読書メモ(2005年5月〜6月)

最近読んだ本から…メモなどを。

書籍編

靖国問題(高橋哲哉著)(05/06/08)
昨今問題となっている靖国問題。実は意外に等の日本人が 靖国神社とはなんなのか?…というのを正しく理解していない。 その歴史,存在理由,そして靖国参拝と宗教,政教分離等の 問題,そして外交問題等…。 この本は歴史学者や宗教家ではなく哲学者であるところの 著者が哲学的な論理で靖国問題を論考するという本です。
靖国問題,靖国神社については,どれくらいの人がどれくらいの 事を知っているかはわたしはしりませんが,わたしは一応 明治にできた神社ということとか,戦没者が祀られているとか, A級戦犯も合祀されているとか,西郷隆盛は祀られてない…とか, 一宗教法人である…とかいうのは知ってました。で,そのわたしが この本を読んで,知ったことというは結構あって,そういう 意味では読んで良かったと思います。ただ感想としては,結局 論理的思考でもバイアスがかかるのだろうなぁ…ということです。
というのは,論理的思考で靖国のことを語ろうとしても結局は 資料から歴史的事実を引用するので,その選択により論考が 影響をうけてしまうということ,あと論理的に突き詰めると ある意味実現不可能なところまでいってしまって,痛み分けとか しゃんしゃんみたいなところに落せないという事です。
まずこの本でいっていることで,わたしが読んで知って 比較的驚いたことを書くと,(1)靖国神社は戦前戦中戦死した 兵士を祀ることにより,遺族・家族は悲しみを喜びへ昇華できた。 これにより国に命を捧げることを喜びと感じるようになった。 (2)A級戦犯は歴史認識の一部であり,本来は植民地主義こそが 問題である。(3)首相の靖国参拝を合憲とした司法判断はこれまでない。 しかし宗教法人を国がいじることは憲法上無理だし, 靖国神社を非宗教かすることがかえって戦前の国体へ向かう 危険性をはらんでいる。(4)死者を祀るという風習がたしかに 日本にはあるが,敵を祀っていない,戦争で被害者になった 民間人を祀っていないという意味で靖国は日本の伝統文化に 即しているわけではない。というあたりです。
(1)は靖国神社は国に命を捧げる兵士を作る装置として作られた 事を示してます。戦没者の遺族を国費で招待して天皇陛下が祈るという 行事を戦前は何度も行っていて,この時に遺族達は恍惚を感じたようです。 逆にいうと,それだけの栄誉を感じたからこそ,現在でも靖国に こだわる遺族は多いという事です。(3)の靖国の非宗教化の 危険性というのは,明治に政府は神道を国家宗教としようとしたが, 仏教とキリスト教の反対を受けた結果,「神社に詣るのは 宗教行為ではない」ということにし,神道を超宗教にしてしまったということ。 つまりある意味無宗教なわけで,無宗教な施設が国民の献身のよりどころに なる危険性を既に表しており,このことから靖国以外の非宗教施設を 作るとかえって危険である…ということを著者は指摘してます。
この辺はなるほどと思ったのですが,(2)の植民地主義の問題というのは わたしとしては,あまり共感しませんでした。つまりA級戦犯を さばいても,中国や韓国の人達を傷付けた人達がいるのは事実だと いうことですが,それをいうと結局日本以外のアメリカやイギリスも 植民地時代に不当に現地人を迫害していたわけで,植民地主義を したすべての国が罪を償うべきという議論になり,あまり現実的では ないとわたしは感じます。また組織的に行った行為を個人に おしきせるのはおかしいと思います。
そういうわけで,この著者がいう結論は,どうもわたしには 日本は徹底的に謝罪して中国にずっと頭を下げつつける…という風に 読めてしまって,そこだけが同意できませんでした。ただ 戦前における靖国の機能を考えると戦没者記念施設ですらある意味 恐ろしさを感じますが,ただアメリカやヨーロッパにもそういうものがあり 国威掲揚というか国民の意識を高めるためには利用されているのです。 哲学者的には,こういう国のような組織が国民の意思をコントロール すべきではないという意見なのかもしれませんが,人間はそんなに 賢い人ばかりではないし,実際に国の周りには国民の意思を コントロールして他国に圧力をかけている国があるわけですから, 国がまとまる事をすべて否定するには,現実は理想的ではないように わたしは思います。
というわけで,結論的にはあまり賛同はできませんでしたが, 読みやすいし,いろいろ新しいことを知ったので,まぁ読んで良かったかとは 思います。

