「意識とは?,その3」というタイトルをつけましたが,その前の 「意識とは,その2」とか 「意識とは,その1」との続き というよりは,人間がどの様に意識や知覚や自我を感じていて, またどういう風に脳やからだが処理しているか?…,等という話なので, 「人とは?。これまでまとめ,その1」の 続きと言った方が正しい気がします。ただ「まとめ」じゃないので…。
それにしても,「これまでのまとめ」を書いてから既に5年経ってるわけで, その間にいろいろ聴いたり読んだり考えた事もあるわけで,ちょっと 今思いつくままに書いておこうかな?…という思いから書いております。 ちなみに最近読んだ本(05年5月以前)等の 影響もかなりあるかと思います。ちなみに今回書くのは自然科学的視点からで, わたしのもう一つの考えの柱である宗教的というか哲学的というか 形而上学というか,そっちからの視点はあまり使わないつもりです。
一応今わたしの頭にあることを書いてますが,結構どこかで読んだことも 含まれているので,「当たり前のこと」も結構書いてます。 「いつ当たり前になったか?」っていうのもあるので,5年前と 現時点…の差分という意味で書いておいた方がいいかとおもいますので…。
瞬間,この時
改めていうまでもありませんが,知覚・認識系…で「いまこの瞬間」と いう感覚は極めて曖昧です。時間軸信号である音ですら,内耳の神経が 発火して聴覚野を通って前頭葉(だったと思いますが)にたどり着くまでに 数十ミリ秒の時間がかかります。人間は20ミリ秒以上音がずれると 音がずれてることを認識できますが(ただし同時の場合),それ以上の 伝達遅延があります。ということは明らかに認識の最小時間単位より 情報の伝達速度が遅いわけで,それでいて,どの時点で「今音がなっている」と 認識してるのかははっきりしてませんが,いずれにせよ言えるのは, 感覚器が刺激を受ける,脳(のどこかに)にその信号が届く,刺激を 認識する,ということは「同時には」行われないということであるのに 対し,意識(・認識として)は同時だと思うことです。
このことは,「いつどこでそれを感じているか?」ということより, その問題が思考実験や主観評価では求まらない…ということを 意味してると思ってます。ですので異なるモーダルの(例えば 音と映像)刺激を提示してその認識されるタイミングを測るとかいうのを 主観評価だけで行う実験というのは,ある段階まで意味があっても, どこかで限界がくるような気がします。ただし,順序的なものは いくらか主観評価でも求まるかもしれません(経験上,認識される 時間の前後が狂う…という経験もありますけど)。ただ,今後は 生体信号みたいのを組み合わせないと,なかなか実態はわからないのかなぁ とは思います。
意識・意思
さて,上に書いたようなこともあり,そういうわけで「いつ意思が 発生するか?」という問題はかなり難しいです。外部刺激を受けて, その刺激がいつどこで意識されるのか?,はたまた自己的な意思が いつどこで発生し,反応に結び付くのか?…。
以前認識の回路(その2)までで 書いた通り,刺激の認識については,わたしのモデルでは, 認識の出力のための信号は内部的に自己発生してるのが, 外部に出ていかないように「制御として」神経入力を用いていると。 そうであれば「意思」についても同様に内部で発生し,それを どこかで観察している…という見方でもそんなに違和感はありません。 どこかで見てる…というのは 前野隆司先生の本に書かれてた話ですが,そういう意味で, そんなに不思議ではない…ということです。
ただしでは内部で発生した「意思の素」はどこでどういう風に発生するか というと,場所はわかりませんが,内部で過去の記憶を元にぐるぐると 自己増殖したり刺激をうけてそれがまた変わったりというのとノイズ的に 発生するものもあったりするのではないでしょうか?。そもそも脳の 神経なんていろんなところに繋がっているので,お互いに影響を しあって,発火が起きていても不思議ではありません。
結び付き問題
さて,そうなるとではいったいどこで意識や意思や主観(自己)が 発生してるか?。「結び付き問題」というのは刺激を認識するときに 脳のいろんなところを通ってくるのだけど,結局どこで?認識しているのか わからない問題とわたしは理解してます(ちょっと間違ってる気もしますが)。
体の末端からの刺激は脳の後ろの方から入った後に,前頭葉に集約され, また脳全体に散っていく…という事を聞いたことがありますが, だからといって前頭葉が単体モジュールとして認識をしている…というのは どうも違うようです。
そもそも「一点ですべての認識を行う」というモデル自体が違う気が 直感としてします。コンピュータはCPU内のレジスタに情報を 蓄え,ここですべての処理を行いますが,それでもCPU自体は 各演算毎に異なる回路をもってるわけで,CPUでさえ一点に 集約している…とは言えません。まぁコンピュータを元に 人間の思考のモデルを考えるのは変な話ですが,結構コンピュータという 演算モデルに影響されている人は多いと思うので…。
結局のところ,わたしには良くわからないのですが,何となく その神経同士の繋がるパターン,伝達のパターン自体を 認識…とすることは出来ないのでしょうか?。イメージは しにくい…,やっぱり意思ってどっかで誰かが観測している…って いう風にする方がわかりやすいんですが,そうではなく,その地図とか 型自体が認識である…ということは出来ないのでしょうか?…。
この辺,もう少しうまく説明できるものが思いつかないか?…と 最近思ってます。
クオリアとは?
