世界観
自分の持ってる世界観というものをずっと考えてきていて, それなりのものを自分では持っている。世界観というのは ある種自分観であり,少なくとも私の場合は,それが強い。
「人(私)はどこからきて,なぜ存在するのか?」という命題は 幼少の時から考え続けて来たことであるが,最初は「宇宙の外側は?」と いうような疑問だったのかも知れない(^^;)。それ「宇宙はいつできたの?」になり, さらに「人はどこから来たのか?死んだらどこに行くのか?」というような ものになったのだと思う。
自分にとって自分は(主観という意味で)特別だから,他の人も 同じように考えてきてるのかはわからない。でも意外に,そういう話を 他人とする機会は少ない。宗教団体にでも入ればいいのだろうが, 宗教は,宗派の考え方になってしまい,その人の捉え方が,素直に わかるわけではないので,イマイチ参考にならないのである。
それに私自身はそういう命題は宗教的なものとあまり 捕らえていないし,周りに広めるつもりもないので,結局, 宗教論争とかいうのは,うっとうしいのである。
しかし,ある程度考えがある以上,少なくとも現時点での 考えを書き残しておきたくなった。というのは,どうも自分の性格に この世界(自分)観が影響しているようだからである。というわけで, 非常に説明しにくいなぁ,と思いつつ書くこととする。
複数の考え
1年近く前に多元人格というものを 書いている。その中で,私はいくつかの階層が自分のなかにあって, それぞれ(感覚的には)矛盾なく動いている。いずれそれを整理しようと 思っていたのだが,うまく整理できないのである(^^;)。つまり感覚的には 矛盾なくても論理的には矛盾しているのである。従って文章にすると 矛盾する。しかも階層的だといっておきながら,どれが上位かよくわからない のもある。仕方がない。単にだらだらと書くしかないので,以下に書く。 ただし幾つかは,階層がはっきりしているのもある。
涅槃,もしくは彼岸の自分
彼岸という言葉は仏教用語だから,本当の意味があるんだろうが, 私は単に「かの地」ぐらいの意味だ。実はこれが私の一番ベースにある 考え方なのかも知れない。
簡単にいうと,私の実体は「かの地」にいて夢をみているだけ,というのが どうも,「そうかもしれない」という風にわたしのなかにあるのである。 従って,「この世界」は自分も含めて,「夢・仮想・幻」なのである。
これが間違いであることは,証明できない。だからあり得るのである。 もしかしたら,彼岸に私がいてバーチャルリアリティの様に,何らかのI/Fを 通して,この世界を見てるだけかも知れない。そうなると実体としての自分以前に, 現世界の自分の意識すら存在しなくなる。いつか私は「あぁー,長い夢を 見ていたなぁ…」と彼岸で目をさますのでは?…とずーっと思ってきている。
実はこの考えは,どうも「百億の昼と千億の夜」という漫画(原作は小説)を 読んだ辺りから影響を受けているのでは?と考えている。しかしいずれにせよ, 浮世を本当に浮世とおもってるわけで,自分としては,昔からこういう 考え方をする人たちはいて,そんなに矛盾はないと思っている。…おっと, 「他の人」も自分の夢だから,それは関係ないか(^^;)。
心だけの自分
彼岸ではなく,実体としての自分の意識は存在する。しかし他は,すべて 自分の認識の中に存在している,という考え,「彼岸の自分」と違うのは, 夢からさめるかどうか?というだけなので,これもわりと,私の ベースに近い考えである。
つまり,私が見てないときの他人や物質は存在してない。認識した 瞬間に存在している,という考えだったりもする。
最近こういうのを個人主義的唯心論というらしいのを知った。 …と書いたが,自信は無い(^^;)。私は余り哲学を勉強してないので(^^;)。
面白いなぁって思ったのは養老孟司氏の本を読んだとき,「自分の心に ついて良く考える人は,自分の心に対し,実存感があるから唯心論になりやすい」 ということを書いていて,ムチャクチャ納得した(^^;)。
私は昔から,「自分の意識」や「感覚」ばかり考えていたから, そうなったのであろう。
この考えは,結局自分中心であり,他人の存在を認めていない。 実に自己中心的な考え方である。しかし他人の気持に完全になりきる ことはできない以上,これも否定できないのである。
ただ,自己中心だから反社会的になるわけではない。社会の 存在としてのなりたい自分があり,それを演じることが, 心の中で自分をいかしていくために必要だからである。私は 幸いなことにええかっこしいであるため(笑),自分勝手でありながら, なんとか社会に適応しているようである(笑)。