「心理テスト」はウソでした(村上宣寛著)(05/05/29)
血液型による性格判定,ロールシャッハ・テスト,YG性格検査, 内田クレペリン検査,これらの検査が学術的,医学的, そして統計的に正しいという根拠は全くない…ということを 富山大学の村上教授が言っている本。
実はこの本を読んで,「しまった…」と思ってしまいました(^^;)…。 わたしも研究者たる端くれ,それなのに余り深いこと考えずに, 「あなたA型っぽいよね」とか言ってました。大変恥ずかしい…。
というわけで,この本はこれらの検査法が正しいという根拠は 全くない…と言うことを,かなりの毒舌っぷりで語ってます。 実名を挙げたり,これらを採用している人達を露骨に 非難しているんですが大丈夫なのだろうか?…とか思ってしまいます。
そしてそれに加えて,「バーナム効果」という現象を 紹介しています。バーナム効果は,乱暴に言うと「みんなが 当たってる」という様な心理テストをつくる方法というか, その手がかりとなる効果の事です。たしかにこの手法をきちんと 考えれば,誰でも「割と当たってるなぁ」と思う性格判断 テストがつくれそうです。良く占い師を信じ無い人が, 当たる占いをいうコツがある…とか言いますが,おそらくそれと 同じようなものでしょう。
とはいえこの著者は別に占いを批判しているわけではありません。 そちらに対しては冷ややかですが,あまり言及してません。 むしろこれらの根拠が薄い判定法が就職試験や人事評価に 使われている企業が結構ある…ということに対して,強力な 批判を行っているわけです。実際の事例で,血液型で 配属を決めていた企業もかってあったらしく,さすがに これについては血液型の話をするわたしでさえ,行き過ぎだろう?と 思いました。
ただちょっとドキッとしたのは,わたしの会社でも育成の いくつかのポイントで心理テストっぽいことをやっていたり します。もちろん心理テストだけで人事を決めてるわけではないし, 実際は面談や上司の評価でやってるので,心理テストに 左右される…ってことはほとんどやってないと思いますが…。
それからそうはいってもこの著者自身が性格判定のプログラムとかを 開発してるって事はすべての心理テストを批判してるわけではなく, 権威があるテストの中にそういうものがある…といってるだけです。 実際この本の中には有効な心理テストの条件みたいな話も あるので,そういう事に気をつければ有効なテストもあるのかも しれません。
というわけで,読んでいて結構「アチャー」と思ったんですが, 一つだけ言い訳させてもらうと,話のネタとして血液判定は あってもいいと私は思ってます。血液型により重要な何かを 決める…ってことは確かにまずいのですが,人間は人を認識するときに, 一旦類型化して把握しないと結構不安なものです。そして その中から「A型だけど(一般に言われる)A型っぽくない」という 風に認識される人格とかもあるのですから…。もちろんあくまでも 人物把握のきっかけであり,そしてたわいもない会話レベルでですが。

