ディジタル技術が我々にもたらしたもの

長年とよべるほどでもないが(^^;),メディア処理の研究者や 技術者をやっていると,いい加減ディジタルとか マルチメディアとかいう言葉には新鮮さを感じなく なって来ている。これは「技術の限界がわかってきた」 ということでもあり,現場にいる自分としては,これが 正しいと認識している。

ところが世の中はそういうわけでもないようだ。 少なくともTVの様な大衆向けメディアは,インターネットとか ディジタルとかコンピュータとか取り上げ,あたかも 夢の技術の様に言う。確かにこれからこういう技術を 利用する人は,今まで考えられなかった恩恵をこうむるのであろう。 何せ私がこうやって雑文を世界中に発信してる(という表現は 変なんだが:-p)のもディジタル技術のおかげだ(笑)。

ただ私が気になるのは次の様に思ってると言うか, 言われる事だ。

という表現。勘違いならいいがディジタル万能思想を感じる。

先日だがTVを見ていたら「コンピュータを使えば誰でも ミュージシャン!」なんて事が言われていて,頭を抱えてしまった。 良くみると,ゲームセンタにはDJの真似事を出来るゲームがあったり, コンシューマのゲーム機にも,同様なものがある。挙げ句のはて, シーケンサをつかえば,誰でも作曲が出来る,と言われた日には, 「あぁー,音楽も子供の積み木遊び見たいなものになったわけか」 と思わざるを得ない(苦笑)。「私にもできた」と喜んでいる人が TVの中にいたが,誰でもできることができてうれしいんだろうか?

というのは,音楽を苦労して習得し,そこのアイデンティティを 求めている古い世代である私のヒガミである(笑)。ちょっと話を 戻そう。

気持悪いのは,ディジタル技術を使えば何でもできるという様な 論調である。ではディジタル技術を使えば,

この四つをあげたのは,私が上記をいずれも知的労働が 重要な仕事だと思うからだ。ただしいずれも知的作業の 他に肉体的作業も存在する。ディジタル技術は,その部分を 簡単にしてくれてはいる。しかしもっとも本質的である 知的作業は肩代わりしてくれない。

しかももう一つ危険性がある。ディジタルの世界をすべて だと思ってしまうことだ。新しい研究者にたまにいるのだが, 音の研究をしていても音を聴かない人がいる。彼にとっては 音は単なるデータであり,しかもAD変換でディジタル化した 信号処理のみを考える。そういう人はディジタル化した音というのは 音をすべて正しく表現できてると信じている場合が多い。

しかし実際はディジタル表現はあくまでも自然現象を, ある次元で切り出した(表現した)ものであり, 決して現象そのものではない。だからディジタルの領域で 出来ることが,そのものに対して出来る事すべてかと思い込むのは, 人工物になれてしまった現代人の陥りやすい罠であろう。 表現とはそもそも表現であり,そのもの自体ではないからだ。 ディジタルというのは新しい表現であるから, 逆に従来の表現でわかりやすかった事が, わかりにくくなっている場合もあるのだ。

自然科学の研究者はあくまでも対象そのものを確認しながら データを処理すべきで,データなかにすべて(状態のみではなく 方式まで)があると思うのは間違いだ。もちろんこれは ディジタル限った話ではないが…。

知る,わかる,感じる,判断するのはいつも人間だ。 新しい表現は新しい知り方感じ方を与えてくれるが, 最後(判断)までは面倒を見てくれない。我々は冷静に 技術を捉え,自分の考え(感性)で判断をしなければいけない。

そう,駄文をWebPageに載せるべきかどうかも(^^;)…。

余談だが,最近発表になったSACD(super audio CD)は, 音を従来とは全く違った次元(視点と言うか)で ディジタル化する。そうすると今までの処理法が, あくまでもある表現のためのものだったことが 露呈するかも知れない。そういう意味ではちょっと期待している:-)。
と,書いて一晩経ってみると,どうもまとまりがないですね(^^;)。 複数の視点をごっちゃにして書いてます。自分自身も書ききれて 無い感覚なので,近いうちに整理して,続編を書かせていただきます。 失礼しました(_o_)。
期待されてない気もするけど…(^^;)。


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99 May. 11th


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