考える場所(部位)

人は脳で考えると思われているようである。 これを全否定するつもりはないし,たぶんある意味正解であろう。 しかしここで,「脳とはどこ?」とか「考えるってどういうこと?」 という疑問が浮かぶ。解剖学者の養老孟司先生によると, 脳と延髄はつながっていて,明確に線を引くのは困難ということだ。 だとすれば,その先の神経も明確に線を引くのは困難ではないのか?。 また「考える」というのも,単純に文章の生成や計算をしていることと, 自分の存在を感じることなどをいっしょにしてしまうのは問題が ありそうだ。それは同じ脳の中でもこれらを行ってる場所は 異なるからだ。

私は以前クロックアップの正体意識とは?,その1意識とは?,その2を書いた。 またロボットに自我はあるのか?にも 自我について多少書いている。これらの文章だと断片的にしか 書かれてなくてわかりにくいので,近日中にこれらは整理したいが, 要は,「自我(自分を同一にみること)は,どこか(たぶん脳) 一カ所で行われており, それは自分の行動や考え感じたことの記録(ログ)を 管理するところ,そしてその結果,時間や前後関係を 感じるところと,ほとんど近いのではないか?」ということである。

つまり,脳のなかでもいろんな場所で,分担していろんなことを 感じたり,情報の処理を行っているが,それを並列で行っていても, それを省みたり,前後関係を感じる部分は一カ所であるということ。 もしこれが複数あれば,時間を二次元以上に感じることも 可能だろうが,その場合人格(自我)が分離してしまうのではないか?。 自己同一性とは,自分が行ってきたことを,ちゃんとおぼえていて, 自分が知らない間に何かをやっていたり,また同時に複数のことを 考えることができたら崩壊するのではないか?,ということである。

さて,このように自我を一カ所で感じると考えるが,これが 人間が脳(一カ所)でものを考えると思う所以ではないか?。 複数のところで考えていても,その自我の場所で 時間的に整理されてはじめて考えたことを意識するからだ。 このことをもって考えるというのであれば,それは 正解である。しかしこれはあくまでも履歴整理されているだけだ。 「脳で考える」という考えには,脳以外の神経は 「単に情報(知覚等)を伝達しているだけ,そこで物事は 考えてない」という様な意識がある。もしそうであれば, それに対しては,私は疑問を感じる。

知られているように,脳も場所によって物事を感じたり 考えたりする機能が異なる。数字を数える部分,動きを感じる部分, 色,整理整頓する…他にも挙げればきりがないが,これらの機能が 脳の一部に損傷が出ると異常が出ることから,(かならずしも そこだけで処理しているとは断言できないが)そこで何か大きな 処理の役割を担っていると考えられる。つまり,自我が一つだから 考えてる場所は同じようでも,脳の中はいろんな場所で異なる 処理を行っていると考えられる。そして脳の情報伝達速度などを 考えると,並列で動いていると考えるのが自然であろう。

そして,脳と神経の境が明確でない以上,それが脳以外で 行われていても不思議ではない。実際,大脳以外の,小脳や 延髄でも情報処理は行われいている。意識という 明確でないレベルであっても,思考には影響を与えていても 不思議ではないだろう。そうであれば,もっと末端, 脊髄や,そして末端神経でも何かを考えていても,不思議ではない。 もちろん不思議ではないというのは,考える ということの定義が不明確だからいえる話かもしれないが。

しかし,ここで私がいいたいのは,人(生物)は体全体で 考えに影響を与えるようなことをやっているのではないか?, ということである。例えはよくないが「子宮で考える」という ような言葉がある。子宮がなくてもものを考えることは可能だろうが, 子宮があることで,意識にも影響を与える。同じようにたとえば 腕がなくなったら,物事の考え方が全く変わってしまう,ということが あるかも知れない。もちろん腕がなくなっても,ものを考えるし, 腕を感じることも可能だ。脳の方からみれば,腕につながってる 神経があるので,腕があると勘違いする様であるし。しかし, 腕が独自に考えていて,思考に影響を与えていたもの,他のからだの 部位に影響を与えていたものはあるかもしれない。

人間は脳が一部なくなっても,思考をすることは可能である。 であれば,体の一部がなくなっても思考できるのは当たり前である。 しかし脳の一部がなくなることにより,感じ方が変わるように 体でもそういうことがあるのではないか?。 そしてその脳と体の違いは程度の違いなのかも知れない。

脳の研究や,情報処理の研究のせい,また人工知能もそうかもしれないが, 脳こそが世界のすべてであるという,唯物論的唯心論(=唯脳論)を となえる人が増えてるような気がする。 しかし意識は脳にあっても,存在自身は体全体に,つまり人自身に あるのではないか?。そうでなければ,体自身が幻想であっても かまわないということになる。人間には数えきれないほどの 大量の細胞が身体中にある。これらがすべてそれぞれ働き, お互いに影響をおよぼし,存在しているのだから

余談だが,上記の考えだと,脳がほとんどないような生物でも 考えているということになる。


00 May. 2nd


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