能性もある…ってもうなってるんだっけ?。
福島原発の電気を使っていたのは関東の人たち。ある意味,あそこに あるゴミは東京電力ユーザが出したゴミでもあるわけです。
ただ,科学的に考えて,福島原発の周辺を数年レベルで除染することは 不可能だろうから,いっそのことあそこに全部集めて封しちゃうとか いうのは駄目なんだろうか?。最新のゴミ処理施設を作って。 近くに住んでいた人には非常に悪いんだけど,それはもう, 他県や東京電力ユーザが経済的にとか他県への移住とか 支援するしかできないんじゃないだろうか?。
「東京電力に何とかさせろ」とかいう人がいるけど,何も考えてないのと 同じ。責任の所在がそこにあっても,結局彼らだけではできない 問題が多すぎて,むしろ無理が来るはず。
...てな感じのことを良く思う。文句だけを言って,先に進まない状況に なってるのに,現状に悲観的になるのは自己矛盾してるって事に 気付かないんだろうか?…。そんな人,多い気がします。

11/2(家計簿の話)
「家計簿」って、お金を貯めるのに本当に役立つの?』 なんて記事を読みました。
どうでしょうね。一言で締めると,家計簿をつけてるからお金が 貯まるんじゃなくて,お金を貯めるのが得意な人は,家計簿をつけるのも 好き…ってだけじゃないですかね?(笑)。
自分話を書くと,わたしは大学生の途中からだから,もう20年以上 家計簿をつけてます。でもお金が貯まりだしたのはここ10年位かなぁ。 わたしが家計簿をつけるのは単に記録魔だからで,日記も毎日 書いてるように,その日に何をしたかを書いていかないと気がすまない 性格だからです。昔は日記はつけてなかったので,家計簿が 日記のように使えたりもしました。元々家計簿をつけた出したのは, もちろんお金が気になったからですが,学生時代の少ない生活費だと 思ったより早くお金(生活費)が無くなり苦労するのを何度か経験する うちに,そういう時ってなんにお金を使ったんだろう?と気に なったからです。でも答えがわかったからって別にお金を使わないって わけではありません。その後就職し,徐々に自由になるお金が増えて 行きましたが,やっぱり家計簿で「今月は○○があったから お金がなくなったなぁ」という感じ,過去に使ったお金は返って こないので,別にお金は貯まりません。お金が最近貯まりだしたのは 単純に給料が歳とともに増えたからです。
ただ,こうやって長年つけていて,しかもパソコンに入れているので, 長期的な変化がわかって面白いです。それでわかるのは,わたしに関しては, 給料が安い時から今まで,決まったものに使うお金はあまり 変わらないって事。遊びに使う金とか,食費とか,そんなに変わってません。 ただある時期はお酒をコンスタントに飲んでいたとか,ライブに よくいっていたとか家計簿からは見えますけどね。
というわけで,家計簿をつけるとお金が貯まるのかはわかりません。 つきの早いうちに,今月はもう幾ら使ってるとかわかるのは ありますが,それは貯金残高とかでもわかるといえばわかり ますからね。ただ記録魔の性分か,家計簿を見直すのは楽しいです。 お金を気にするから,お金を使わなくても使ったような満足感が 得られるという意味では浪費の歯止めにはなってるかも知れません。

11/1(便利でなければいけないか?)
勉強できる人しか便利に暮らせない社会」という 文を読む。そうかなぁ,というのが感想です。
インターネットとか新しいテクノロジーを勉強し続けないと, 便利に暮らせない世の中になってる…ということを書いてます。
確かにそういう部分はあるとは思うけど,便利っていうのが 良くわからないし,ここでいう新しいテクノロジーというのも, 本当に必要なものなの?という気もします。これが「知恵」が必要と なると,少し納得度は上がります。知恵というと人付き合いとか, 世渡りとか,社会の仕組みの知識とかそういうのももろもろ 含むので。
でも,それも含めて,便利に暮らせなければいけないとか, そのために勉強しなくてはいけない…という考え自体が, 妙なプレッシャーになり,それがかえって際限の無い枯渇感に つながるんじゃない?という気もします。つまりそれは今の自分が 満ち足りていないという認識が前提になってるわけで,そうおもちゃう 事自体不幸だし,そしてそのために勉強を強いられるわけで, その結果,むしろいろんなものに騙され易くなるんじゃないですかね?。 高価な健康食品とか買ったりするのも,そもそもそういうものが あるという情報を得なければ買わないわけです。
まぁ最後に「頭空っぽにしていても生きやすい社会を!」とあるように, そっちの方がいいと書いた人は結論付けてますが,今の社会も, まぁそこまで勉強しなくても,ほとんどの人はそれなりに 生きていけているという意味では,まぁそれなりになってるのかな?とも 思ったりします。


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