反宗教という宗教

うーむ,宗教の話を書くと,いろいろ誤解されるし,正しく 理解されても,中には不快に思う人もいるだろうと思って, 表立っては書いてなかったのだが,やはりいろいろ思うところが あり書くことにした。

ご存じの通り,ここ数年,一部のカルト宗教と呼ばれる新興宗教に より,いろんな社会問題が起きている。それらの名前をニュースに 見ない日はない…というと言い過ぎか(^^;)。まぁ週に一度は見てる 気がする。それらの報道を見ててずっと気になっていた。私の誤解なら いいが,どうもマスコミは「宗教は悪」「宗教は怪しい」 という風に視聴者が取れるような報道をしている様な気がして ならなかったのである。私は「社会に迷惑をかける(反社会的)宗教は悪」 というならわかるが,宗教全体をというか, 反社会的宗教と社会宗教を区別しないで報道をしている気がする。

先日TVを見ていて,ようやく「こういうカルト宗教の問題について 既存の宗教団体がコメントしないのが残念。これだと一般の人が ますます宗教全体に対して,理解をしなくなり,こういう問題が 起きやすくなる」とコメントしている人がいた。 あぁーこういう人も若干はいるんだなぁー,とちょっと安心したので あるが実際は一般人に「社会的宗教とはなにか?」,とかを啓蒙する 番組があるわけでもないので,問題が解決方向に向かっているわけではない。

さて,こういう事を書くと退かれるかもしれないが,私は最近 問題を起こした宗教に対しては,特に反感は持ってない。入信する人を みてもある意味仕方ないなぁって思っている。ただし,私は 関わりたくはない(^^;)。そして社会問題を起こしたのは問題と思っている。 というのは,私は基本的には宗教というのは…,いやもう少し広げると 信仰というものは誰でも持っていると思っている。信仰を組織が 強要する場合それは宗教となる。「強要」が問題と思うかも知れないが, それはルールである。普通の人でも社会ではルールを守っている。 宗教の中ではその中で生きていくためのルールとして強要されいている だけだ。

さて,宗教,信仰とは何であろうか?。私は世界観だと 思っている。そして世界観を擬人化したものがである。 別に擬人化する必要はない。だから神がいない宗教だってあり得る。 では,誰でも持っているのか?。もっているだろう?,おそらく。 人の頭の中はわからないので,何も考えずロボットのように生きてる 人がいれば別だが…。

「みんなが信仰を持っている」というと「違う」というかも知れないが, それは誤解である。何故なら無宗教も信仰だからだ。 無宗教の人は世界観を持っていないのか?。否,持ってるはずだ。 ほとんどの人は,それを科学と呼ぶ世界観をだ。科学というのは それをもとに考えている人は,科学を信仰しているのだ。 「科学は正しく証明された真実だ」というかも知れない。しかしそれは 間違いである。科学には証明されたものもあるが,されてないものも たくさんあり,それが教科書に載っている。証拠に数年経ったら 記述が変わるような教科書の項目は幾つでもある。 そしてこれが宗教的だと思う所以だが,ほとんどの人は自分で 確かめたわけではなく,「教科書に書いているから」「えらい先生が 言ってるから」という理由で盲目的に信じているのである。これは 「教祖が言ってるから」とどう違うのであろう?。 そんなだからトンデモ科学みたいのも簡単に信じる。

科学は実は真実ではない。科学も一つの世界観である。わかりやすく いうと「モデル」なのである。モデルというのは,「そう考えれば うまく説明できる」というものである。「宇宙は膨張している」と 仮定すれば観測データと一致するからそう仮定しているだけで, 別に膨張しているところを見たわけではない。別の説明が発見されれば また変わるかもしれないものだ。例えばキリスト教系の宗教は神を 使って世界の事を説明している。それはそれでうまくできたモデルなのである。 「全能の神がいる」と仮定すれば,すべてうまく説明できるからだ。

私は科学信奉主義者が,反宗教な論調を見ていると,単にある宗教が 異教徒を批判しているように見える。どっちもどっちなのだ。 特に日本人は現代科学が明治になって急に西洋から輸入されたために, それ以前の仏教や神道などの宗教と論理的に共存できずそういう傾向が つよい。しかしむしろ西洋はキリスト教と一緒に科学が発達したため, 科学者の中にもキリスト教信者は多い。宗教と科学は決して 共存できないわけではないのである。

しかし科学は,基本的には自然現象や物質の仕組みを解析していく 事しかしない。人間の心の問題を解くことは大の苦手なのである。 宗教は世界観と人の心を両方扱う。しかし科学は心を扱うのは 苦手なのである。もっとも最近脳内物質などの話で,人の感情の 仕組みもわかってきている。しかしだからといって,他人の気持ちを 制御できる薬品が簡単に使用できるわけではない。なぜかそういうのは 禁止される傾向がある。不思議だ。何のために科学をやっているのだろう。 人が幸せになるためであれば,幸せを感じる技術を解明し解放すれば いいのではないか?:-p。

人はなんだかんだいっても,自分のに捕らわれている。そして 外界を感じるのも自分の心(神経)経由である。根本的にが 問題なのである。しかし宇宙の果てから,原子まで説明する科学が 心を自由にできないのである。つまり科学は人の心については何も 解決してくれないのである。むしろそういうものが人にますます ストレスを与えアンバランスになっているように感じる。 だから人は宗教に走りがちだと私は考えるのである。 悩みや苦しみを解決してくれて,心地好さを与えてくれるのだから。

実は私は信仰は持っているが,それは自分で作ったものだし,人 には教えてないので宗教に入信しているとはいえない。科学も モデルとして一応尊重している。しかし他のモデルも実感として もっている。「そうすればいい」という話もあるかも知れない。 「わけのわかんない宗教にはいるから問題なのだ」って事なのかも しれない。でも自分で信仰をつくるのっていうのは誰でも 出来ることなのだろうか?。私は何年もかかった。大変だった。 そして独自の信仰を持つことは基本的には秘密である(^^;)。 そうしないと人から変な目で見られるからである。それに 耐えなければいけない。

だとすれば,やはり一番近道なのは社会的宗教を 信じることである。社会的宗教とは何十年, 何百年も存在していて,社会的に問題がないように教義が できあがってる宗教だ。それなりにある。宗教を信じるだけで 入信しないというのもありである。私も仏教や道鏡,神道, キリスト教それなりに勉強して自分の信仰をつくっていった。

もちろん宗教を信ず,科学信仰だけで頑張ってもいい。ただ それだけで心にポッカリ穴が開いてしまった場合に 反社会的宗教にはいると悲惨なことになる。「宗教は信じない」 って言ってる人ほど,反社会的宗教にだまされやすいって話もある。 だから,私は宗教を毛嫌せず,むしろ社会的に問題のない 信仰・信念を持てるような情報をマスコミには流して欲しい, と思うのである。反宗教教こそ危険な気がするのである。

ちなみに私は自分の信仰を人に強要どころか話すつもりもない。 だから安心して付き合って欲しい(笑)。


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00 Jan. 22th


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