なにを書こうと思っているかというと,人によって感じ方が違う という話です。もちろん,例えばある音楽を聞いてとかだったら当 たり前である。が,書きたいのはもっと知覚レベルに近い物である, 知覚ではないが。
例えば「赤い色」を見て頭の中で見えているものって結構人によっ て違うのでは?っていうのがそもそもの感じたはじめである。
この話題書こうと思ったら,結構かけそうである。が,それでは 時間がかかるのでとりあえず,目次をしたためてみる。随時書いて いきます。
- はじめに
- 見えるもの(色,形,上下左右)
- 聴こえるもの(言葉,音色,定位,ピッチ)
- 頭の中で響く音楽
- 聴覚の研究
- サウンドスケープ
- 結び:共感がないからわかり合える
はじめに
ここでいいたいことは,要は人によって感じ方が違うって ことです。というと結構当たり前の話なんですが,私が最近感じる のは結構低いレベルというか知覚に近い辺りから実は全然違うので はないか?ってことです。「音楽や絵を見て,どう感じるか?」とい うのは当然人によって違うんですが,それをいいたいのではなく, 例えば赤い色がどう見えているか?。ピアノの音がどう聴こえて いるか?という,情感以前のレベルから実は全然違うのではな いか?ということを感じるわけです。
「そんなの当たり前ではないか」といわれるのかも知れませんが, いや言葉で書くのは簡単で「当たり前」っていえるのですが,そう ですか?私は赤いものは漠然とみんなこういう風に見えるんだ,っ てずっと昔思っていたんですが。
そもそも,本当にそんなに違うんであれば,絵や音楽やその他の 表現というものは,すべて正確に伝わることはありえないっ てことになるのです。それは表現といった意図以前に,その色の違 いがこの人にはわからない,この音の違いがそもそもわからないっ ていう話ではないか?
しかし実際は「赤い」ものは「赤い」と「赤は暖かい感じがする」 などといっています。でもやっぱりそれはみんなが育つ段階で, 「これは赤で,火の色は赤いから暖かい色だ」と約束され ているからって気がするのです。でも実はあの人が赤いものを見る 時に頭に写っているのは自分では緑と同じ感じかも知れないのです (ということ自体があまり意味のある議論ではないのですが)。よく 漫画や映画で他人と体と心が入れ替わるって話があるけど,実はあ あいうことが実際に起きたら,もう色だの音だの感覚だの全部違う ものになって,どうしようもないのではないだろうか?と思ったり もします。
というわけで,ここから先はそれぞれの感覚がどうちがうのかし ら?って話を勝手に書きます。これは別に調査とか研究とかしたわ けではないので,間違いだらけかも知れませんが,書きます。そし てどうしてこういうことを意識するのか,それにどういう意味があ るのか?を最後に書きたいと思います。
見えるもの(色,形,上下)
私は職業柄,音の事は良く考えるのですが,意外に感じ方の違い を明確に感じたのは最初色でした。ずっと前から漠然と「赤を赤と いうのは赤いものを赤いという風に約束されているからであって, 実際にどう見えているかはわからない」と考えていたのですが,そ の違いを感じる例が具体的になかったのです。
で最初に感じたのは色覚の試験です。いわゆる健康診断で,いろ んな色が斑みたいになっていて,文字を作っているテスト。私はあ の試験で見えないことはないのですが,隣にいた奴が見えなかった。 例えば薄い緑と赤の斑で数字を書いていたりしたやつだったりする のですが,その人はどうもそういうのが苦手らしかったのです。で もその人に聞くと決して色盲ではなく,色はわかるとのこと。つま り紛らわしい色の組み合わせとかが,私とは違っていたってことで す。
それまで,色なんて皆同じに感じると思っていたので,結構ショッ クでした。だとすると例えば黒地と黄色の文字とかの組み合わせと か大抵の場合良く目立つのですが,そう感じない人もいるのかも知 れません。いやもっと微妙な中間色の場合とか全然違うのかも。色 の違いの距離感とか全然違うのかも。で,もっと考えると実は色な んて全く違う風に感じているのかも知れないと思ったわけです。
