顔の見え方


1.はじめに

「共感の幻想」は,どれだけの人 が読んだのかはわからないが,結構反応をもらっている。「同じよ うなことを考えたことがある」という類のものが多いのですが, 「ならば」ということで,もう少し,「見えるもの」「感じるもの」 について考えてることを書いてみる。
音に関して書くのは簡単だが,ある種私にとって自由な発想がし にくい(いろいろ研究しているため)視覚について書いてみる。もち ろん視覚は専門外なので,想像である。しかしある種「形」を見る ものであるため,説明し易いかも知れない。音を文字にするのは難 しいものね。
注:文字は「言語(音声)を表現するもの」であり,「音」自体 を表現するのは難しい。絵はそれに比べると視覚を表現できるが, そもそも絵は再び視覚で受容されるため,本当の意味での表現とは いえない様に思う。

2.みまちがい

街をあるいていて,ちらりとすれ違った人を見ると,知っている 人に見えることはないだろうか?。で,もう一回良く見ると全然違っ ていたりとか。またふっと目の前を横切りすぐ角を曲がった人の服 が青だと思って,もう一度ちゃんと見直すと服の色が違っていた,っ てことはないだろうか?。これは一種の見間違い勘違いであるが, なぜ起きるのであろう?。もっとひどくなると,目の前にないもの が見えたりする。ないのに「あるはず」と思うと見えたりすること がある。これは何なのであろうか?
これは単純な見間違いから幻覚まで含む話であるが,私は基本的 に同じ部分(仕組み)が大きな原因の一つだと思っている。

3.見えるものは正しいか?(顔形は連続に変化するか?)

視覚というのは,もの(特に固体)の物理的形状をを把握すること ができる。錯視とかの場合を除けば,直線は直線に見えるし長方形 は長方形に見える。したがって,我々が見て「認識」するものは そのものの形だと思ってしまっていないだろうか?
しかしそうなのであろうか?。四角から三角へ円へ形を変える時, 我々はその途中の形を正確に捉えているのであろうか?。いやそう かも知れない。でも顔を例えばAさんからBさんへ変化させる時,本 当に滑らかに変化して見えるのであろうか?。
現在はモーフィングという技術でCGではそれが可能である。Aさん とBさんのモーフィングを途中で止めて見た場合例えば全員が 「これはどちらかというとAさんに似てるな」というのであろ うか?。わたしはAさんに似ているという人と,Bさんに似ていると いう人とわかれると思う。そして少しずつモーフィングを進めてい くと,ある人については急にBさんに見えてくるのではないか?。
この手のテストは,いわゆる類似性判断テストであるが,これっ て誰かやってないのかなぁ?。もしあるなあ知りたいところである。
ふっと思ったのであるが,形そのものを認識する部分と,変化 していることを認識する部分って,違うんじゃない?。そんな気が しただけですが(^^;)。

4.ディフォルメ(認識はシンボリックなもの)

そもそも誰かの顔を認識する時「○○に似ている」といわれると 急にそう見え,そしてそれ以外に見えなくなることがないだろうか? そう考えると,どうも人の顔は厳密な形を見ている(認識してる)と いうより,身近なものへシンボライズしているようにも思える。あ る種似ている部分だけ,増幅されて見ているのである。
すこし話は逸れるが,先日フランスの女性に「ワールドカップ日 本代表の選手で誰がハンサムか?」という街頭インタビューをして いるの聞いて,フランスの女性は口元や輪郭を気に入った理由であ げていた。日本人は目とかをあげる人が多いように思うが,着眼点 が違うようである。そしてその着眼点をやはり増幅(ディフォルメ) し認識しているではないだろうか?。
ちなみに私はやはり目とか口とが特徴のある人が好きのようだが, 多分その辺を顔をディフルメして認識しているのかも知れない。
すこし話はそれるが,漫画で「Im home」というのが,ビックコミッ クオリジナルで連載されており,これが主役が奥さんと子供の顔を お面としてしか認識できないというのがあって,いやぁ,やっぱり そういうことってあるんだろうなぁって,思ってしまいました (^^;)。

5.音声と顔

本来見聞きしているものは,そのもの自体を認識してるように (そのもの自体を認識するという表現はわかりにくいですね ^^;)思いがちである。しかしそうではない。音だとわかり易い (というか説明しやすい^^;)。
音声である。音声は人間にとって特別な情報を多々持つため,特 殊な認識のされ方をする。一番わかり易いのが,その言語を知らな い人が聞く音と,知ってる人が聞く音が異なっていることである。 また同じ人でも言語を理解する前と後では違って聞こえる。外国語 を習得した時のことを思い出して欲しい。昔は全部同じに聞こえて いた外国語がはっきり違いがわかるようになる。そして一旦そうなっ たら,以前のようには戻れない。音がある時点で意味を持って 認識された時,特別の形で認識されるのかもしれない。
そして,聴覚の「音声」にあたる視覚として「顔」を今回挙げて みた。顔も人間にとってはある意味,特別な形である。そしてそれ を考えたら,「何かに似ている」という認識の仕方が多い のではないか?と思ったのである。

6.我々の見える世界(認識モード)

と上に書いてきたことから,我々は顔形を認識する時,シボリッ クに認識してると思われる。他の人に見間違ったりするのは 「誰だに似ている」という風に認識しようとして,無意識に早 とちりするのである。また顔の形も自分が重要視している部分が強 調されて認識(というか認識される際のキーとなる)されているのか も知れない。 また他の刺激からある情報が連想されて認識された 気になるのが幻覚なのかも知れない。
だとすると我々が見てるものというのは,全然現実とは違うもの ということになる。実際そうなのかも知れない。実際目には死角が あるのであるが,片目で見る際ですら,それはわからない。明らか に見えない部分を意識しない様にできている。
「見落とす」というものもそうであろう。目の前に張り紙 がしてあるのにあったことすら気づかない時がある。部屋 の中を見回し,後から記憶を頼りに絵を描いた場合,例えば認識さ れてない壁の絵とかはなかったものとして描かれるだろう。でそれ があった部分は真っ白な壁があったりする。つまり認識されて記憶 している映像は見たものではなく,認識されたものを元に再構成さ れたものであろう。
しかし厳密には難しいかも知れないが,実際は冷静の物事の形を とらえることもできるのかもしれない。音でも分析的に聴く場合と, 全体を漠然と聴く場合はモードが異なってるようである。だとする と視覚もものごとの形をイメージとして捉える場合と,な にかシンボル(顔とか)として捉えることと両方できるので はないから?。しかし聴覚の経験からいうとこれは同時にするのは 困難である。モードとして切替が必要なのである。

7.おわりに

というわけで,視覚の話を書いてみた。ここでいいたかったこと は,物事の形ですら,我々はシンボリックに見ているのではないか? ということである。つまり形をイメージ(ビットマップだからある 種その形そのもの)でとらえるより,ある種意味づけ(シンボライズ =キャラクタライズ)しているのでないか?ということである。これ はちょっと考えるとわかるが,ビットマップよりキャラクタの方が 情報量が遥かに少ないのである。であるからやはり情報処理的に有 利な方を使うのかも知れない。
まぁそんなことをどうでもいい(^^;)。ここでいいたいのはシンボ ライズは個人で行なうものである。従ってものの形でも,かなり人 によって違って認識していることであり,特に漠然と認識するモー ドでは,どれだけ共通の認識部分があるのであろうか?,というこ とである。

一人言のページへ戻る


98 Jul. 21st

98 Jul. 24th(一部加筆)


(C) 1998 TARO. All right reserved