「メタ」の時代
はじめに
わたしはアニメとかマンガとか割と好きで結構観てます。その他にも PCのノベル系ゲームをちょっとだけやったりしてます。 年末…というか去年の後半にケーブルTVで新世紀エヴァンゲリオンを やっていて,二度目になるけど観ていて,あと全然関係ありませんが, 先日まで読んでいた「 グロテスクな教養」 を読んだりとか,「失われた歌謡曲」 って本を読んだきっかけで昔の歌謡スターと今のTVスターの 違いを感じたりとか,さらには秋葉でメイド見掛けたりとか, そういうすべてのことから一つの流れが感じられるなぁ…と 思い今回のことを書く気になりました。
要は,それらのいろんな動き,その他論説の傾向が, 基本的にもの事を読み解く…という形, 従来の自分より更にメタな視点に立って解体していくという 傾向なのだな…ということです。もちろん論説というのは メタな手法を使うのは常套なのかもしれません。しかし 最初にあげたコンテンツ,それらは基本的に昭和以降に つくられた新しいコンテンツですが,それらが誕生して 数十年経っていくなかで,それらは化けの皮を剥がされ, そして自虐的にそれらが物語りであることを自ら 暴露するような方向に走っているのが,すべてのコンテンツの 進むべきなのかどうかはよくわかりません。
そこでここではわたしが見た各コンテンツの中のメタ化度合いと それが人間の他の傾向にどうつながっているかを羅列 してみようと思います。とはいってもあまり長くなるのも 何なので,かなりラフに書きたいと思います。
アニメにおけるメタ化
さてわたしがここで取り上げるアニメ,マンガ,ゲームに おけるメタ化は基本的に各作品の「登場人物」「製作スタッフ」 「視聴者(プレーヤ)」が「この作品は作り物(芝居)である」と 自覚することを主に指します。一番メタ度が高いのは 登場人物が芝居であることを暴露してしまうこと,明確に パロディであることを語ってしまう…とかいうものです。 その他にスタッフが作品がパロディであることをわかるように つくっていたりするのも一種のメタ化です。
最近のアニメ市場は消費層として成人が大きなマーケットですから, それ向けに作品がつくられていますが,視聴者が没入する 子供向けに比べ,大人向けの作品はそういうメタな要素が たくさん含まれているし,また作品本編がシリアスでも予告編で ギャグをやっていたり,オフィシャルな二次創作物がギャグだったり することが増えてます。
少し振り替えってみると,アニメにおいてその在り方を 大きく変えた作品はおそらく,「宇宙戦艦ヤマト(74年)」, 「機動戦士ガンダム(79年)」,「新世紀エヴァンゲリオン(95年)」の 三本でしょう。それ以降,この三つに並ぶようなシーンの変化を 感じさせる作品はまだ出てきてないように思います(個人的には 前の2作品はリアルタイムで,最後のはブームが去ってから みたので当時の社会状況の変化を正しく理解できてるかは 自信ありませんが。またヤマト以前のアトム,マジンガーZ等で起きた 変化については「単独の作品が変えた」…というほどの力が あったような気はしません)。
ヤマトは短編のシリアスアニメが映画化され シリーズ化されるという最初で,アニメブームを起こした作品で, ガンダムはアニメにおけるドラマ性の革命であり,当時は 主に見たファンは子供でしたが,そのファンはそのまま大人になり 今でもそのファンだったりします(ヤマトファンの大人というのは あまり声高ではありません)。エヴァンゲリオンは当時社会現象と まで言われましたが,おそらく「最初から大人が見ることを前提で つくったアニメとして最大の成功をしたアニメ」と言うような 気がします。ちなみにガンダムからエヴァンゲリオンの間が 結構開いてますが,その間に象徴のような作品があったかは 良くわかりません。もしかしたら「風の谷のナウシカ(84年)」とかは そうかもしれません。また成人向けアニメ「くりいむレモン(84年)」, オタク向けOVA「(トップをねらえ!(88年)」が出た時期を見ると 85年くらいから成人向けのアニメが成功してきたということでしょう。
