過去の未来予想図との乖離(04/05/26)

半世紀前に描かれた未来像と,現在を見比べてみると,いろんな 意味でギャップがあって,現在から未来を見ることに対しても, 抵抗を感じるほどです。なんども日記でそれらしいことを書いていますが, あらためてここに書こうと思います。

過去に書かれた未来予想というと,昔の小説やマンガの中で今でも 触れることができます。最近は手塚アニメや横山アニメのリメイクなどで, 当時の原作を最近読み直したり,また先日ですがA.C.クラークの「幼年期の 終わり」とかを読んでいて,半世紀前に描かれた未来が,時代的に そろそろやってきている部分もあるのに対し,実際はそこに描かれたものと かなり違うなと感じています(一致している部分もありますが)。 今年はアトムが生まれた年なので,そこでのギャップ(実際は生まれいない)も あるのですが,そもそも手塚治虫が描いた未来像と方向性があっていれば, 単に物差しの問題だと思えるのですが,そうでも無いと思います。

というのは,むしろ第二次大戦後冷戦構造が終わって,日本では高度経済成長が 終わって…というわけで,冷戦中,成長中から見えた未来とかなり 今は違うように思えるのです。つまり過去に書かれたSF小説やマンガの 中では,結果的に悲観的なものとして描かれていても,少なくとも 科学技術の発達自体は一貫して人を豊かにするものと描かれて いた気がするのです。もちろん,それでもいろんな理由で人類が滅びると いう話はたくさんありますが…。

わたしが一番ギャップを感じるのは,過去のSFにおいて,ロボットや 機械技術の発達は人間に余暇をもたらすという予想図です。 単純な労働から人間は解放されて,ロボットという新しい奴隷のおかげで 人間は貴族のような生活ができる。 しかし現状どこにもそんなものはありません。 ロボットはなくてもオートメーション化はいろんなところで進んでいます。 しかし,人間は暇にはなってないのです。確かに機械に仕事を奪われた 人はいるかもしれません。しかしその人達は余暇を楽しむわけじゃなく, 貧しくなるだけ,そして収入がある豊かな人は,寝る間も惜しむほど 忙しい人達となっております。

これは一体どういうことなんでしょうか?。理由はいくつか考えられます。 すべての人間が働かなくても良くならないと,結局一部の有能な 人に仕事が集中する。さらにそういう人には働かない人より多くの 報酬を与える必要があるため,貧富の差が拡大するというもの。 特に後者は共産主義のように,働ける人が働いて平等に分配される社会で あれば,こういうことは起りませんが,それは労働意欲の面から 難しいので,結局差が出るのかと思います。

また人間以外の機械化が進むと,例えば交通や流通そして情報が どんどんスピードが上がり,結果的にそれらの一連の流れの中で どこかに人間の判断をする工程が入っていれば,その人の仕事量が 増えていく…ということに現在なっているようにも思います。

というのは,わたしが素人ながら考えたことですが,この辺の話を 経済学とか社会学とかとかそういう専門的な立場から説明した 書物はないのでしょうか?…。読んでみたいのですが。つまり 科学が発達すればするほど,貧富の差は広がり,金持ちは忙しく なる…と。

もう一つ,昔の予想図とギャップを感じること。上記は科学の発展が 労働条件や生活を豊かにするというものでしたが,こっちはの方の問題です。

それは科学が発達すると宗教がだんだん不要になっていくというもの。 実際は全くそうなってません。 むしろ科学の発達が,カルト宗教が生まれる原因になっているとさえ, 感じます。 これについては,以前から良く思うのは,科学は人間の「心」や「死」に 対して全く納得の行く形の回答を示していない,むしろそれを否定( もしくは無いこととして扱う)する方向に発展しているために,それを納得するために 宗教が必要となる…ということだと思ってます。

科学というか従来の唯物論だと物質は動物だろうが無機物だろうが, 人間だろうが,全て原子の集まりです。また人間も動物も有機物で 化学反応や電気反応をして動いているだけです。我々がたしかに感じる 「心」がどこにあるのかわからないし,説明しても単なる脳で起きてる 化学反応としか言えません。そして誰でも確実にやってくる「死」に ついても死後に対する説明も出来ないし,その時に自我や心はどうなるのかも 説明できてません。最近「心」に関する科学は増えてますが,わたしは 直感的に現在の論理学では心というものを誰にでもわかるように 説明するのは不可能ではないか?と思っていたりします。言葉自体が それを表現する手段を持ってない様に思うからです。 それゆえに心の問題や死の問題で悩む人達は宗教に走りがちになるのです。

この問題は特に宗教を無かったことのようにして科学教育を行うに つれて顕著になっているように思います。西洋で宗教から自然科学が 分離されたときに,科学の問題と宗教の問題は両立するという立場だったと 思うのですが,少なくとも日本の教育では戦後はそういう感じでは 教えてません。

こういうことは当然のように起きたと思っているのですが,なぜか 過去の小説やマンガを見ると,人々の心からは神は消え(そのかわり 宇宙人とか出てきますが),それなのに幸せになっているのが 多い気がします。

たしかにわたしが子供の頃は科学が宇宙の成り立ちから全て 説き明かしてくれるような雰囲気がそれらの本の中にはありました。 時間の謎,宇宙の果て,それらをいつか説き明かす気がして, 少年だったわたしはワクワクしたものです。しかし現在の年齢に なって思うと,例えば時空の謎が解けても,自我や死の謎は 解けません。ましては幸せ等という心の平穏を科学が説き明かす ことはないと思います。それは科学がどんなに自分の周りの原理を 解明し改良していっても,幸せというのは自分の心のあり方だから です。

科学が人間を幸せにできるとしたら,幸せを感じるように, 直接脳に刺激を与える位しか現状は想像できません。もしかしたら 未来は違った方法が発見されるのかも知れませんが。しかし, 少なくとも現状発見されている科学的に力業で人々に幸せを 感じさせられる方法というのは,なぜか法律で禁止されています。 これはなぜでしょう?。幸せにする手段が良くない…と言うように 一般にはとらえられているのかも知れませんが,そもそも社会が 幸せになることを否定しているのであれば,どういう方法が 発見されてもそれは禁止されるのかもしれません。 実際に過去における宗教組織や権力はそこに属さない宗教的行為を 禁止したこともあります。

他にもいろいろ「話が違う」と思うことはたくさんあります。上の最初の 例を考えれば考えるほど思うのですが,そもそも豊かさとは 貧富の差があってこそ実現するのではないか?と思うこともあります。 これは別に貧富の差を認めているわけではなく, 以前書いたように現在の 経済制度が文明の格差や非平等貿易,取引が根幹であったのでは ないか?…と思ったりするわけです。 そして,過去において祝福されていた未来図が, が実際の段階になると全く逆になっている,と いうのをみると,更に現在,小説やマンガやまたは知識人や政府が 言っている「こうなって良くなる」という未来図は,やっぱりそこに 進めば進むほど全然違うように我々にとらえられるような気がします。 過去に描かれた理想は現在でもある程度信じられている社会体制 (民主主義,普通選挙,自由貿易等)に通じています。 未来予想図に正解は無いとは思いますが,科学,経済らの「発展」と いう言葉に,そんなに期待していいものなのだろうか?…と,良く思うのです。

補足で書くと,わたしは上にちょっと書いた「心のあり方」を しっかり考えるほうが,幸せには近づけるように思ってます。

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04 May. 27th

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