読書メモ(2005年3月〜4月)

最近読んだ本から…メモなどを。

書籍編

聴衆の誕生〜ポスト・モダン時代の音楽文化(渡辺裕著)(05/04/10)
わたしが子供の頃学校で習ったのは,モーツアルトやバッハ,ベートーベンは 偉大な音楽家であり,彼らの作品は「作品として」すばらしい。 彼らの音楽を聴きにいくコンサートやリサイタルは,周囲から隔絶された 音楽ホールで照明を落し,音楽と対峙するように聴きにいく。そこでは 演奏中に喋るどころか咳払いをすることすら阻まれる…。
ところが,実はこの様な音楽聴衆の態度は19世紀に確立された ものであり,上記の音楽家が活躍した18世紀とは全く異る。 当時の演奏会では食事したりおしゃべりしたりしながら音楽を 聴く(聴いていない場合もある)のが普通だったとのこと。 また,当時は古典は演奏されず,常に最新の曲が演奏されていたこと。 そして 現在のように彼らの音楽を高尚なものだと位置づけ,前述のような 音楽の聴き方になったのは19世紀に音楽を聴く対象が貴族から ブルジョア層に移行し演奏会が商業ベースで行われるように なったこと,そして音楽の価値が演奏家の表現ではなく作品そのものに 重きが行われる様になったのは当時商業ベースにのった演奏会で 演奏家がアイドルなみに扱われることによる反発として, 演奏家より作品そのものに重きをおくようになり,その結果 古典を持ち上げるような伝説を作っていった…。
この本ではこの様な(おそらく)事実に基づき,19世紀に聴衆が 誕生したこと,そしてそれがまた逆に20世紀に入り逆に 解体されていくところを語っている。そもそもこの本を書きはじめた 動機が,最近のクラシックの聴衆が以前のように音楽に向かい合って 背景や構造を理解して聴くよりは単純に気持ちいいから…という 風に聴いている人が増えていることに驚いて書かれている。
この本を読むと,わたしが子供の頃に学校で習ったクラシックの 音楽家の高尚さというのが「作られた伝説」であることが わかる(だからといって作品のすばらしさを否定しているわけでは ありませんが)。つまり我々が持っていたクラシックという音楽への 「大きな物語り」を解体しているということである。
いろいろ興味深く読んだのであるが,最後にこの本を書いて7年後に 追記した部分で,自分が解体した神話が「新たな神話の作成」では ないか?…とか書いていたりして,それはそれで興味深い。
この手の物事や伝説を解体していく作業というのは結局は 相対化である。私自身はこういう話は好きなのであるが, 最近この様に物事を相対化するという作業が盛んに行われているが, それって,どうなんだろう?…とも思う。 下に書いた「世界で一番美しい愛の歴史」を読んだ時も 思ったのであるが,信じていたものが相対化されるというのは, そこから新たな自分の物語りを作れる人には良いが,それが 出来無い人には単なるニヒリズムに陥るのではないか?…という 危惧も感じるのである。
まぁでもわたしにとっては音楽は重要なものであるし,幾らでも 物語りを作れるし(笑),軽音楽がクラシックより低俗と位置づけられた 経緯を知ることは,私自身の信じる物語りをつくる上で役に立つ という意味で参考になった。著者がクラシック畑の人らしく, ちょっと突っ込みどころもあったのだが,興味深く読めた本である。

