数日前にニューヨークで起きたテロ事件のショックは まだ続いていて,今にも戦争が始まりそうな雰囲気に, とても嫌なものを感じておりますが,今から書く文章は, この事件が起きる前から思っていたことです。ですから, 直接その事件を見て,思ったわけではないのですが, 一見関係あるかも知れません。ただ,ここで私が書くことの 前提は,最近のエコロジーの話や構造改革の話…の方が 出発点になってます…。
さて,最近流行りの構造改革ですが,痛みを伴う… というのが頭につきます。これは「我々みんなの将来が 良くなるため個々人は苦しい我慢しましょう」という 事をさしています。でも,実際だれがどれくらい 苦しいのかはっきりしてませんし,構造改革をしなくても 既に苦しい人は多いというのが,最近の様ですから, わりかしマスコミでは構造改革に肯定的です。
もう一つ,エコロジーとかに興味がある人の話を 聞いていると,例えば原子力発電を反対したり,遺伝子 操作食品を反対したりしています。これもいろいろ突っ込んで いくと,中にはそれらの新技術が無くなることによって, 「個々人が不便になっても,我々の地球が良くなるので良い」 というような,スタンスの人も多いです。餓死者が 出てもいいのか?…って言うことを言っても,「仕方がない」と いう感じだったりします。
これらの姿勢は結局「我々」というある団体のために, 個人が犠牲になるのを容認するという姿勢です。私の勝手な 思い込みですが,この感覚は特に男性(少なくとも日本の場合は)に 多い気がします。会社のために個人で罪をかぶったり, 過労死するまで働いたり,死ぬかも知れないほど情勢が 不安定なところに行くのは(まぁ社会に出ているのが男性が 多いせいもありますが…)男性が多い気がします。 昔,女性が「女性が政治をすると戦争をしないだろう」と 言うのを聞いたことがありますが,戦争は「我々」のために 個人を危険な目に合わせる行為ですから,もし女性が 「我々」のために死なないなら確かに戦争は成立しません。 第二次大戦で,多くの特攻兵士が出たのも,結局は こういう思考回路があるからで,まぁ,最近のテロも そうでしょうけど…,もし「自分の命が何より大事」 という思いがあれば,こういうことは起らない気がします。
そう考えると,痛みを伴う改革に賛同するのも,人工減少を 容認する様に新技術を放棄するのも,結局は特攻の精神と 同じことになるのでしょう。
ちなみに,余談ですが, この全体のために…とか,未来のために…という 感覚はどうやら人間特有のものらしく,おかげで半年間も 我慢して作業をするような農耕が人間には出きるようになったらしいです。
この「我々」という感覚の対極は「私」です。 自分だけが助かり,自分だけが気持いいのが大事…という 姿勢です。こういう気持ちは,基本的にはあまりかっこいいもの とはされないことが多いようです。したがって,おそらく だれにでもこういう気持ちはあるのでしょうが,あまり 「私だけ良ければいい」という事を声を大きく言ったり, 聞いたりすることは少ない様です。
先ほど男性は「我々」が強い…と書きましたが,それは 別に女性が「私」が強いという意味ではありません。例えば 母親は男性以上に「自分の子供」に対しては,自分の 命を投げ出す思いが強い気がします。女性は家族や 親しい人を大事にする気がします。
さて,これで三つの段階が出てきました。「私」と「家族」 と「我々(社会)」です。しかし,「我々」という感覚は 元々は「家族」という感覚だったのが,家族から親しい人になり, 近所になり,地域になり…と広がっていった感覚のように 思います。つまり根は同じの様に思います。特に男性は 女性ほど,自分の子供という確証がはっきりしていないため, 社会をまるごと抱えてしまうような傾向があるのかも知れません。
と,ここまでは実は前置きです(^^;)。 本題は, 次のようなことです。私が最近よく思うのは, この「我々」というものの範囲が,どこか?,と 言うことです。よく人は(私もですが), 「最近の子供は」,「大人は」,「役人は」, 「政治家は」,「金持ちは」,「大企業は」, 「おとこは」,「日本人は」, 等といいます。これはこの対極として, 「我々は」というのがあるわけです。人は,「最近の子供は」 という場合は「子供でない大人」が我々ですし,「役人は」という場合は 「民間人」が我々なわけでしょう。
