なぜわたしは死ぬのが怖かったのか?
癌の手術から一年半経ち,少し再発に対するリアリティが 薄れてきたので,手術後の気持ちを今立ち返って書いてみます。 一年くらい前は,物凄く自分の死に対してリアリティが強く, そういうことを口に出したり文書にするというのは,なんとなく 言霊的に怖くて出来ませんでした。今だと少し書ける気がします。 もっと経つと…書けることも出るのでしょうが,忘れていく部分も多いので, 今の視点から書いてみたいと思います。
わたしが癌であることがわかった時,「もうすぐ死ぬかもしれない」と いう思いを強く持ちました。そしてすごくうろたえました。おびえました。 でも,それと同時にいったい何におびえているのかがわからず悩みました。
ちょっと正確に書くと,癌と判明したのは手術…退院後の病理検査の 結果でしたが,そもそも人間ドックの結果は明らかに癌を連想するもので あり,さらに手術前の検査や手術前の説明も癌のおそれがあるという ものでした。でもなぜかその時は,そこまで怖いとは思ってませんでした。 今考えると,状況を飲み込めてなかったのかもしれないし,「間違いかもしれない」と いう楽観視があったのかもしれません。手術の前も,手術により 手違いで死ぬことがあるかもしれないと思ったりもしましたが,それも 数パーセントの可能性ですから,やっぱりそこまでではありませんでした。
でも,診断書に「悪性」と書いているのを見ると,癌なんだ…という じわじわとした実感が上がってきて,そして,再発して死ぬかもしれない…と 思うようになりました。わたしは物事の最悪のケースまで考えてから, それよりはマシだろう…という風な思考実験をすることが結構あるのですが, この状況で最悪のケースを考えると,まぁすぐに再発して,死んでしまうって 事を当然考えるわけです。そして退院後の診断結果をもらってから,半年くらいは, まるで自分がすぐにでも死ぬんだ…と思い込むようなところがあって, わりと常におびえてるような感じでした。今考えると結構ノイローゼ 気味だったと思います。この死に対するリアリティは,定期的な 予後検査の結果を診るたびに薄れては行くのですが,今でも,ふと 湧き出てくることはあります。
しかし,やっぱり徐々に恐怖は 薄れていっているように思います。いえ,というより今から一年ちょっと 前くらいまでは,ものすごくおびえていたと思います。 しかし,先に書いたとおり,おびえている自覚はあるものの,いったいなぜ おびえているかが考えてもわからないのでした。 最近mixiとかはてなの匿名日記に「どうして死が怖いか」みたいな 事が書いてありました。匿名日記は軽く書いていたのかもしれませんが, mixiの方は家族がやっぱり癌になり,荒れている…っていう事で, 残りの人生を穏やかにすごして欲しいのに…みたいな文脈でもありました。
現在の日本の社会みたいに死にリアリティを感じないところに生きていると, 死を見知らぬものとして漠然とあこがれるようなことがあるように 思います。普通に生きて生活をしていると,それなりに辛いことが ありますが,それから逃れるために,空想の中の死に思いを寄せる…ような 感じです。わたしは以前「生きるということは暇つぶしである」と 思ったことがあります。それは人生に過度な目標を立てることに 対するアンチテーゼでもあったのですが,もし今すぐ死ぬのであれば, 老後の心配もしなくて良いし,今背負っている義務をすべて投げ出す 事も出来る…という様な。歳を取ってボケたり,寝たきりになるという 恐怖がありますが,癌は動けなくなってから死ぬまでが結構短い病気だし, 痛みが激しいという恐怖はあるものの,薬でやわらげることも あるでしょう。生きていることが楽しくて仕方ないのであれば, 死にたくないと思うでしょうが,そうで無い人が死にあこがれるのも わからないでもありません。
でも,実際に,死ぬかもしれない…とリアリティを感じた時に, かなりおびえました。ショックというよりは,じわじわと湧き出て 来ました。死ぬのが嫌だと思っているのか?。生きたいと思っているのか, 実はよくわからず,何度も「なぜ自分はおびえているのだ?」と 自問自答したものです。 で,その時散々考えて思ったことは,そのおびえは「そんなつもりじゃなかったよ」と いうだった気がします。つまり戸惑っているって事です。40才そこらで 死ぬなんって聞いてなかったよ…。急に言われても…という感じです。
