渾沌の不快と分ける快感
日記でちらほらと書いていたような気がしますが,ちょいと残しておきたく なったので…。
コンピュータを使って世の中の情報や信号を加工するという技術を 一生懸命探していると,なかなか人間を越えられないという壁に ぶちあたります。もちろん精度という意味では機械のセンサは 人間より遥かに解像度の高いものを用意でき,人間が見分け,聞き分けが 出来ないような信号を測ることが出来る場合も多くあります。 ところがある音とある音が一緒かどうかとかある絵とある絵が 一緒かどうか?…とかいう様な課題であれば精度で解けるにしても そこにノイズが載っている場合には途端に問題が難しくなります。 また人間が同一と見なすような分け方「例えば『あ』という音」を するのも機械にはとても苦手です。
いま挙げた二つの苦手な点は若干含んでいる問題が違うのですが, 人間が楽勝で出来てコンピュータ(情報処理)がとことん苦手と いう意味では似通ってます。前記の問題でいうと,機械は混ざって しまった情報を分けることがとても苦手です。もちろん取り出すべき 片方の信号が完全にわかっている場合等には再び分けることができますし, 混ざった場合でもある程度特徴量ベースでは取り出すことは出来ます。 ただ基本的に情報処理はエントロピーを完全に減らすようには出来ないように 思え,そこに特徴量という引き算できる情報を見つけ出さない限り, 混ざったものから何かを取り出すことはほとんど出来ませんし,また 取り出してもそれは特徴量を取り出しただけであり,元の音そのものが 取り出せるわけでもありません。
話を少し変えます。音楽好きと話をしていると良く入り込む話題の中に 「ジャンル」の話題があります。まぁジャンルの話はえてして不毛に 終わることを知っているファンはあまり突き詰めてジャンルの話を しないのですが,だからと言って何万とあるバンドや曲を全部フラットに 把握している人というのはほとんどいないのではないでしょうか?。 同じような話は別に音楽に限りません。映画だって,アニメだって, マンガだってにたようなもので,この手の感想のサイトとかをみると 必ず分類をしている人たちがいます。
こういうサイトをみていて思うのは,人間というのは根本的に 「分類が好き」だなぁ…ということです。「作品には貴賤が無い」と 言う人も,周りに言うかどうかともかく自分の中ではある程度 作品にラベル付けをしていると思われます。
なぜでしょう?。よくよく考えるとおそらく人間は分類してそれに 名称をつけると気持ちいいのではないでしょうか?。もしくは 分類しないままでいると気持ち悪いのではないでしょうか?。 実際自分オリジナルである作品群を分類している人のWebとか みると非常に誇らしげです:-)。まぁ誇らしげ姿勢はいいとしても, 実際想像するにおそらく人間はあまりにも情報量が多く,そこに なんの特徴量を見いださず渾沌とした状態で置かれると大変 辛いのではないでしょうか?。実際に人間は一度に多くのものを 記憶の上に並べることは出来ません。そして入れ替わり立ち替わり, 情報を入れ替えても,一度に数個しか並べられないので全体的な 関係性をそのままでは構築できず,ずっと「理解不能のもの」と して目の前にあるのではないでしょうか?。 ところが,そういうなかからある法則を見いだし,それを 分類していくと途端にその渾沌としていた作品は綺麗に整理され, わかりやすいものになる気がします。この時に不快が解消される という意味で気持ちいいのかも知れませんし,なにか「わかった」と 思うこと自体が気持ちいいのかも知れません。
つまりここで言いたいのは人間は目の前に整理されてない情報を 大量に並べられる状態が続くといてもたってもいられなくなり, 自動的にそれを分類してしまうのではないか?…ということです。 つまり渾沌が高まるとそれを減らすように働くと。もしくは分類できない 場合は自分の意識から消してしまう…と。
ジャンルの事を考えていて思うのはジャンルというのは線をひくのではなく, 典型を挙げることだということです。典型的なロックや典型的な ジャズという風にジャンルを代表する作品を挙げることは出来ますが, どんなジャンルでもその境界で,どちらにも入るもの,どちらにも 入らないものが存在してます。そこでみんなの合意を得るような 分け方というのは実際不可能です。いかに定義をつくって 線をひこうとしても,絶対に分けられないものというのは出てくるものです。 「名前をつけることは分けることだ」とおっしゃったのは養老先生ですが, 実際に分ける際に線を引くのは非常に困難な作業のように思います。 まぁ解剖学はそれでも無理やり分けるのでしょうが…。
このことを省みると,つまり人間が物事を分類するときは,線を引いて それがどちらにはいるかを判断しているのではなく,それに含まれる 特徴量を引っ張り出し,それが他のものと強い共通点を持てば同じものだと 判断していることが推測されます。そしてその特徴量でそれを捕らえることにより, 微細なノイズは無視するようになっている気がしますし,それゆえに 大まかなカテゴリとして刺激を捕らえることができるのしょう。
つまりここまで書いたことをまとめると,例えば言葉の様に音響的には 全く違う波形であっても同じものとして把握するのも,音楽のジャンルを わけるのも同じように,特徴を自動で見いだしその典型として把握 するということなのでしょう。そしてそれは元々渾沌が大きい状態で 情報を持ち続けるとそれに我慢ができず勝手にわけてしまうという 特性から来ている気がします。なのでノイズの中から音を聞き分けるのも 実際は同じような仕組みに基づいているのではないでしょうか?。
とはいっても,実際にそれを機械でやるのはかなり難しいです。 なぜかというと,機械でそれをやる場合にはその特徴量を人間が見つけ それを機械が理解できる形で与える必要があるからです。しかし人間は おそらく外部からそれを与えられるわけではなく自分で渾沌の中から 見いだすのだと思います。自然科学や情報科学の立場から言えば,見いだす 特徴量はかならず刺激自体(郡)に含まれるもののはずなんですが, 実際のところは良くわかりません。観測している人間自体がダイナミックに 変化して,刺激以外の情報をうまくリンクさせている可能性もあります。
人間は分類が出来る前と後では明らかに刺激の感じ方が変わります。 音楽のような複雑なものもそうですが,例えば「L」と「R」の発音と 言うような違いもそれを認識すれば明らかに違ったものとして聴こえますが, 認識してない人には同じ「る」等と聴こえてしまいます。 つまりそうであれば,例えば生まれたばかりの子供にとっては,視覚映像も 音声もすべてノイズとして認識されていて,その巨大な渾沌の中から 対象を彫り出していくように学習していくのかも知れません。そして そのこと自体は人間に安心か快感のどちらかを与えるはずで,それゆえに 人間はそもそも学習することが大好きで,そして分けることが大好きなのでしょう。
'05 May. 2nd
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