周囲や文脈に依存しない自己とはどこに存在するか?

少しメモ的なものです。あとで加筆修正するかもしれません。

自己とは何か?というのをこれまで何度か考えてきている。 自己は他人からは観測されないが,自分の実感としてはあるように感じる。 しかし「何か?」というのは良くわからない。
仏教は自己というものの存在を認めていないという解釈もあるらしいが, キリスト教とかは認めているのではないか?。仏教で輪廻している魂は自己とは 違うのだろうか?
これまでのわたしの考察では,周囲との関係の中で確認される自分という認識から 自己というのは半分自分,半分他人の中にあるということを書いたことがある。 それはそうだと今でも思うけど,自分が実感として感じる「自己」は 少し違うようにも思う。自分が感じる自己というのは自分に対する認識以外に, 明らかに自分の「視点」みたいなもの,つまり周囲を観察するときの中心となる 「点」みたいなものの様に感じる部分が大きい。
わたしはかって自己とというのは「ログ」の読み取り器みたいなものだという事も 書いていて,つまり,過去から現在に至る自分の記憶の連続, つまり自分がずっと続いているという実感こそが自分という個を 実感してるものと考えてもいるけど,自分の視点の中心というのは ログをみなくても,つまり今この瞬間だけ切り取っても感じるように思う。 しかし良く考えると時間も座標みたいなものだけど,空間も座標である。 視点の中心というのは座標の原点みたいなものだ。視覚に限らず 聴覚だって空間は感じるし体感だって感じる。この感覚にはどこか原点がないと, はっきりとわからないのではないか?。つまり時間や空間という 座標系の中でそれらを感じる「原点」またその座標系のなかで自分がどこにいると わかる感覚こそが自分という「個」の実感なのかもしれない。
しかしこの感覚は身体的な存在感を感じるためのもので,自分への認識が すべて含まれるのとは少し違う気もする。座標系の原点としての自分, 自己認識としての自分,それらが混ざり合って自己を形成してるのかも知れないが, 人間の中にそれらがパーツとして感じられることはなく, 一つのカタマリとして感じられるので,その辺はやっかいだなぁと思う。 脳だって全体で感じていても,人間は自分という存在がどこかの点にあるように つい考えがちになってしまっている。

もどる


'08 Nov. 29th


(C) 2008 TARO. All right reserved