「アレ」が真実なのか?
「アレ」というのは便宜上わたしが使ってる言葉です。 「アレ」をうまく別の言葉では表現しにくいのですが, 「変性意識」とか「スピリチュアルな体験」とか「トリップ」とか 「お告げ」とか「イク」とか「真実」とか 「悟り」とか「今ここ」とか「朝日の様な輝き」とか 「ほほを撫でる風」とか…まぁいろいろ言い方はあります(笑)。 というか,ということはわたしはこれらをすべて同じ体験…もしくは 感覚だと見なしていることになります。
言葉にするのはとても難しい境地ですが,その経験をした人の 話を聞くと,何となくわかります。あぁこの人はそういう 経験したんだなぁ…と。でもおそらくそういう経験をして無い人は それはわからないのだと思います。もしくはしていても 気づかないこともあるのかも知れません。そういう人は 「アレ」を認識してないので,やっぱり人の「アレ」を聞いても わからないのでしょう。
さて,わたしは「科学は宗教の一種だ」と言っている人ですが, 一般的に宗教は「アレ」をもたらします…,というのは嘘です(^^;)。 本「魂の螺旋ダンス」によると部族社会の信仰や初期のキリスト教や 初期の浄土真宗の様な超越製宗教は個人が神と直接繋がる…,つまり 「アレ」を経験することをやりますが,それが国家宗教や絶対性宗教へ 変化すると,むしろ祭祀権が権力者に独占され信者が直接「アレ」を するのを禁止する傾向があります。科学に「アレ」があるかどうかは 今回は置いておきます。また別の機会に書くつもりです。ちょっと わき道にそれますが,アメリカが薬物や酒を禁止したがる(したがった)のは 個人による「アレ」を禁じることの似てるなぁ…と思います。
更に話を飛躍させます。ケンウィルバーによると宗教や哲学を最終的に 統合できる現在の思想学より上の段階があるそうです。であれば,それは 科学も統合できるような気がします。で,その上の段階というのは, 言語では記述できないそうです。言語で記述できないって事は, どういう風にここで書いても正確ではありません。 でもわたしはふと思いました「アレ」と似てるな…と。そして「アレ」は 宗教の中で悟りに至る過程で体験されているように思います。
もしすべての思想を統合できる何か…仮にそれを「真実」と呼ぶとしたら, 「アレ」こそが「真実」だったりしないでしょうか?。 そう考えるとそうかも知れない…という気がしてきます。真実が言語化 できないのであれば,それはそもそも理論ではありません。理論でなく 人が達するものと言えば体験だったり感覚だったりするような 気がします。つまり「アレ」は真実へ…悟りへ至る過程ではなく, 実は「アレ」その物が真実であり人が目指すところ…という事です。
そう思うとそういう気がしてきます。人がなぜ(いわゆる)真実を求めるのか?, 不安から逃れようとするのか?,突き詰めて見ると別に真実がわかろうが, 富が得られようが,その事自体というよりはその事により至る 「ココロの状態」が大切なのかも知れません。その理想的なココロの状態が 「アレ」であり,アレにいつでもなっているのであれば,それこそが 理想なのかも知れません。
…とは言ってもわたしは「アレ」に簡単になれるわけでもないし, そんなに経験があるわけでもないので,最初に書いたように,いろんな 言葉で表現されている「アレ」達が本当にすべて同じココロの状態なのかは 良くわかりません。
ついでにいうと,わたしはみんなに「アレ」になろう…と勧めている つもりもありません。宗教や真実の追求も進めてませんので,ご注意を。 実際世の中が宗教家や学者ばかりになったら社会は回りませんので:-p。
ただ,真実が言語化不可能なのであれば,結局は言語でどう語ろうが, 不正確なんだろうなぁ…と思い,そうであれば何なんだろう?…と 思ったのでした。