相対化と「物語り」

最近「聴衆の誕生〜ポスト・モダン時代の 音楽文化」とか「 世界で一番美しい愛の歴史」とかという本を読んでいて, 自分はこの手の本が結構好きなんだと いうことを感じるのですが,どういう本かというのを簡単に書くと, 物事を「相対化」する本です。前者は我々が教育されて信じてきた クラシック音楽の聴衆態度や権威を歴史的にある時期にある意図で つくられた事を書いてますし,後者の本はここ100年あまり信じ られている「愛による婚姻」という習慣がやっぱり近年に 成立したものであることを書いてます。つまり現在の我々が 持っている「当たり前のこと」と思っていたことが過去においては 当たり前ではなかったということを示すことによりそれが 「絶対」のことでは無いことを示してます。

同じような話は「パンツが見える 〜羞恥心の現代史」もそうで女性のパンツをみて興奮する, 女性は恥ずかしがる…というのもつい最近の価値観であるし, 「江戸の春画〜それはポルノだったのか 」…も…っとよくよく眺めるとわたしが感想を 書いている本は結構その手の本ばかりであることに気づくので, この辺で止めておきます(^^;)。

相対化というのは権威を解体したり,自分の思い込みに対して 冷静に省みたりする効果があります。ある意味自分を束縛している 価値観から自分を解放することが出来ます。なので物事を 相対化した瞬間は目が醒めた感じがして,ある意味心地好さを 感じる場合が結構あるように思います。 だからでしょうか?,もの事を相対化するという試みは現在 いろんなところで行われており,それを見つけて指摘することが 流行っているように思います。学術的権威だって,宗教だって 相対化すること自体は可能でしょう。ある意味新しい相対化の 視点をつくること自体がインテリジェンス…のような風潮に なっている気もします。

しかしそういう状況をみて,自分自身がそういうものを味わいながら 感じるのは,それを言葉通り受け取るだけでは危険もある…という ことです。なぜなら相対化は「物語りの消滅」を意味し,最終的に すべての物語りが無くなればそこは(間違った用法かもしれませんが) ニヒリズムとなるからです。

自分が信じていたすべてのものが相対化されたときに自分は どのような価値観で物事を判断すればいいのでしょうか?。

私自身の答えは「自分自身の物語りをつくる」です。自分で信じる 自分の価値観をつくることです。とはいえ,どうもその辺を うまく導いている本や言説は少ない気がします。もちろん, いろんな新しい価値観やものの見方,そして振る舞いを進める 本はそれなりにあるのですが,この手のものは下手をすると, 自己啓発や宗教になりがちだし,もしくはお金主義という 方向にもなります。まぁそのこと自体は悪いことではないのでしょうが, 古い強固な価値観から解放されたのに他人のもっと強力な 価値観に縛られるというのはどうも皮肉のようにも感じます。 価値観を壊して新しい価値観を入れ込むというのは洗脳の 基本的なテクニックです:-p。

すべての価値観から解放されるという事は,常に物事を考えて 判断していかないと何も決められないため,実はかなりきつい状況です。 既存の価値観に縛られるというのは,逆に寄っ掛かれることでもあり 実は楽な状態でもあるのです。ただその価値観できつい思いをするので あれば,自分にとって良い価値観を自ら作り出すか探し出すしか 無い気がします。

その辺のリスクをあまり説明せずに世の中相対化が流行っている気も するので,その警鐘として,この文章を書いておくことにしました。

相対化はインテリジェンスかも知れませんが,自分で物語りをつくることも 大事なことです。自分で自分の大事なものを作って,それを信じることは 別に頭が悪いことではありません。

以下余談…。最近読んでいる幾つかの本で感じるのは,「メタ視点(意識)」, つまり自分自身の思考や感じることを外から見直すという事。 この手法を突き詰めようとする動きが結構ある気がします。「相対化」と にてるんですが,ちょっと違います。私自身相対化以上にメタ視点の 話が好きだったりします(^^;)。メタ視点にもリスクがあるのかどうかは, 今のところ良くわかりませんが,少し気になります。まぁメモ…ということで…。

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'05 May. 4th


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