アニメの歴史はこれくらいにして,ここで書きたいのはヤマト,ガンダム, そしてエヴァの登場人物がその後どれくらいメタ化されているか?と いうことです。例えばヤマトの主人公の古代君がパロディとして 演技するというのを同人ではなくオフィシャルにやる姿…というのは 殆んど見掛けません。しかしガンダムは少なくともロボットレベルでは SD化(等身が小さいかわいいキャラとして描き直される)化した作品が 数年たってからつくられてますし,エヴァに関しては,終わった直後に 登場人物を使った恋愛ゲームがオフィシャルに出てます。またエヴァは 一応作品が芝居である事は作中ではばらされませんでしたが,最終回で 別の世界もあり得るということでラブコメのシーンが描かれてます。
つまりヤマトではあくまでも作品の中で描かれている世界や人物は シリアスな本当の世界であるという前提で描かれていて,見る方も そういう風に没入していてみてました。しかしエヴァは作中では ともかく作品の外では即座にメタ化される前提でつくられて いましたし(もっともヤマトより前の時代でもギャグアニメに 関してはメタな視点で作っているものもあったと思います), そもそも次回予告で「サービス」とか言ってる時点で,本編が 終われば,「キャラが素に戻る」ということになります。念のために 書きますが別にエヴァがそれを最初にやったとはいいません。あくまでも その時代の雰囲気を示すために三作品を代表に選んだだけです。
で,その後どうなってるかというと,アニメ市場はますます成人化し メタ化は進んでいると思います。他の作品のパロディを露骨にやったり ,作品がアニメ作品であることを本編で暴露してしまう 作品は既に出てきます。また次回予告をメタでやってしまうのが 最近の深夜アニメで多く観られます。 こうなってくると,例えば作品中で主人公が死んじゃっても 「これは芝居だしなぁ」と感情移入できません。というよりも, 感情移入してる状態と,客観的に俯瞰している状態を視聴者が 行ったり来たりすることの,そのスリリングさの方を売りにしている 気さえしてしまいます。
マンガ,ゲームにおけるメタ化
さて,アニメについて長くなったので,他のものについては 手短に書きます(^^;)。
アニメに並ぶオタクコンテンツとしてはマンガ,ゲームが ありますが,メタ化が強烈にあるのはゲームでプレーヤが 文章を読んで進んでいくタイプのノベル系ゲームでは, 登場人物自体がフラグを踏んだ事を語ったり, 「ゲームであることを暴露」したりすることがあります。 また本編ではなくても終わった直後に登場人物が全然違った 雰囲気(ギャグ仕立)で登場しゲームの解説をしたり する作品も多数あります(個人的にはtypemoonの作品は 極めてその傾向が強いと思います。元が同人だからでしょうか?)。
これはこの手のゲームが主人公とプレーヤを同一化する 一人称で描かれることが多いからかも知れません。主人公が プレーヤの内心を変わりに暴露するということやっている 様に思います。「書かれた」ゲームの主人公が プレーヤの心情を代弁するというのはおかしな話のような 気がしますが,だいたいにおいてこの様な描写はプレーヤに 共感をおぼえさせる様に思います。つまり主人公自身が メタ化した視点をもつことにより,外部のプレーヤと同化する ことを強化してるとも言えます。
一方マンガですが,マンガはアニメやゲーム以上に 購買層も多種多様で作品数も多いのでよくわかりません。 メタ視点で描かれる作品はとっくにあるように思いますが, 一般の人が読むような(数十万部から数百万部掲載雑誌が 売れている様なもの)作品にはあまりその手のものは 少ないと思います。ただし,やはり本編ではなく 本編の後の解説のページで登場人物が語っている 作品はたくさんありますし,大抵枠外では編集者がコメントを 載せていたりはします。
同人からの影響