世界で一番美しい愛の歴史(J.ル=ゴフ,A.コルバン他)(05/04/02)
愛とか結婚とかに真実が存在する…と信じている人はあまり 読まない方がいい本です。この本は著者が歴史家,哲学者,作家等に インタビューし,西洋の過去において,結婚,セックス,家族等が どういう風なものだったのかを説き明かそうとしている本です。
もちろんあくまでも西洋の話であり,更に西洋と言っても 歴史に残っているという事から主に貴族階級の話のため, ここで語られているその「愛」の在り方が,普遍的なものなのかは 全くわからない。しかしこの本をすなおに受け取ると,西洋において, 「(精神的な)愛」によって夫婦が結婚し子供を作る…という習慣は たかだか100年か200年程度ものであり,それ以前には結婚,夫婦による セックスというのは主に家のつながりそして,子供をつくための行為だった 事がわかる。では「愛」というものがあったのかどうかは良くわからないが, 男性は外に愛人がいたり遊郭に女性を買いに行ったり,奴隷に手を 出すのが当たり前(非難されないし,むしろ奨められる)であるし, (貴族の)女性は女性で間男があるのが当たり前だったとのことである。
もちろん西洋の有史以来ずっと変わらなかったわけではなく, 例えば古代ローマ時代は結婚,離婚が自由にできたのに対し, キリスト教が西洋に広まってからは離婚が出来なくなりました。 あと教会による性秩序の強化がありましたが,一方で高級階級は それを逃れる手段を持っていたとか…。まぁ現在の愛至上主義から するとかなり腐敗した感じも感じますが,そもそもこっちが 普通であり,現在の愛至上主義は貴族(家)制度や宗教的倫理観が 崩壊したものを埋めるために出来たという考え方もできます。
…というわけで,「わたしは好きな人と結婚するし,それが当然」と 思っている人は,こういう恋愛や結婚を相対化する様なデータは 「信じられない」って言う風に読まない方がいいかも知れません:-p。
まぁ西洋において女性はかなり男性に押さえ込まれていた…という 話は良く聞きます。実際西洋哲学における恋愛観はかなり女性蔑視な ものが多く,今の常識でみるとかなりげんなりします。一方 わたしが聞く限り,日本の江戸時代とかの方が,もう少し女性の (性に対する)立場が自由だった…って話も聞き,なにゆえ社会において 女性はここまで男性に縛られるか?…とかいう性質の方が 気になったりもします。
…とはいえ,この本を読んでいておもしろいな…と思うことも 幾つかあり,例えば西洋で告解が始まったことにより,人々に 内省という事が身につき,いろいろ愛とかについて考えが深まったという 話や,近代において女性が解放されていく過程,家制度や宗教から 性やセックスが解放されていく…というベクトルの延長に 70年代のフリーセックスがあったという事を読み取るに,現在は あくまでも最先端ではなく,多少後退しているのかも知れない…と 思いました。もっとも現在の10代は我々の頃よりもっと自由に セックスをしてると思いますが。
こういう本ある意味,愛について幻滅してしまう…とも言えるのですが, わたしはだからこそ一人一人の中に物語りをつくり自分で信じる 価値観を構築すべきだ…と思っているので,一旦相対化することは わたしにとっては役に立ちます。でもそれが出来無い人には, どうかなぁ…とも思います。別に愛に限らず現在このように 当たり前と思っていたものを歴史的な経緯から「近世以降の考え方だ」と 暴露する考えが広まっている感じもします。ある意味大きな物語りが 崩壊している時代なんだなぁ…とつくづく思います。

