私は幼少の頃,姉の漫画を隠れて良く読んでいた。 姉は漫画を沢山買ってる,いわゆる「オタク」の走りだった(笑)の だろうが,私はそれに寄生した。私が小学校の頃から姉は雑誌や 単行本を買って来ていた。もちろん少女誌が多かったが,中には 少年誌(この場合単行本が多い)もあったので,どちらもそれなりに 読んだ。
最近,漫画文庫と称して古い漫画が文庫版となって多く再発されている。 良く考えてみると,単行本にしても文庫にしても雑誌二冊程度の 金額で買えるわけだから,最近は割と軽い気持ちで買うようにしている。 特に文庫本で買うのは,その幼少の頃,姉の目を盗み読んだ漫画だったり する。
昨日久しぶりにその手の本を買って読んでいて,何とも言えず 懐かしい気分になった。基本的には懐かしいというしみじみ感, いい話だなぁーという感じ,あと切なさ…, そういうものを感じた。 しかし良く考えてみると,この漫画(まぁ正直に書くと吉田秋生の 「夢見るころを過ぎても」という漫画なんだが),それなりに 大人っぽい記述もある。もちろん当時の少女雑誌の漫画だし, たかが知れているといえばそうなのだが,当時当然(笑)女性の 事など良くわからないけど,とりあえず第二次成長はしてる私に, 今みたいにコンビニで簡単にエロ写真とかをみれる時代とは 違い,このような単純に男と女が寝たとかいうネタはどういう 風に映ったのだろうか?。しかし,こういう本を読んで, すごくおもしろいとは思ったが「ムラムラ…」とか,「あぁー おれもやりてぇー」とか思ったような記憶はあまり無い(苦笑)。 今読んで思い出す切なさとかは当時味わったから味わえる 感情なのではないか?。
なぜこういう話を書いたかというと,ついこの間日記にも書いたが, 最近コンビニやゲームなどで過激な表現があって,それが 少年に悪影響を与えてるのではないか?という議論が あったからだ。毎日新聞のWebサイトの記述だと, 「良くない」という意見と「表現の自由」そして「それは 本質ではない」という意見が多い。ただ「良くない」という 意見が多いようにも感じる。
実はこの私,30過ぎてつい数年前に18禁のゲームというものを はじめてやった(まぁこれもぶっちゃけていうと「雫」というゲーム なんだけど)。最初やったときのショックというのは結構な もので目が回った。しかしすすめてくれたゲームが良かったせいもあり, しばらくやっていると,その見た目のえぐさの向うに,ちゃんと した「いい話」があり,繰り返しやってるうちに,そっちの方が 記憶に残るようになっていた。過激な描写は客寄せのように, 直接的に訴えてくるが,記憶に残るのはその奥にある, 切なさに訴えるような感覚なのかも知れない。
そういう意味で言うと,単に現在の過激なゲームを 「ちょっとだけ」やって感想を述べてそれで規制するのは どうなのかなぁー?と感じたりもする。
ちょっと話が飛ぶようだが…
最近,加藤清というわりと年配(戦前の世代)の精神科医の インタビューの本を読んだ(これもついでに正直に書くと, 「この世とあの世の風通し」という本)。まぁ本の 主旨はいろいろ沢山あって,べつにこれが本質ではないが, その中に少年犯罪の話が少しだけ書かれていて,加藤氏は 一つは「情報過多だから」と言っていて,犯罪行為をするのは 「リアリティに接したいから」と言っている。ナイフで切るのは リアリティを求めるからで,そこからナイフを奪っても何の 問題解決にならないと言っている。確かにこういう 複雑な問題を簡単に一つの原因を挙げるのは良くないとは おもっているが(というか決してその本もそう書いてるわけ ではない)そういう一面もあると思う。
最近わたしの付き合いがある人の中には,「寝る」とか 「風呂にはいる」とか「踊る」とかそういう肉体的快感 を追い求めている人がいる。そういう人は何故か, オープンハート(基本的に人にやさしい)であり, そしてなぜか自然に対しても感受性が高い人が多い。 私も最近単に寝るとか風を感じるとか そういう感性を大事にしたいと思っている。「踊る」「寝る」 とかいう感覚は直接的な肉体的な快感の快感である。 一方「偉くなる」「金持ちになる」「社会のためになる」というのは 確かにいいことかも知れないが,あまりにも抽象的な快感である。 そういうものを押し付け,追い求めさせると,その結果,本当の リアリティがわからなくなり,そしてリアリティを求めるために 切りたくなるのかも知れない。自由と情報過多という混沌だけが 彼らの前には横たわっているからだ。
私は最近肉体的な感覚,自然のとの触れ合い等を重要視するようになった。 なぜかそれは精神的なものへと繋がっている。
私は「リアリティ」という言葉をあえて「実感」とよんでいるが, 要は同じことである。いまもリアリティを感じてなくて苦しんでいる 若者がいたら,彼らから何かを奪うのではなく,リアリティを 感じるものを与えるべきなのかも知れない。それは, 肉体的な快感でもいい。男女でも親子での触れ合いでもいい。 踊りでもいい。自分の表現が何かの形になるものでもいい。
それは漫画やゲームといったものを奪えばいいというものではないと 思う。リアリティをどう与えるか?それはとても難しい。でも まずはそれを考えるのべきではないのではないだろうか?。 少年の頃読んだ漫画を読んで,なんとも切ないいい気持ちになったが, 思い出しても,それを読んだからわたしがなにか衝動に刈られた 記憶はない。もっともわたしは今もあるが,リアリティを求める 気持ちは強かったと思う。そしていろんなことを考え,いろんな事で 試したのだと思う。それは現在も続いている。単にそれが反社会的で ないだけだったのだろう。
自分達はリアリティを感じているか?。少年たちは感じているのか?。 それを考えてみたらどうだろうか?。
さぁ今日は満月だ。月からもリアリティは得られると思うぞ:-)。