さて,今まで書いてきたアニメ,ゲーム,マンガにおける メタ化は同人活動の拡大と無関係ではないと思います。オフィシャルでは なくファンが描く同人作品は作品本編の延長や裏話で描かれるものの他に, 登場人物を使ったパロディという分野がたくさんあります。 そこでは本来シリアスな登場人物がギャグを言っていたり, 御色気を発揮しており,さらに作品自体をコケにしていたりします。 これらはファンにより自由な作品の拡張ですが,登場人物に 没入して…というよりは最初からファンの視点で描かれているため, 登場人物が最初から作品の外にいるようになってしまうのかもしれません。
また一方で同人活動の拡大はファンによる作品の再利用であり, 現在の各コンテンツの制作者が幼少時にそのコンテンツのファンで あったという現在は,制作者自身が同人的な感覚をもち得ている 場合も多くあるのだと思います。その同人的な感覚を隠すこと無く 作品をつくったのがエヴァのガイナックスだった様にも 思います。
歌手(芸能人)におけるメタ化と「お笑い」が憧れの職業の時代
さて,ここまではアニメ,ゲーム,マンガというオタクコンテンツに ついて語ってきたので,ある特殊な分野の傾向と思われがちですが, ここから他のものについて広げることにより,現在の文化に 向けて一般化したいと思います。
最近お笑い芸人が若い人達に大変人気です。女の子にも人気ですし, 男の子がなりたいと思う芸能人としてもかなり上位な気がします。 年寄りくさい言い方をすると,わたしが子供の頃(30年以上前)だと 一番憧れる芸能人はアイドル(今でいうとジャニーズとか?)や ロック歌手…そしてスターで,お笑い芸人はそれらと比べると 親近感はあるものの少し低いランクで観ていた気がします。 ところが最近はそういうスターよりはお笑い芸人の方が 人気があるように思いますし,そもそも現在スターという 様な人達はいるのでしょうか?。
最近の芸能人は歌手であれロックミュージシャンであれTVに 出るとコメントを求められそこでフランクに対応することが 求められます。もちろんそこで無愛想に振る舞う歌手もいますが, 例えばガクトの様に,その事自体をネタにしてしまっている 歌手もいます。しかしかってスターと言われ今ネタになっている にしきのあきらは当時はカッコイイ若者としてファンが ついていて,彼がギャグをすることはファンはそこまで 期待してなかったと思います。
まぁ実際のところ現在も芸能界には癖が強い人が何人かいて, 必ずしもそれは演技じゃなかったりするのですが,実は 普通の人なのに演技で変わった人やかっこいい人…として 振る舞っている人がかってはたくさんいた気がします。 しかしその物語りは今は剥奪され,どんなにすました 歌をうたっていても,次の瞬間にはお笑い芸人にいろいろ 突っ込まれ丸裸にされているという番組が多いように 思います。
実はわたしはそういう傾向がある最近の歌番組やバラエティが あまり好きではないので殆んど観てません(なのでわたしがかってに 勘違いしてる部分もあるのですが)。しかしよくよく考えると それこそスターのメタ化が進んでいる事なのだと思います。 まだ今のところ同じ時代に急に仮面を脱ぎ捨てて「実はこれ ポーズなんだけど」という様な歌手は殆んどおりません。 しかしWinkが当時笑わなかったのは事務所から笑わないように と言われていた…と今暴露するように,スターの物語りの 暴露は進んでいるように思います。
そういう意味でいうとお笑いは最初からメタ化された 存在で最初から素であるかのように振る舞います(もっとも お笑い芸人の素顔が小難しい人…っていうのもよくある話 と聞きますが)。ファンは殿上人のようなスターよりも 親しみをもち,演技であることを自明で演技するお笑い芸人の 方に憧れる…という現在は今更物語りには入っていけない…という 現在人の心情の表われなのかも知れません。
…余談ですが,もちろん過去にも落語とかの様に,お笑いが 人気者だった時代はたくさんありますけど…。
古いコンテンツはどうなっているか?