ちぐはぐな身体(鷲田清一著)(05/05/23)
鷲田先生の本と言えば先日 「聴く」ことの力-臨床哲学試論を読んだばかりですが, こちらは内容的には異なり「身体論」「ファッション論」に ついての本です。もともとわたしは鷲田先生を,こちらの 身体論の方で知って,「ひとはなぜ服を着るのか」とか 「モードの迷宮」を読んでいるので,今回の本の方がわたしには なじみが深い感じです。
上記の二冊のうち前者では人が服を着る理由として,人間は 自分の姿を観ることはできない。自分の顔も見えないし, 背中やお尻,わきの下…などほとんどのところが見えない。 それゆえに自分の身体イメージを明確にするために化粧をし 服を着る,髪を切り髭を剃るという様な身体加工も行う。 また身体に密着した服はあえて着ず,皮膚と布地がすれる感覚で 身体を意識する…と言うような事を書いてました。
今回の本は,基本的にはそれを肯定しつつ,もうちょっと 「ファッション」ということに重点をおいて書いている気がします。 「高校生に向けて語るつもりで書いた」とあとがきに書かれているためか, 比較的若い人のファッションについて書かれているし,具体的な デザイナーの名前と作品を挙げて,いろいろ書かれてます。 コムデギャルソンとか。
ここでの興味深い指摘は「人はいつ(幾つ)から(自主的に選んで)服を着るか?」 という問いかけです。つまり親から与えられた服を着るのではなく, 自分で選んで着るという事…。それを鷲田先生は学生が制服を崩したり 改造して着る…ということだと指摘してます。なるほど…と 思いました。それは大人から観ると非常にだらしない格好なんですが, 子供達が最初に服を意識して着るのはそういうことだとのことです。
もちろんそういう着崩すファッションは学生に特有ではなくて, 大人になっても過去の慣例を壊していく形でのファッションの変化は 多いにあり得て,その辺の話をいろんな例で説明してます。 つまりこの本では中の章のタイトルにもなっている様な「つぎはぎ」 「みっともない」「ふつりあい」というような意識がそもそも 人間に自身にあり,その身体や外見へのちぐはぐな感じを服により 説明してる様です。「等身大のファッションなんてものはない」と 言うような指摘はなかなかハッとさせられました。
余談ですが,最後に永江朗さんが書かれている解説には 「そうだよなぁ」と思うことしかり…。永江さんは「鷲田さんの 文章を読んでファッションについてとても楽になった」と 書かれていますが,わたしもそうです。鷲田さんの本を読むと, なぜ我々が着るものを選ぶのにこう苦労するのか?…ということが 良くわかり,悩んでいる自分ことを客観的に観ることが 出来るようになります。人間が自分自身の事で悩むのは当然ですが, 悩みが辛いのは「なぜ悩んでいるか」が意外に自分ではわからない からです。そういう意味で鷲田先生の本により,少なくとも悩んでいる 理由は何となくわかるようになるように思います。
今回も楽しく本を読ませて頂きました。

脳はなぜ「心」を作ったか(前野隆司著)(05/05/12)
あまり批判めいたレビューは書かない主義だったんですが, 今回は書くことにします。というのは,この本に書かれていることは, わりと同意出来るというか,以前から漠然と「そうだろうなぁ」と 思っていたことを書いてる気がして,今後ここに書かれていたことを 自分も書く可能性があり,その時にあたかも初出の様に書くと 申し訳ないので,一応ここで読んでいたことを表明するためです。 一旦そういう考えになってしまうと,もともとそう自主的に 思っていたのかそれとも読んだものに影響を受けたのか自分でも 良くわからなくなります。もともと漠然と思っていたことを うまく言葉で表現しているものに出会ったのか,それとも 読んだからそう思ったのか…は厳密にはわからないのですが。 で,同意できるのに なぜ批判めいた…という事になるかというと,書かれている 著者の仮説は,同意できるんですが,その自己評価に対しては, あまり同意できないのです。つまり本人が「この仮説はすごい」と 言ってるのに対し,わたしは「そんなのあたりまえじゃん」と 思ってしまったのでした(^^;)。
著者は人工知能などを扱うロボット工学の研究者であるのですが, 子供の頃から「自分とはなんぞや?」という形而上学的な 疑問も持っており,ある日その疑問に対してある答えを出した と言ってます。著者によればそれはコベルニクス的展開な 発想だったそうです。
その発想は意識として存在する「私」と言うものは受動的なものである, ということです(ちょっと乱暴な簡略表現でもうしわけないですが)。 例えば「意思」という点で言うと,まず意思があり行動を するのではなく,無意識が先にあり,それを意識は観測している という事を言ってます。いろいろ発想したり,知覚するのも 脳のどこかで無意識に起き,それを「私」は受動的に 観測してるということです。
じつはこの発想は私はそんなに突拍子もないとは思いませんでした。 むしろ「まぁそんなところだろうなぁ」という感じ。ただし, その勢いで著者が「脳の結び付き問題」や「クオリアの問題」も 解けてしまう…というのに関しては良くわかりませんでした。
まぁクオリアを多次元的な感覚と捕えるのはなるほど…と思いました (わたしは多次元というよりパターンという地図みたいなもの自体に 鍵があるのでは?…と思っていたりもするので)が, 結び付き問題については脳の上流に意識があろうが下流にあろうが, 結局「どこかにある」という発想である限り,現状と あまり変わらない気がします。あと無意識を観測している…と するにしても,では無意識はどのように発現するのか?…というのを 説明しないと,結局難しい問題を置き換えているだけの様にも 思います。
というわけで,まぁ割とあってると思いながら,作者が 興奮するほどすごい内容と思わなかったのですが,この作者は ロボット工学の人なので心脳問題や哲学で議論されてる 話題をうまく租借してないのかも…とも思いました(あぁ, なんか失礼で申し訳ない)。あと,これは個人的な趣味ですが,わたしは あんまり「この説はすごい」と自画自賛してる本を見ると 醒めてしまうので,ますますこういう事を思ってしまうのかも しれません。すみません。
ただ,この本で,最後の方に出てくる,「人が死を恐れる理由」とか 「<私>は永遠」とか書いていあるのは,ちょっと 取って付けたような内容であり,あまりにいただけませんでした。 この辺の論理展開は哲学や宗教の方が遥かにうまくやってると 思いますし。
…というかこの著者はおそらくこの仮説を自分で思いついたときに 「アレ」を感じてしまったのだな, と思いました。それゆえに暴走しているように感じます。 いい事書いてるんですけどね…。具体的にロボットに心を つくるという意味での発想という意味では,結構いい気がします。 でもそこに「意味」とか「価値」を載せようと思ってる事自体が, そもそも幻想なのに…。いや,「幻想」であればどうだ…という 事自体にちょっと抵抗があるのか…。
…と批判ばかりで申し訳ないです。再度書きますが,間違ったこと 書いてるとは思ってませんので。それから,わたしが考えるところの 意識みたいな話も久しぶりに書こうかという気になってます。 ここからはみえにくいページにだいぶ前に書いてますが,最近 いろいろ勉強して,多少組み直したいところもありますので…。