クオリアとは質感みたいなものですが,質感については 以前ちょっと書いてます。
その事は置いておいても上記の神経のパターンではありませんが, クオリアについても脳の神経の関係性…みたいなものではないのか?…と 少し思ってます。というか認識とか意思とは全然違うのですが, ある刺激を受けたときに,脳のいろんなところに刺激というか 発火というかそういうものが喚起され,それにしたがって, 関係ない他のところも刺激を受けたりする。そういう脳のいろんなところが ごちゃごちゃと反応しているところを経て,徐々に情報が 落されていき,最終的に明確な刺激として意識したり,言葉で 表現したりする。その情報が落される前の不安定にいろんな ところが反応しているときに,質感が感じられる…ということ ではないでしょうか?…。ちがうかなぁ…。
ミラーニューロンは共感の仕組みか?。
ミラーニューロンって自分がするときに反応するところと, 相手の動きをみて反応するところが同じ…ってことでしょうから, つまりそれは映画や相手の動きをみて共感して,感傷的に なったり追体験を感じたりする…ってことと同じというか, それによってやってるってことですよね?…。この辺はもう 定説ですかね?。
ワーキングメモリと発想
まぁこれもすでに常識でしょうが,ワーキングメモリ,つまり 一度にテーブルに並べられる記憶の多さが発想の豊かさとか 計算の早さに結び付くのでしょうね。
頭にいろんなことをおぼえていても,それを取り出して テーブルに並べないと意外に新しい発想としては 使えないような気がします。こまめに記憶を出し入れしてるので, 結構いろんな情報から物事を考えているように錯覚してますが, ワーキングメモリに並べたものと並べないものじゃリンクの させかたが全く異なるように思います。
混沌の自己解決と快感
これについては「 渾沌の不快と分ける快感」参照。この時感じている快感は 結局以下に出てくる「アレ」の事ではないか?…と。
「アレ」
アレについても「アレ」 参照のこと…。
快感と不快感
人間って「快感を求める」ための行動と「不快を逃れる」ための 行動があるように思います。この二つが集約できるのかどうかは わかりません。しかし一つの行動に対して,両方が含まれていることは 多いので,どっちの理由で行動しているかは行動している 本人でさえ混同します。しかし一般的に不快から逃れる という欲求の方が快感を求める欲求より強いと思います。ただ 不快から逃れるというのはマイナスをゼロにするだけなので, 結局ストレスがたまります。同じ行動でも快感を得られることを 意識した方がストレスはたまらない気がします。
…という話は認識の話とは違うんですけどね…,ちょっと いろいろなところに繋がるような気がするので,メモがわりに 書いておきます。この事自体はいままで何度も書いてる気がしますが。
おわりに
だいたい,今回はこんなところです。かなりいい加減に書きなぐった 気がしますが,今の時点で思ってることを書いてないと,また 混同してくるので,ここのことについて更に書くかも知れませんし, 書かないかも知れません。思いつきで書いてることがほとんどなので, 間違ってることも多いでしょうし,逆に人が言ったことをそのまま 書いている可能性もあります。その辺はご了承ください。