さてこの文章の最初の方でアニメ,マンガ,ゲームは 歴史が浅いのでつくり手とファンがわかれていた創成期と ファンがつくり手になった現在との違いを,わたしたちが 感じることができる…と言う意味でメタ化を感じている…と いうようなことを書きました(書いたつもりですがうまく表現できてるか は謎です^^;)。では,数百年続いている他のコンテンツは どうなんでしょう?。
実際良くわかりません。数百年続いている芸能のは日本でも 歌舞伎や能,落語,狂言他山のようにありますし, 西洋でもオペラ,クラシック…などは日本人でも消費してます。 ジャズだって既に100年以上経ってます。元々お笑いであった 落語はともかく歌舞伎や能に関してはまだ役者に神秘性が 残っている気がしないでもありません。気のせいでしょうか?。 いや…違いますね。歌舞伎や能はそもそも「演技」ですから 役でやっている人物が虚像であることは観てるときから明白です。 問題は舞台を降りた後の役者像…というのが一般のファンが どれだけ知るところであったか?…ということでしょう。
そういう意味でいうと以前の芸能は部隊から降りたスターの 声を聞くことはファンには困難でした。舞台で演技であることは 知っていても舞台を降りるとどういう人間かがわからないと いうことで神秘性が維持されていたということでしょうか?。
そうであれば,コンテンツや芸能人のメタ化というのは, そのコンテンツの成熟…というよりは,現在の情報メディアの 発達の方が大きく影響してる…ということになるのかも しれません。ただし,ここであげた古い芸能は現在非常に 格式が高くなっていて,誰でもなれるものではない…と いう意味で,現在も神秘性が保たれているようにも 思います。
批判,提案,反発,離脱より「解く」ことを重要視する哲学
さて最初にあげた「グロテスクな教養」という本は いままで書いてきたコンテンツや芸能のことは何も書いてません。 「教養」「教養論」について書かれているものです。しかし それを読んでいて思ったのは現在の教養というのは解体… つまり読み解くことであり,つまるところメタ化なのだろうな…と いうことです。
哲学は本来解体…という作業をするものなのかもしれません。 そういう意味じゃ現在に限らず過去からずっと哲学は メタ化をする作業かも知れません(哲学にはそこまで 詳しい自信がないので間違っていたらごめんなさい)。ただし, それは哲学の話であり,教養が常に哲学であったとは思いません。 「思想」や「評論」は必ずしも解体ではなく,むしろ提案や 反発であり,解体とは逆のものだと思います。宗教は敵対する 思想を解体出来ても,自分自身を解体してしまったら 宗教の体をなしません。
そういう意味でいうと現在の教養がメタ化であれば,現在は 教養として哲学的手法が流行っている…ということでしょう。 そしてそれはコンテンツの視聴態度も哲学化し,芸能の 楽しみ方も哲学化しているというのは乱暴でしょうか?。
実際現在の書店には初心者向けにわかりやすい哲学的な本 (わたしはこれらを「プチ哲学」と呼びますが)がおいてあり, 哲学的=メタ的思想であらゆるものを考察する…というのが, ファッション的に受け入れられているように思います。 しかしよくよく考えてみると哲学というのは感覚的な判断を 排するので,やっぱり現在の人達のプチ哲学はあくまでも 「プチ」であるって事でしょう。むしろメタ化のテクニックを 使い,そこで感じられる感覚の変化を楽しむという事を してるんじゃないか?…とすら考えてしまいます。
いろいろかってに想像し書きましたが,少なくとも現在の 教養,そして芸能,コンテンツの消費には,大きな物語りどころか 個人の小さな物語りまでも解体してしまう,そういう メタ的な手法が主になっています。一方で物語りを 産み出すような疑似科学等も流行ってますが,それは 疑似であることを認めてそれを楽しむという,それくらいの 没入度のような気がします。
コスプレの一般化
さて現在オタク市場(萌え市場と言われているもの)に 注目が集まっています。秋葉に週末出かけるとメイドの 格好をした女の子がビラを配っていたり,派手な格好を した女の子がパフォーマンスをしていたりします。 またコミケではコスプレが盛んです。
まぁコミケでコスプレをする人達は実際にその作品の ファンというか元々そういうオタクであることが 考えられます。しかし昨今TVとかでメイドさんが取り上げられ, そうすると大抵女子アナがメイドの格好をして喜んでいるのを みると,メイド喫茶でメイドの格好をするのは別にメイド ファンではなく普通の女の子のような気がします。 もちろんお金になるからでしょうけど。
