肉体の死と存在し続ける自分

昨日読書メモに挙げたブッダの本を読んだから…ってわけでも ないのですが,ちょっと「命」とか「自分の存在」とかそんな 話をメモがわりに…。

5ヶ月前から大病を患い,「死ぬ」とか「生きる」とか「命」とか…, そんなことを考えたりしてました。まぁ以前から考えては いたのですが,緊急に迫られて…というか…。その時 すぐに納得いく答えを求めたというか…。いまは少し落ち着いて, そこまで差し迫られた感じもないのですが…。

良く死期に迫られた人…特に若い人がそうである場合, 「他の人の心の中に生き続ける」みたいなことを言うとか 思うとかいう話を聞いたことがあって,それがどう言うことかとか 考えてみたり…。あと,残された方もそんなことを言ったりとか…。 ……そういうのは 死期が見えた人…の自分を納得させるの方便なのか?…とか思う一方で, 人間は他人の目の中で初めて自分を認識するのではないか? …という様な考え方もあって, (他の)人の中に自分がいる…というのは「自己」の本質では ないか?…とも以前から思ってました。後者をもう少し書くと,人間が 仮に認識できる世界に生まれたときから一人だったら,そこに自我なんて 生まれないのではないか?…という想像から考えられるし,他人との 差異の中で自己を作り上げてる(自分が何者かをわかる)…ということです。 この考え方自体は,自我論としては以前からあるものですけど, そういえば,あまり脳科学的な人は言わないなぁ…。 脳科学は脳の機構は調べても,その中の論理的な組み立てについては あまり語らないってことなのかも…。

で,先日読んだブッダの本の中に「『心』というのは『熱い』とか『寒い』とか 感じている感覚そのものだ」という言葉がありました。また自我…というか 自己の認識は「知識」であり(=心ではない),そして これが結構トラブルの元になってる…っていうような話もありました。 自己認識が「心」であるところの「感覚」から作られた,単なる「知識」 …つまり解釈でしかないのであれば,確かに自己の感覚は自分にしか 味わえないわけですが,人は他人の存在も感じ,認識しています。 元になる感覚は違うけど,自己が「認識」である以上, まぁそういう違いでしかない。だから,自分の中には他人の 「自己」も存在してるという気がしてきました。

一方で人間には「生きてる」状態と「死んでいる」状態があるのだけど, いずれも物質としての肉体は存在してる。死んだら腐るけど,腐っても それを形成していた元素はどこかにあります。生きてるというのは 単なる生命活動である…と思うと「生きてる」ということと「自分がいる」と いうことは必ずしも一致しない…のではないか?と。

その辺をぐちゃぐちゃ…と考えていると,「死ぬ」というのは自分を 認識してる自分はいなくなる。でも自分を認識している他人は必ずしも いなくならない…というか大抵いる。自分を作っていた物質もしばらくは いる。全部じゃなくても骨とかは残ってる。「生きてる」という状態は 認識する対象(自己)と材料(肉体)が一致してるしてる状態。でも他人が 認識している「自分」は自分以外のあちこちに遍在してるよね…と。

だから死ぬというのは一部の「自分」はいなくなるけど,全部の自分が いなくなるわけでもないのかも知れないな…とも思います。だから死ぬと 生きるは,自分の存在という意味では,少しだけの変化…であると。 確かに自分を認識している部分の脳の活動は止まるから,そのことを もって自分がいなくなる…というのが科学的というか現代人的な 解釈だろうけど,いやそこで無くなったのは自分ではないのだよ…と 思うこともできるような気がしてきました。「自分の心」が無くなった という感じかな?。自己の存在ではなく…。

というわけで,自分の生命活動が止まっても,「自分」が完全に 消えてしまうわけでないのかも知れません。でも人間は自分の「心」 しか覗けないので,自分が認識してるものはわかっても, 他人が認識してるものはなかなかわかりません。つまり他人の中にいる 自分というのが良くわからない…。だから不安になる。本当に自分が 他の人の中にいるのだろうか?…と。自分の生命活動が止まることによる 自分の消滅の不安は,もし自分が自分の中にしかいない…と思うと 自分が死ぬときすべて無くなる…という不安かも知れません。ですから, 他の人の心に自分がしっかり生きてる…という実感を感じれば少し 安心するのかも知れません。「他人の心の中に自分が生き続ける」という 希望は,そういうものかもしれません。だからそういう時は,相手の中に 自分がいるということをたくさん実感させる…ということが大事なのだろう… と思います。

…というか実際わたしもそう思いました。死ぬということで自分が そのうち消えるのであれば,一人だろうが関係ないのだけど, 死ぬかも知れないと思ったときは,一人になることがすごく嫌だった…。

まぁそういうことです。死を意識した人の心のあり様は人それぞれだと 思いますが,わたしはそう考えたと…。だからわたしは深刻な病気の人には とにかくかまってあげることが大事だと思います。もちろん, そういうのをいやがる人もいるでしょう。でもそれは無視をして欲しい …っていうわけではないと…。語りかけて欲しくないとか, 同情されたくないとかそういう人も多いでしょうけど,見てる …ってことは何かしら伝えるべきではないか…と。

今回書いておきたかったことは以上です。以下,余談…。 仏教の心理学は「滅私」なんだろうなぁと。だから「心」を科学で 扱えると。西洋思想は滅私出来てないので,心を科学的に扱えないのではないか? と,そんなことを思いました。

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'07 Feb. 18,19th


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