MLで「ロボットに自我があるか?」という問題で,なんとなく 「自我ってものは人間にしかなくて,それは とても高度で複雑,ロボットになんか持てるはずがない」 という結論に落ちそうな気が,気がしたので,反論も込めて, ここに書くことにした。 ちなみに「自我=心(人間らしさ)」ではないので,御注意願いたい。
外見から「自我」を観察できないということからすぐアニミズムに なるのではない。もの(人)に心があるか?ってことを段階的に整理すると,
という風に(便宜的に)並べる。無機物は長い時間を考えなければ, 物質的な変化はない,というか観測しにくい。これに神秘主義をもって すれば魂があると言えるが,これは今回はおいておく。では植物はどうか? 植物はいちおう変化している。話しかけると成長が良くなるというのが あることからもわかるが(そもそも気候条件とかもそうだが),外界に 反応していることがわかる。これを「心」というのはいけないのか? (これには別に答えは欲しくない^^;)。でも自分を意識しているか(自我)?, というと疑問である。この理由は「自我とは?」に対する私の仮説から そう思う。
- 石とかの無機物
- 植物
- (人間以外の)動物
- ロボット(コンピュータ)
- 他人
- 自分
私は自我は過去ログを継続して処理できるってことに関係があると 思う。このことは意識とは?,その2に もうすこし詳しく考察してある。
ロボットは無機物であるが,変化している。したがって石とかとは違う。 石と一緒にするんだったら,筐体にも魂があるという話であるが, そういうことを言ってるのではない。ロボットの一番の特徴は,「人間が ロボットがやってることを知っている」ということだ。実はこれはこの後の 「他人」より良く知ってるのである。
さらに他人を考えよう。他人と自分は人は同じと思っているが,それは 「生物的特徴が一緒だから」という理由からであろう。しかし中でどうやってる かは?わからない。そもそも他人はともかく自分の脳みそを切って 調べた人はそういないだろうから,自分と他人の脳が本当に一緒か? というのも良くわからない。
ところがロボットの場合,中でやってることはわかる。ある意味,他人より わかりやすいのである。例えば「音楽のメロディの音程がわかるか?」と いう場合でも,自分が出来たとする,で,他人ができるか?より,ロボットが 出来るか?の方が良くわかるのである。
だとすると,「人の自我はいかにして生じるか?」がわかった場合,それが あるかどうかは,他人よりロボットの方がわかりやすいということになる。 ただしロボットと自分の場合も,もっとも大きな違いがある。それは 「ロボットの視点」は自分にはわからないって事だ。
ロボットに心があるということに抵抗がある人は多いと思う。しかしそれは 人間を特別視した結果ではないか?。人間だって,心と呼んでいるものは, 単に頭の神経の中に起きた,化学変化や電気的なある状態のことなのかも知れない。 単にそれを「自分の視点」でみてるから特別に思うだけではないか?。 だとすると自分の心にあるいくつかの機能がわかれば,それを部分的に ロボットに実装することは可能で,例えば自我だけ切り出して実装できる と言いたいのだ。「自我を持てばイコール人間の心」と言ってるのではない。 「人間らしさ」というのはもう少し複雑なものだ。
人は自分以外の視点を持つことは出来ない。そして自分の中に起きている 生理的現象を観察していってもそれは,化学反応だったり電気反応だったり しかしない。そして人間は一人一人微妙に違う。同じ自分でも微妙に 反応が違う。そう思うと,他人を含めて人間を特別視するのは単に 線引きの問題の気がする。他人と自分の違いが,自分と動物・ロボットとの 違いに比べて少ないからであり,程度問題だからだ。
この様に完全に,自分を物質としてとらえる見方もできる。 しかし一方で私は自分の魂は肉体を離れたところにあり,それを 自分の視点にアクセスしてみているだけだ…という考えもある。 その中間というか,肉体に魂が宿り,あたかも演じているように 生きているという見方もできる。
自分の中ではどれも,尤もらしい…という感じで存在している。 実感としてもどれもある。「どれか?」という問題ではない。 どれも実感があり否定する決定的なものがない,モデル(=世界観)である。 複数の世界観を少なくとも私は持つことが出来る。 それゆえの苦労もあるが,どれかが正しいとは特には言うつもりはない。