そう考え出すと,もうすべての感覚を疑ってしまいます。まっす ぐという形も違う風に見えているのか?形とか触れるものですが, でも目に写っているものは違うのかも知れません。
昔こういう話を聞いたことがあります。「左右が逆に見えるメガ ネをずっとかけて生活すると最初歩くこともできないが,しばらく 経つと普通に生活できるようになる」。これまた聞きなのでどこま で本当か良くわからないのですが,つまり触ったものと一致しない 見え方をするものでさえ,そのうち正常になる,つまり絶対的なも のではないということです。
聴こえるもの(言葉,音色,定位,ピッチ)
実は言葉のことを考えると,やはり知覚レベル(まぁ正確には違う んですが)から個人(言語)差があるのは如実に感じられるように思 います。英語をやった日本人だったらだれでも感じるであろう"r" と"l"の発音の違い,"th"と"su"の違い,"b"と"v"の違いなど,確 かに弁別はできるんですが,それが最初から違ったものとほと んど強制的に感じることは日本人には困難です(訓練すれば別 ですが)。でも英語圏の人だと「なんでこれが一緒に聴こえるの?」っ て感じみたいです。
そもそも私達は言葉を聞くと,「言葉」として聞いてしまいます が(「あ」なら「あ」とか),実は音響的には,結構違っていても, ある言葉に自動的にカテゴライズするようです。で当然ですが,そ のカテゴライズの仕方が言語や個人で違うみたいです。
さて,もうちょっと広げると音色ってことになるんですが,音色っ ていうのは音の違いみたいなものです(正確にはピッチと大きさを 除いた音のキャラクタなんですが)。もちろん言語の影響を凄く受 けているわけで,犬が鳴いているのを聞いて日本人は「わんわん」 と聴こえるけど,英語では「バウワウ」と聴こえるとかの違いがあ ります。音色評価の実験とかやってると,うまい人は音色の特徴を 掴むのがうまい,決して感覚器がすぐれているわけではない,と感 じます。普段我々が聞きのがしている部分を掴むがうまいんですね。 逆に多分我々が普段聞きのがしている部分を凄く重要に感じる人も いると思います。音って気になり出したら気になる様で,下手をす るとノイローゼとかなるんですが,電車の中のヘッドホンの音洩れ, 携帯電話,電気器具から出るハム,隣のピアノや足音,こういうのっ て多分人によって頭の中を支配する強さが全然ちがって,ある人に はもの凄く気になる様に既に神経が適応しているのだとおもいます。 だからノイローゼになるっていうのは,気にならない人には共感し 難いけど,やっぱり理解はしないといけないでしょう。
私は仕事で定位関係の研究をしているのですが,定位の研究をやっ てると,定位がほとんどわかんない人がいるってことが最近わかり ました。もちろん人工的に負荷した定位感がわからないというのは, その手法が不十分ってことなのでしょうが,そうではなく,実際に その人の後ろからスピーカで音を鳴らしてもわからないという人が います。そもそも電子的な音は定位がわかりにくいんですが(電話 の呼出音とか),スピーカから人間の声とかだしてもわからないと いう人がいます。で,この人が耳が悪いのか?というとそうでもな いんです。それこそ絶対音感がバリバリの人だったりもするのです。 というかちょっとそれと関係あるのかしら?と思ったりもしてます が,これは後ほど。