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる (エックハルト・トール著,あさりみちこ訳)(05/05/08)
原著は英語で「The Power Of NOW〜A Guide to Spiritual Englightenment.」。原著,翻訳ともとても有名なのか, 最近良く聞きます。またレビューを書いている人が絶賛している というのもあり,またタイトルに興味を持ったので,読んでみました。
内容は和訳の通りといえるでしょう。基本的には現在生き辛く思っている人, なんとか救われたい人が読めばいい本だと思います。「大いなる力」に 触れ,「いま」に生きること「ここ」に在る事を実感できれば, 人間はとても楽に平穏に生きられます,ということをQ&A形式で ずっと語ってます。
実はこういうことを書くと偉そうですが,わたし自身はこの本を 読んで「めから鱗が落ちた」とか「気づいた」ということは ありませんでした。むしろ「あぁ,そうそう,そうだよねぇ」とか 「なるほど,そういう表現をするのかうまいなぁ」 という感想ばかりです(^^;)。わたし自身は「悟っている」のか どうかはわかりませんが,わたしなりに「いま」とか「大いなる存在」に アクセスしたことがあるし,実際現在それなりに「楽に」生きていれている という実感があります。わたしが世界に対して思うことは「世界は それなりにわたしを祝福してくれている」とことですから(笑)。
というわけで,もしそういう境地になっていない方は,一読を お勧めします。わたし自身はこの本で,そういう風になった わけではないので,本当になっるのかは良くわかりません。
以下,一応わたしも同じことを感じた…という事を前提として, レトリカルな部分に反応。まぁ本当にわたしが感じた「アレ」と 同じなのかどうかは良くわかりませんが…。
わたしは「アレ」を正確に言語化するのはとても難しく,不可能だと 思っているので,ここまで雄弁に言葉を変え語っているのに とても感心しました。でも良く読むと別に論理的に緻密に語って いるわけでもないのですよね。実は「いま」について感じるとき, つまりココロが開くというのは最初はなかなか体験できないため, その手段として言葉を使っているのだと思います。本の中にも 正確に現わせない…と書いてあったように思います。それから 「いま」ですが,原著ではおそらく「NOW」と書かれているのでしょう。 すべて大文字の「NOW」である事から,和訳ではたんなる「いま」じゃ なく括弧付の「いま」で書いて欲しかったです。だいたい経験上, 「アレ」を体験した人は口をそろえて「いま,ここ」という 言葉を使いますが,そう思う前におもっている「いま,ここ」と ちょっとニュアンス違うように思いますし…。「どこかでもない, いつかでもないもの」という言い方も出来るかも知れないなぁ…とか 読んでいて思いました。
まぁ上記のように言葉で緻密に定義するのが不可能な事だと 思うのですが,書いている内容より,それを読んだときに 頭におきる感覚,そして「YES!」ということが大事なのかと思います。 「YES!」って感じ,いい日本語ないですよね(^^;)…。
いずれにせよ,「いま」を感じるためにいろいろ試行することも 一種の「メタ視点」を得ること,メタ視点から一気に「アレ」に 持っていく…って事なのかなぁ…とも。ゴールデンウィーク中に 読んだこれを含めて以下3冊はいずれも「メタ」だったよな…という 感想って事で,メタについては,また別途一人言にでも 書こうと思います。
あっ,この本はいい本だと思います。わたしが良く人のココロの 相談を受けるときって,結局こういう話してるよなぁ…とか とも少し思いました。まぁこんなに丁寧に言葉巧みに…では ありませんが。そういう意味ではわたしにとってもとても 参考になりました。