最近よく言われるのが,例の教科書問題とかで,近隣諸国から「 日本は」と言われたりするのですが,そのときに,その言葉の受取り手で ある私が,過去の日本人が行ってきたことを「我々」のこと,と 思えるかどうか?というと,すなおにそう思えない自分がいたりします。 一方,琉球やアイヌの人が解放を訴えるようなイベントに行って, そこで盛り上がっているのをみていると,何か自分が攻められているような 気分になって,今一つ入り込めない…と感じることもあります。 そして,ニュースとかで日本の経済が…,と言われても,「それって 結局東京の論理じゃない?」と思うこともあります。
結局のところ「我々」というのは状況によって変わり, 明確な線というのは存在もしないし,固定もしてないのでしょう。 そのときそのときに変わるものです。しかし,本来は家族から 発していて,それが広がっていったもの…と考えると,むやみに 自分の家族とはあまり関係ないもののために命を落としたりする 必要もありませんし,また,我々以外のものを認めないと する必要もない気がします。自分達と違う人達がいるのは 当たり前ですし,無理やり仲間を集めて一連托生とする必要も ないのじゃないでしょうか?
過去の歴史の事について,将来の事について,「我々」が 責任を求められるとき,自分にとって本当に大事なもの, そして,責任を負えるもの,それをよく考えてイキタイと 思います。
最後に,去年の年末に田舎に帰っているときに,書いたメモを 下に貼っておきます。これを元にこの文章を書いたのですが, 状況が変わったので,内容が変わったりもしていて,それならいっそ ということで,そのまま載せます。
ここ数日ずっと考えているのは,我々は…なに?。 というか自分が所属する団体を考えるとき何だと考えるか?。 自分が所属する団体というの幾つものいろんな階層がある。 小さい順からいうと,家族,一族,町,地方,学校, 会社,職種,世代,国,人種,思想,宗教,性別,人間…。 それぞれにもさらに細かく分けられたり,多くに跨ってるものがあり, 一概にサイズは並べなれない。また地方も市だったり県だったり, いろいろある。これらの団体というのは,自分を守ってくれるもの だったり,縛るものだったりする。
しかし完全に個人になってしまっては人は生きることは辛い。 完全に縛られないというのも実は無理である。そもそも生まれたときに 自由に考えよといわれても基準がないと選べないからだ。 たとえば家族のような小さな団体は,そうやって自分のベースに 大きな影響を与えるが,一方で無防備な子供を育て,また責任も 背負ってくれる。一方国家のような大きな団体が思想までを 制御しようとすると,普通のいまの日本人だと,拒絶反応を 示すだろう。それぞれの団体はそれぞれ請け負うものが違うのだ。
また団体には選んではいれるものと,選べないものがある。 会社は選べるが家族や国は選べない。
私は今実家にいる。近所をうろついていると,空気や風景から しっくりくる。東京にいるときには感じなかったリラックスを 感じる。すでに実家の近くには知り合いはいないに等しいが, それでも,まるで私が自身がここのメンバーの様に感じてしまう。 自分は果たして日本人なのか?。東京にいるときとは別の 国に来たような錯覚すらおぼえる。
私はこの地方では仕事をしてない。だからこの地方社会が どういう縛りやルールで動いているかはよくわからない。 中央政府がこの地方にもたらしているものは,法律なのか?, 開発計画なのか?,それともお金なのか,仕事なのか?。 さらに地元の人たちが,それをどういう風に受け取っているのか?。 その辺は実際に住まないとわからないと思う。
かってこの地方にいた,大陸から渡ってきた騎馬民族は, この地に何をもたらしたのか?。ここにいる人たちは 彼らの子孫なのか?。それとも彼らはここを通りすぎた だけなのか?。そしてその後,中央政府は役務等を 押し付けてくるが,仕事や金をつぎ込んだりもしている。 しかし,たぶんこの地方の人たちには一緒に国を動かしている という感覚はないと思う。
わたしはかって東京を「TVの国」と表現したが, では,この国(団体)はどこまでの範囲なのか?。