で,ピッチの話です。そもそもこのコラムを書こうと思ったのは, ちょっと前に出版された「絶対音感」(最相葉月著/小学館)という 本を読んだというのが結構大きなきっかけです。その本を読むと絶 対音感を持っている人の感じ方みたいのがだいぶわかります(本当 はその逆「絶対音感を持ってない人の感じ方」も書くともっと深い 内容になったような気がするんですが)。とはいえ私の周りには昔 から結構絶対音感を持ってる人いたんですが,あまりここまで突っ 込んで考えてませんでした。もちろんいろんなレベルがあるんです が,極端な話,楽器の音が言葉みたいに聴こえるみたいなんですね。 通常の人と「あいうえお」というとしっかり,その言葉にカテゴラ イズできて知覚されるように,ピアノの音が「ドミソ」といってる ように聴こえるみたいです。歌の歌詞が聞けないっという人もいる ようですから,本当にそういう風に聴こえるんでしょう。もちろん チューニングがずれると気持ち悪くて聞けない人は,律の違いで聴 こえ方が違うっていう人もいます。そもそも中世の西洋音楽は律や 調の違いで曲のキャラクタを出していたようで,クラシックをやっ てる人はその辺が敏感というか,逆に移調すると,別の曲として認 識する人が結構いるようです。昔は例えば絶対音感がある人も自分 と同じように音楽は聴こえていて,その上にピッチがわかるのでは? と思っていたのですが,どうやらそうではなくそもそもの聴こえ方 が違う様です。
で,さっきの話に戻ると,絶対音感っが強力な人って逆に音色の 微妙な違いとかに注意がいきにくいんじゃないですかね?だから定 位とかに鈍感な人になってしまうのではないかと,最近思います (まだ仮説レベルね)。
頭の中で響く音楽
こんな感じですから,やっぱり音楽はみんな違う風に聴こえてる んだろうな,と思います。絶対音感がある人の話は上に書いてます が,それ以外でも結構違うようです。最近気づいたのですが,私は 歌ものを聴く時全然歌詞を聴いてないようです。カラオケで歌う時 も歌っているのに,後でどんな歌詞だったか憶えてない。多分歌っ てるその時は7単語ぐらいしか憶えてないのでしょう(笑)。逆に歌 詞ばかりを聴いている人もいるようです。どうも同時に両方っとい う人はあまりいないようで,初めて聴いた曲を論じる場合,その辺 が違う人だと全然話が合いません(^^;)。
どうなんでしょう?私は歌ものであろうが,そうでなくてもメロディ やコード進行や音色ばかり聴いてます。歌詞もたんなる音色の一つ。 で,絶対音感がないから,音程は漠然とした感じだし,コードも割 と一つの固まり的にとらえます,音色的というか。ですんで不協和 音に対しても凄く許容範囲が広いみたいです。あぁでもロックを最 近聴かないせいかうるさいのが辛くなってきました(笑)。
最近人と音楽を聴いていると,「この人にはどういう風に聴こえ ているのだろう?」と良く考えます。多分全然違うのでしょう。も ちろん訓練や慣れで変わる部分もあるし,全然変わらない部分もあ るでしょうが,やっぱり違う。そう考えると,自分の好きな曲とか がわかってもらえなくて当然で,悲しいけど,そういうものなのだ なぁと思ったりするわけです。聴覚の研究
さて,私は大学時代聴覚の研究をしてまして,現在は聴覚を直接 はやってないけど,研究の内容柄(定位感付与とかやってるんで)聴 覚の実験をやったり,また勉強したりしてます。
で聴覚で良く出てくる分析が,主観評価(被験者に音を提示して答 えさせる)実験をして統計的に分析し,説明するというもの。ほと んどの場合は,そこでの母集団は1つであり,つまりみんな同じに 扱われます。でもこれまで書いてきたことを考えると,「本当 にそれでいいのか?」と感じずにはいられません。そもそも母 集団を分けることがまず重要なのではないか?もしかしたら奇麗に 分けられないかも知れない。などと。
とかくと,これまでやってきた研究を否定しているようですが, 実は違うのです。これまでの聴覚の研究は聴覚の性能を調べるもの が主流でした。つまりどこまで小さい音が聴こえるか?とか違いが わかるか?とか。こういうのはある種「通常どう聞いているのか?」 とは次元が違います。被験者は聴くことを強要される わけですから。で,どう感じるか?,もしくはどう認識 されるか?とはちょっと違うわけです。
実際に実験をしていると実験に慣れた(訓練をうけた)被験者はか なりバラツキのない回答をすることができます。ある意味聴覚の性 能をかなり顕著に表した回答ができるわけです。人間は実は幾つか の音の聴き方を持っていて,分析的に聴く場合と,総合 的に聴く場合と,同じ音でもかなり違ったように聴こえるよう です。慣れた被験者はこの辺のコントロールもうまいですが,そう でない人は下手です。