また路上パフォーマンスをしている様な人とかを みるとある意味過剰にアイドルっぽい格好をしていたりとかで 妙にコスプレ色がある様に思います。 そういう風に考えるとどうもコスプレの一般化が進んで いるようにも思われます。
コスプレも一種のファッション…という見方も出来ますが, ファッションとコスプレの違いはファッションは自分を 着飾るものであるのに対し,コスプレは他者になる…と いうことでしょう。もちろんファッションも変身願望の 表われであるということも言えます(鷲田清一先生等による)が, その自覚の強さという意味ではコスプレの方が明らかに 他者になるためにやってると言えます。
以前はコスプレはアニメファン等,一部の特殊な人達が やっていて,その外にいる人達は「変わった人達が やっている変な趣味」という認識でしたが,メディアが 取り上げてハードルが下がると,普通の人達も喜んで 行うようになっている気がします(ちょっと暴言入ってますが)。
これは上に書いた「個人の物語り」の解体により,自己の 物語りを失った人達が自覚的に物語りに乗っかろうとする 行為ではないでしょうか?。もういったい自分が何者なのか 良くわからない…,そうであれば自覚的に何かを演じれば良い, …コスプレの一般化はそういうメタ化の進行と無関係では 無いように思います。
そうであれば,この傾向はメイドやネコミミ…とは 言わなくてももっと軽いものがますます進み,平日と 週末で別の人間を演じるような人達がどんどん増えていくかも 知れません。
一般の個人におけるメタ化の波
というわけで,ここまで「メタ化」はコンテンツの 発展とともに進んできましたが,それは別にコンテンツの 中だけで起きてる事ではなく,外側の一般の世界でも 大きく進み,そしてそれは一般の個人の物語りを解体して その中で人は与えられた物語りを演じなければいけない…と いう事を書いてきました。ついでに書くと,今インターネットの ブログでいろいろ論説を書く素人が(わたしも含め)多くおりますが, 説得力があり人気があるのは基本的にメタな視点で物事を 解体している人達です。
しかしそうは言っても,一般の人達が本当に全員メタ化し 自己を,そして社会を解体してるのかは良くわかりません。 既存の価値観は解体していてもTVでは多くの疑似科学が毎日 生まれそれにのめり込んでいる人達も多いところをみると, 実はメタな視点を提供してるのはメディアや一部の人達であり, 多くの消費者は誰かが作った「メタ手法」に没入してるだけ かも知れません。
まぁしかしいずれにせよ,今の世の中はメタ化が大流行であり, メタ化の中にインテリジェンス…つまり教養を感じる雰囲気に なっているように思います。しかし教養というものが,時代により 変わっている…という指摘を考えるとこのメタ化の流れもいずれ 古くさい…と言われる時代が来るのかも知れません。
メタ化の未来?
そういうわけで,ここまでずっとメタ化について書いてきました。 実際のところ社会のメタ化が進んでいるのは,コンテンツの 年齢…とういうよりは情報のスピード,方向性の変化が 大きく寄与してるのかも知れません。そうであればこの傾向は ますます強くなるかも知れません。
しかし一方で価値観が解体された日本では,既に信じられる 価値を「金」にしか得られない拝金主義の考え方が非常に 強くなっている気がします。儲かるという事だけを良として 物事を測る人が非常に増えてます。一方では環境保護や ボランティア等の拝金とは逆の活動も増えてますが, 根付いているとは言いにくい状況です。
またメディアによると奇怪な犯罪が増えており,治安が どんどん悪くなっているという事も言われてます(嘘っぽい 部分もありますが)。さらにニート等や少子化という問題も あり,必ずしも今の日本はいい状態ではないとも言えます。
もしこれらのことと社会の解体…物語りの消失が関係あるのであれば, このまま解体が進むことが果たしていいことなのか?いう気はします。 そうであれば,そこで新たな物語りがつくられる事の方が 望ましい…という気もしないでもありませんが,それは一部の人に 都合がいいものがりであってはならないわけで,それはそれで 難しいなぁ…と思います。
余談ですが,マスコミや政治家がやってるのは物語り作りであり, それに乗せられている人が結構いるのも事実です。政治家で一番 物語り作りがうまいのは小泉首相なわけですから。