「聴く」ことの力-臨床哲学試論(鷲田清一著) (05/05/08)
わたしの狭い見識で述べちゃうと不適切で申し訳ないのですが, わたしが鷲田先生を知ったのは ルネッサンスジェネレーション2001でありその時は身体論みたいな 話でした。その後「モードの迷宮」や「ひとはなぜ服を着るのか」と いった著作を読み,まぁ人間が自分の体をどういうものとして 認識しているのか?…というあたりの話をおもしろく読ませて いただきました。
というあたりでわたしは先生を認識してましたが,本著作が 評判であることは聞いていました。結構売れた…という話を 聞いていたのでてっきり一般向けにわかりやすく書いた本かと 思って軽く読みはじめたら,しっかりとした哲学の本…というか 論文で大変でした(^^;)…。哲学の著作の場合,言葉に重要な 意味があるので斜め読みとかしても誤読をしてしまうものなんでしょうが, しっかり斜め読みしてしまいました。すみません(^^;)…。
というわけで,あんまり内容を把握できている自信はないので, 簡単に書きます(前置きが長いですね,すみません)。
哲学はこれまで「語る」ことを主な働きとしている。語ることで 自分を省みたり,相手を変えることができる。しかし「聴く」ことで なにかが出来るのではないか?…という「試論」をここで 行ってます。鷲田先生は哲学を机上のものとしない「臨床哲学」と いうのを提唱してますが,人に何か影響を与えるものとしての 哲学という視点を「聴く」ということに着目し書いていると いえるでしょう。
まぁ具体的にはカウンセリングみたいな話があったり, 聴くことが相手や自分におこしている影響みたいな話を いろいろ哲学のこれまでの流れをふまえて試論してるという 感じでしょうか。
あまり意識してませんでしたが,鷲田先生って現象学の人なんだな, と改めて思いました。まぁ現在の哲学者ってそういう立場の人が 多いのかも知れませんが…。そして現象学ってそういう ものかもしれませんが,ここでも「メタ」という話が出てました。

脳の中の小さな神々(茂木健一郎-歌田明弘(聞き手)) (05/05/03)
脳科学者である茂木氏に対してライターである歌田氏が口頭インタビュー するという形でつくられた本です。内容的には現在の脳科学が おかれている状況を歌田氏が外部からの立場として,そして茂木氏が 専門家以外にもわかるように丁寧にかつ正確に説明するという 内容です。とはいえ最後の方には茂木氏自身が向かい合っている 問題について徐々に触れられている…という感じでしょうか。
茂木氏の本は何冊か読みましたが,とてもおもしろいのですが, 非常に感想を書きにくい…というか茂木氏自身は自分の問題を うまく言語化できているのかも知れませんが,こちらがそれを うまく租借できないため,どうも頓珍漢な感想を書きそうな 気がして,うまく書けないなぁ…というきがしました。しかし 今回はライターである歌田氏がその辺をうまく租借したり 突っ込んでいただいているため,非常にわかりやすい本になって いるように感じました。 特に非常にうれしく思ったのが,過去の脳科学の流れから現在に いたる課題を実に丁寧に取り上げていること。とくにここ数年の 大きな変化をきちんと述べられていることです。
こういう現在の状況をしると,「脳の時代だ」などと高らかに 宣言して出版されている多くの他の書籍が実はすでに時代遅れの 考え方で書かれているのだなとわたしは思いました。何せここ10年で 従来の考え方は見事に壁にぶつかっているからです。
脳の機能を場所で説明するやり方はアプローチはいいとしても, そこから次の考えに移らないと結局問題は解けないという事 らしいです。
こういう一般にもわかりやすい内容で,かつ最前線の状況を 説明してくれる本というのは非常にうれしいものです。音響では こういう本っていま無いのですよね…。
なんとなく自分が今まで考えていたことの幾つかがそこまで 的外れでなかった…とわかったこともあり,ちょっとうれしかったりも しました。いろいろ難しい分野かとはおもいますが,興味はつきません。


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