統計と人の話を再び
以前わたしはガンにかかり(また終わってませんが)悩んだ時の 心情から 統計は人間(の心情)にマッチするのか? というのを 書きました。ガンというのはどこまでも確率で語られる病気です。 生存率や再発率,また発生率など。原因がある程度特定されている ガンでも同じ生活をしていてもなる人とならない人がいて, それは統計で語られます。
学者であるわたしはそれはそれで理解できるのですが,一方患者としては 自分が助かるのか?治るのか?が「視点」であり,マクロに語られる 治る見込みというのは,まるで心に響かないという気がしました。 正直90%治るという数字があっても,10%に入ったらどうしようと 悩むし,80%が助からないとう数字があっても20%に入るかもしれないと いう希望を持ちます。実際わたしが今ここで文章を打っている 確率は50%無かったかもしれません(わたしのガンは症例が少ないのか 細かい統計値が見当たらないので,はっきりとしたことはいいにくいの ですが)。
そういう経験から,学者であるにも関わらず,わたしは「人」に語る時に 統計で納得させるのは無理だろうという感触をもってました。 そしていま世の中を見ると,原発,放射能,ガンの発生,地震の発生等, 多くが確率で語られ,そして見事に「人々」を納得させることが 出来ずにいるように思います。
実際に数百年から1000年に一度しかこないといわれた大地震がきて しまったわけですから,確率的に低いということが,何の安心にも ならないという印象を人々の心に刻み付けられてしまったのでは ないでしょうか。こういう中で,ガンにかかる人の数が 数パーセント以下だとかいわれても,たぶん安心できるはずはありません。
がん患者が感じていた,統計でしか語れない事象にたいして確率のみで 語られても何の安心も出来ないという感触を,この大地震は一般の 人まで広げてしまったのではないか?という気がします。
少し話が脱線しますが,これまで公害というのは多くは化学物質が 悪さをしていて,「化学」によって語られていた様に思います。 生物も化学反応を起こすし,医療も化学を使うので,なんとなく それは自然のことのように思ってました。しかし今放射能,および 放射性物質が問題になってる時に,放射能が「物理」で語られること, そしてその物理で語られるものが,生物や医療(病気)へ影響する事に たいして,多少の違和感を感じてます。まぁ実際は化学にも 生物にも医療にも物理のテクニックを使う領域はたくさんあるんですけど。
化学反応は科学の領域だけど,原子の世界は物理なのねと思うと ちょっと不思議な感じがします。更に物理は非常に数学的です。 物理に統計を持ち込んだのは割りと新しい(というか数学でも統計は 新しいのですが)とは思いますが,統計で原子を語るのも数学,または 物理的な技術なのかも知れません。あと物理って「物のコトワリ」 なんですよね。
話がそれましたが,実は心理学でも統計は良く使います。今の科学は 統計を非常に便利に使い,人の心も統計で表そうとします。そもそも 統計は理屈がわかってない事象を扱うことが出来るから便利なのです。 ただ実際に「一人の人間」の視点に立ったとき,統計や確率があまりに 心情とかけ離れているという感覚はわたしの中では日々強くなっていきます。 確かに科学として,学問として統計が便利だというのは良くわかります。 でも統計で人の心を動かせると思うのはたぶん間違いです。いま, 多くの「専門家」がそういう間違いを犯してないでしょうか?。 今の世の中の論調を見ていると,少しそういうことを感じます。