ちょっと話が複雑になってますが(^^;),つまり人によっても感じ 方が違う,同じ人でも状態で異なる,のを統計分析するのってかな り難しいですね。聴覚の性能を調べているうちは良かったのですが, 最近聴覚的錯覚(空耳)とかの研究が進んできたり,あとやっぱり音 像定位とかの話もあって,段々知覚から認識へ研究 が移ってきている様に感じます。でもこの辺って,ちゃんと考慮さ れているのか?と思ったりもするわけです。
いやちゃんと考慮されてると思いますよ。まぁあまりちゃんとやっ てない人間がいろいろいうと恐いですね(^^;)。
定位の研究とかしていても,ある程度はともかく完全に個人差を 吸収することはやっぱり不可能な気がします。あとどんなに処理し ても駄目な人もいるように思ったりします。投げてるわけじゃない んですが(^^;)。
サウンドスケープ
最近サウンドスケープを研究?している人がいます。サウンドスケー プは音を風景的にとらえるというか,いままで意識していなかった 身の回りの音を聴いて,いろいろ考えるものです(とかいうと違うっ ていわれそうですが^^;)。まぁ正確に説明するのは難しいです。で, 聴いてどうするかというと,その辺は立場で違うようですが,文化 論を展開する人あり,自分で音を付加し街や施設に彩りを加える人 ありさまざまです。
しかしやっぱりこの辺の人たちの議論を聴いてると,感性でやっ てる。従ってそこには感性の共有がないと意味をなさない議論なの です。うまれてから聴いてきたものが違う,聴く環境も違う,身体 的にも違う,そういうものなのに多分論じる人はその辺をあまり考 慮してない。しかもサウンドスケープの場合,例えば音を付加する 場合聴くのは一人ではないわけです。論じる場合も自分のことでは ないわけです。
この辺もうちょっと考えて欲しいですね。サウンドスケープの議 論が無意味とかいってるわけではないのです。文化の違いを民族や 国では論じるのに,個人単位では論じないのか?というところが疑 問なだけです。期待はしています。
結び:共感がないからわかり合える
さて勝手なことをだらだら書いてきました。仕事ガラミのことも 多少書きましたが,基本的に確証がない話なので,疑っていただい ても結構です。一部の人の仕事を軽視するともとれるような発言も あるんですが,そういう意味ではありません。期待する部分と,あ と私自身の疑問です。ですから疑問に答えて下されば,幾らでも訂 正します。
ここまで,結局「人はそれぞれ感じ方が違って,お互いどう感じ てるなんてわかんないんだよ」という口調で論じてきました。 それはそうだと思うんですが,じゃぁ「人はわかり合えないの か?」というとそうじゃないと思います。他人を理解するには, 他人が自分と違うということをまずわからないと駄目だといいたい のです。
人が自分と違う風にものを見,聴き,そして感じているというこ とがわかれば,自分の感性をただ感じたままに押しつけるというこ とが無意味だとわかります。自分が平気なものが相手に嫌だったり 逆だったりするのは,相手の思い込み(のばあいもあるけど^^;)で はなくその人にとっては,全然違うものとして感じているから,そ れがかなり感覚のレベルからそう感じている可能性もあるわけです。 自分がいいと思う音楽が通じないのもそういう場合もあるかも知れ ません。
でもお互いがお互いが違う風に感じるのだと理解すれば,相手が どう感じているかを考慮しながら接することができます。そこには 一種の思いやりや余裕が生まれると思います。自分の話がわかって もらえなくても,当然なのですから。そしてお互いその違いを意識 して,なおかついろんなことを経験して初めて「ツーカー」な仲に なれるのではないでしょうか?共感はできなくとも理解はできるはず。そしてそれが思いやり につながると思います。