脳だけの自分
養老氏が「唯脳論」というのを展開している。いろいろ本を読んだが, 面白かった。ただ本当に正しく理解できたわけではない。氏は 解剖学者なため,「人体」に実感があるらしいのである。従って, 脳は存在するということになる。しかし,我々は脳しかしらず, 結局社会もすべて脳の中にあるという考え方であろう。
自分としては唯心と近いように捕らえてしまったが,脳だけが, 物質として存在するあたりはイマイチよくわからない。
人間としての自分
最後に,実体がある動物としての自分である。動物である以上, 体には細胞があり,脳はある認識や動作命令をだしており,筋肉は それらにより動いている。感情や意識などもその脳の機能の一つである。
これは良くわかる。学校で習ってきたことを積み上げていくと, ここに行き当たるのである。ただし,私の場合,彼岸の自分や唯心論的 自分とこの考えが,相反しながら,両方いきづいている。 ただし,この考えは他人も世界に明らかに存在するのである。 この考えになって初めて,自分の母集団としての人が存在する ことになる。したがってここでは「私」というより「我々」である。
動物であると考えると,感情・意識・動作などは何らかの,仕組みで 動いているはずである。「自分はなぜ?」と考えると,プログラム されている自分を実感せざるを得ない。
遺伝子プログラム
ちょっと流行った「利己的な遺伝子」とかを読むと, 我々は遺伝子によって,行動をプログラムされいてると思われる。
あるとき,ああ思うのも,こう思うのも,ああするのも,こうするのも, そうしてきた人が,遺伝的に強かったら,という風に説明できるのである。
セックスを気持いいと感じるのも,セックスが気持いいと思って,たくさん した人の遺伝子が残っているからということになる。男が歳を取って禿げるのも, 若いうちに禿げる遺伝子は,配偶者を見つけられず滅んだから,ということが いえたりするのである。
またなぜそうするか?というのは,現在の情報が強い時代にとっては, ミームによりプログラムされているというのもある。
いずれにせよこれは,どういう理由で我々がそうするようになったか? という考え方である。
快感プログラム
もう一つプログラムとしては「どうやって我々はそう感じるのか?」と いうのもある。わたしは行動の理由には「快感・不快感」が大きく影響している と思っているが,では,どうやって快感を得ているか?ということである。
これはいろいろ自分で試したせいで,結局は脳内の快感物質を出すように, 関連づけされたものがそうなるという風に感じるようになった。
関連付けは遺伝子的につけられたものあるだろうし,後天的に教育や 成長の中で起きたものも多い。その関連づけを紐解いていくと,意外に 自分がやりたいと思うこと,気持いいと思うこと,気持悪いと思うことには 明確な理由があったりして,我々がきちんとプログラムの上で動いている ことがわかり,ちょっとがっかりする(笑)。遺伝子プログラムも快感プログラムも,人間としての自分である。 考えを広げれば,動物全体,生物全体,物質全体としての自分も 見えてくる。なんかロボットになったようで,嫌なのであるが, これはこれであってるように思ったりもするのである。
それぞれの自分として生きる
と今まで幾つか述べてきた。世界とは?自分とは?に対する, 現在自分がもっている感じ方は上記である。最初に書いた通り, 矛盾する考えであるが,自分のなかでは,「どれも正解だ」と いう風になっているのである。
ただこうやって書き抜いてみると,神の存在がないのに気づく(^^;)。 あえていうと彼岸にいる自分が神とも言えるのであるが,いずれにせよ それは自分である。そういう意味では私は無神論なんだなぁ…と思う。 また,現実の物体としての自分は全く特別視していない。単純に 人間,動物,物質の部分集合なのである。自分を特別視する方の 考え方は,彼岸の自分だったり,ここの自分だったりして,そこには, 現実としての現世はない。
こういうことを考えると,なぜ自分が現実社会に現実感を 感じず,他人からは「飄々としている」とかいわれるのかが, 良くわかる。「死ぬ」ということに対しても,「夢から醒める」とか 「動物としての機能が停止する」という風にしか捕らえられないのだ。
そういう意味では矛盾する自分をそれぞれもちながら生きてきてる, といいながら,実はかなり片寄ってるのかも知れない。いや, 良くわからない,これ以外の考えでどうやったら,実感がある考え方が あるだろうか?。この辺はもっと知りたい,でないと,いつまで経っても 自分の周りには非現実しかないからである。