わたしは別に死後の世界の否定者ではありませんが,ある確信も ありません。死が「無」なのか,それとも来世や輪廻という次の段階に 進むことなのか,それはわかりません。ただ,確実にわかっていることは, これまで死んだ人は生き返ってないということです。 つまり死はやり直せないということは確実です。死んで「やっぱり 来世も辛かったので無しにしたい」ということは不可能です。死んだ 経験者の話も聞いたことありません。ですから,急に言われても, 一度っきりのことなので,どうしていいか良くわからなかったというのが 実のところでは無いか?と思います。
よく死ぬとわかった人の行動を題材にした映画やドラマがありますが, 実際に自分がそういう境遇になると,実はぜんぜん真剣に 考えていなかったことがわかります。死ぬとわかったら何をしますか? とかいう命題を考えたことはありますが,それはリアリティがなく 漠然と思っていただけでした,というのが実際にそうなり追い詰められると よくわかりました。もっとも本当に死ぬ時期がわかるのと,いつか わからないけど近いうちにというのは,結構違うようにも思います。
それで,はっきりとわからないのですが,死ぬとわかったらやりたいことがあるか? と再度改めて真剣に考えたりもしました。ですが,実はたいして やりたいことはないというのがわかりました。よくある, タブーをやって死ぬとか,お金を使い果たして死ぬとか そういうことも想像しましたが,ぜんぜん楽しそうに思いませんでした。 人に迷惑をかけて嫌われて死ぬよりは,人に惜しまれて死ぬほうがいいようにも 思いました。だから意外に死ぬとわかっても…, いや,そうなったらなおさら,やってはいけないことをやるとか, どこかに行くとか非日常的なことを経験するよりは, 残された日常に専念したいと思ったりもしました。末期癌患者で, 一生懸命にこれまでどおり働く…という人もいますが,そういうのに ひどく共感を覚えました。
もっとも,わたしは,これまでいろいろと楽しいことをやってきた… という自覚があります。ですから,あまり遣り残したことも無い…。 いや正確に書くと自分ひとりで楽しくなる方法は大体わかりました。 ですから,実はたまたまですが,病気になるちょっと前に思っていたことは, 残りやってないことは人とかかわって新しい楽しい体験をすることだ と思ってました。 ちょうどそういう矢先でした。あと自分がやってないのは結婚することとか 子供を育てることだな…と思った時に癌になりました。だから それに関しては,もしそれが出来ないとがっかりだな…とは思いました。 そして,結婚を前提に付き合ってる人が 出来たタイミングではあったものの,まだ結婚の約束をしたわけでもなく, 「今なら迷惑をかけない」という考えが浮かんだりもしたし,その時点は, 強く生に執着する理由は見つかりませんでした。
ですが,実際に,死ぬことを考えると怖いという思いだけはありました。 死を怖く考えるのは生に執着してるからではなく, やはり戸惑いなんだろうとは思います。
それから,実際すぐ死ぬかもしれない…と思って1年以上経ちました。 少しは答えが見えてきたのか前ほどは怖くなくなりました。いや,実際 癌が再発して無いので,死ぬことのリアリティが減ってるだけなのかも 知れません。もしかしたら子供を作ったりその子供が成人するまで 生きられるかもしれない…と思ったりもしてます。家族が出来て 人と密なかかわりが出来ていけば,その中に多くの自分が広がっていく そういうものだ…という風にも考えるようにもなってます。
今は「死にたくない」とはあまり思ってませんが,「生きたい」とは 強く思ってます。「死にたくない」と「生きたい」はかなり違うものだと思います。 死への恐怖を克服したとは思ってません。死というのは,差し迫って 観ると決していいもんじゃないよと強く思います。美化してもしょうがない。 がっかりなことです。 でも人は誰でもいつかは死にます。現代の日本人は人が死ぬところを あまり見ないこともあってか,良く死ぬことをわかってないように思う。 もし目の前で毎日誰かが死ぬ様な社会であれば,よくわかるか逆に 麻痺するかどっちかだと思いますし,生きてることを実感するとは 思います。
今の日本では,死ぬといわれたらたぶんほとんどの人は うろたえるのだと思います。それを恐怖だと思う人も多いと思いますが, 実際はたぶん想定外な想いからくるものなのかもしれません。 普通に暮らしていれば,なかなかリアルに 考えることは出来ないのだろう…と思いました。だから,死について想像してください というつもりは無いのですが,死に直面してショックを受けてる人に 「落ち着いて」といわれても結構難しいと思います。うろたえていると いうことだけわかっていただけたらな…と思いました。