サウンドとしてのコード(03/08/08)
今回もちょっとしたメモがわり…なんですが…。先日メモでわたしは「 コードはある意味,譜面によるサウンドの指定…だった面も ありますし,…」と書いてます。ちょっとこの件で, 「やっぱりそうだよなぁ」とあらためて思ったので,ちょっと書きます。
先日某MLで「なんで和音は世界共通で心地よくかんじるんですか?」って質問が 出ました。早速突っ込みが入っていたので,その質問自体はいいんですが, 上記メモに書いたように,やっぱり和声というのは西洋独自のものではないか? というのがわたしの実感です。だいたい(そんなに知ってるわけでも ないのですが)世界中の音楽を聞いた感じでは,異る音階の音を出す 音楽というのは大抵ポリメロディ的な感じのものが多いように思います。 もしくはオクターブとかユニゾンの様なもの…。 もちろん日本でいう琵琶とか雅楽の様に重音をバン…とならすものも ありますが,コードの機能を持つようないわゆる3度のインターバルを 持つようなもの,そしてそれが音楽にフレームとして変化していくような 音楽というのは,寡聞にして知りません。 五度の和音はあるかも知れません。ただ五度は調波構造が 重なりやすいため,オクターブに近い感覚(つまり単音を太くするため)でも 使用出来るといえば出来ます。
というわけで,西洋音楽に初めて接した人たちが和音を聞いて, 「凄い」と思ったかも知れませんが,少なくとも和音というのは 音楽に必須な要素ではない様に最近感じてます。
…そうです,ここで「音楽の要素」と書きましたがそれはなんでしょう?。 通常というか上記リンクでも「リズム」と「メロディ」と「コード」と 書きましたが,これらは西洋音楽の楽譜に記入されるので,そう考えがちです。 またコードはフォークやジャズの譜面上に記号として書かれるので, ますます音楽の構造を規定するようなものに見えます。 しかしこのコードが音楽を規定する…というのはそんなに汎用性が ある話なのでしょうか?。
ジャズという音楽は独自の音楽理論が発展したため,西洋音楽の なかでももっとも理論的に説明しようとする傾向が強く,つまるところ ジャズを勉強する人以外でもロックに理論的な深みを与えるためにとかで ジャズの理論を勉強する人もいます。そしてそのジャズの理論の中で もっとも重要な根幹となっているのがスケールとコードの 様に思いました。ジャズの理論はもともとアドリブソロをするためと アレンジをするためにあります。しかしソロでなにを弾くべきか?を 理論的に説明しようとする場合,ソロを規定する骨格が無いと 説明の使用がありません。それゆえにその規定としてコードや スケールが使われるのです。
ジャズのコードが複雑化して発展したのはビバップくらいからで, コードチェンジの高速化やコードの構成音を複雑化することで 曲自体の発展を狙っていた時期もあったように思います。その 発展はモードやフリーで一旦解体されかけましたが,その後 フュージョンでも新しいコード進行が流行ったりして,ある意味 コードの発展がジャズ・フュージョンの発展の様に(少なくとも わたしは)錯覚したことがありました。
しかし,そこから一歩身を引いてみましょう。最初に書いたように コードを用いない音楽はたくさんあるのです。ジャズ自身も モードやフリーのようにコードを骨格として用いない音楽があります。 1コードのファンクとかロックでリフを骨格にしている音楽とかも そうです。
しかしそういう音楽でも和音は使うことがあります。また モードの曲でもそのウワモノでコードを変化させることがあります。 だからややこしい。 そのせいでそういうワンコードの曲でもコードが曲を規定しているという 風に勘違いしてしまうのです。しかし良く考えてみましょう。 そういう曲におけるコードというのはたぶん単なる「音色」なのだと 思います。 つまりそういう音楽においては,どういう和音を上に重ねるか?…というのは 「ギターの音を重ねるかピアノの音を重ねるか?」とか言うような 音色選びと同列の様な気がします。 ですから,モードの曲でメロディがあったとしてももちろんそれと 合う和音というのはあるのですが,違う和音を弾いても曲は成立します。 楽器の音色を変えたようなものだからです。
………というような事を最近テクノとかジャムバンドとかを聴いていて 思いました。これらの曲の中にはコードを骨格に使ってない音楽が 多いですし,むしろ和音があってもそれは音色として使ってます。 ある曲を切り取って(サンプリング)いろいろコラージュする場合に 和声的には不協和音な複数の音を混ぜたりしますが,単なる音色なので 大丈夫です。
かっては,音楽の音色を規定するためにコードを規定していましたが, 今のように使える音色が豊富,さらにサンプリングやシーケンスとか の様に単純に調波構造とは関係ない音の特徴を自由に使えるようになると, 結局のところそちらを変化させることで音楽のキャラクタを つくることができます。ですからコードとメロディが全く同じでも 全然違う曲をつくれるわけです。そしてそうすることにより コードの役割が音楽の中で低下しているような気もします。
先日のサマーソニックでも そう思いました。コードやメロディは極めてシンプルだが 使われている音色が「今」なのです。ですからこういう曲を コードで語ってもまるっきり無意味なのだと…。
これから音楽はどうなるんでしょう?…。かって軽音楽の 理論を勉強するときはスケールとコードを勉強しましたが, もしかしたら,もうそういうのは不要なのかも知れません。 ただコードの理論が「適切な音色を適切なところに置く」ための 理論だとすると,楽器の音色やサンプル選びもやはり適切な ところに置く「理論」が必要な気がします。そうしないと 単なるセンスだけの問題になってしまいます。 それでもいいといえばいいのですが,なんとなく音楽の 新しさが記述できない部分へ入っていってる気がして, ある意味センスを共有できない人にはまるっきり伝わらないような ものが増えてるような気がしてます。
まぁ打楽器がならしているものもリズムだったり音色だと 言えるから,なんでもそういっちゃうと,要は説明できない… って話になっちゃいますけどね(^^;)。