感じない子供 こころを扱えない大人(袰岩奈々著)(05/03/24)
私は,自分は相手の人がどれくらいわかっているのだろうか?… という疑問をいつも持っている人間である。
というわけで,タイトルに惹かれて買った本です。
実は買ったときは,内容としてメタ…というか理論的な 話が書いてあることを少し期待していたのですが, 実際中身を見ると,そういう話ではなく,むしろ実践的な 本でした。
著者は実際にカウンセリングを長年行っている 人らしく,特に子供を持つ親に対してのカウンセリングの 経験を多く書いてあります。ですので,実際に子供がいる人, もしくは今後子供が出来そうな人などが読むといいのかも知れません。
わたしも会社で部下と接するための訓練としてカウンセリングに ついて多少研修とかを受けたことがあります。一般的に 良くいうのは,誰かが相談してきたときに,その意見を 否定するのはもっての他ですが,変に励ましたりするのも ダメな場合が多く,ただ話を聞くとか,相手の言ったことを 繰り返すのが良い…という風に言われます。ところがこの本では, そういう受け答えでも相手によっては「馬鹿にされてる気がする」と 思うような場合もあるとのこと。結局はケースバイケースというか, 要は相手にいかに自分がちゃんと話を聞いてくれる人であるかを, わかってもらえるかのようでした。
著者は実際の訓練の中で,自分のネガティブな想いを相手の人に 言ってみることによって,その時に自分の心に起こる感情を 自覚するように言います。人間…とくに大人は,自分の中にある ネガティブな感情を否定して生きている場合が多いので, 自分の子供がそういう感情を持ったときに「気のせいよ」とか 言って無かったことにしようとします。それで子供は自分の 感情の落しどころを失ってしまう…と。ですから,自分が 無意識に無かったことにしようとしている。なのでその 打ち消している感情を意識することにより,子供の中に 気持ちと共感を得ることが必要と感じました。
また,子供は小さい頃は感情で動いているのですが, 大人が感情ではなく「論」の方を押し付けてしまう。 例えば,子供がものの名前とかをおぼえて喋るようになると, いろいろ覚え込ませて喜ぶが,本当はそれを見て「どう思ったか?」を やり取りした方がいいそうです。「かわいいねぇ」とか 「きれいだねぇ」とかそういう話をするという事です。 子供に感情を表現することを小さいときにきちんと実践させないと, 結局(大人もそういう人多いんですが)自分の気持ちを 相手に伝えられない人になってしまうとのこと。
……という感じのことが結構細かく実践的に 書かれてました。言っていることはシンプルなんですが, こういうことは実際にやろうと思ったら,具体的に どうしていいかわからないことも多く,そういう 意味では,この本は結構役に立つのだろうなぁと 思いました。

統合心理学への道(ケン・ウィルバー著,松永太郎訳)(05/3/6)
たしか読み始めたのは去年の暮れだったと思う。500ページ程の本文に さらに100ページ以上の原注…いっこうに読み進まず, ようやく本文だけ読み終えました…というのは嘘です。一応最後の章(13章)は 読みましたが,11章12章は飛ばしてしまいました…。ついでに書くと かなり理解できないまま斜め読みしたところもあります。
日記の方に何度か書きましたが,いっこうに苦労しても読み止められなかった のは,決して内容がつまらない…というものではなく,むしろ自分の理解を 越えてはいるが,何かすごいことを書いてある…という実感が 読んでいる間じゅうあったからでした。読んでいて2ページも読むと 頭が疲れて眠たくなるのですが(^^;),でも読んでいておもしろいとも 思っていました。
この本はケン・ウィルバーの先の何冊かを受けて書いているところもあり, その辺を読まないと正しく理解できない…というところもちょっと つらかったのですが,それでも序章や頭の方で書かれている話は なんとか理解できました。ケン・ウィルバーは「トランスパーソナル心理学」を つくったと言われている人らしく,ですが現在その言葉が一人歩きし 誤って使われているので,この本では「統合心理学」という言葉に 変わっていました(この辺は訳者のあとがきに書いてます)。
基本的にすべての心理学・哲学・宗教などを統合するもう一つ上の段階 (ホロン)というものがあり,それを一生懸命モデル化しようとしているように 読めました。しかし本人も書いているように,その上の段階は すでに言葉では表現出来ないものであるということで,おそらく どういう風にかいても不正確なのでしょう。500ページ以上の 文章はそれをいろんな角度から書いているようにも思いましたが, つまるところわたしには,かなり理解しがたいものでした。
しかし理解できないものではあるにしてもとてもおもしろかったです。 芸術の話も読んでいてなぜ哲学において芸術があんなに大きな問題と されるか(今更ながらで恥ずかしいのですが^^;)理解できたし,瞑想を 通じて,自分の段階を上げていく…というのもなんとなく わかる気がします。
まぁいずれにせよ,わたしはこの本の内容について語る資格は まだないのですが,とりあえず3ヶ月持ち歩いて,ほんのちょっとだけ, 何かを得たような気がするので,とりあえずメモがわりにここに 書いておきました。あと何回か読まないと,そして別の著作も 読まないと理解できないのでしょうが,それをやるかどうかは わかりません。いい経験でした。
ちなみに原題は"The Eye of Sprit,An Integral Vision For A World Gone Slightly Mad"ですが,原題の方が内容から受ける印象には あってるような気がします。


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