はじめに
はじめにお断りさせてください。これから書く文章は,ある音楽家を 非難するものではありません。ただし,その音楽家のファンの人の 気持ちを探ろうとするので,そのファンの方は読んで立腹するかも 知れませんが,少なくとも音楽と音楽家自体をどうこういうつもりは 無いので,誤解がないようにお願いします。むしろ,その音楽ファンと 社会(文化)との関連の考えたいといった方が,書きたいことを 表しているかも知れません。
科学者はモーツアルトを好む?
W.A.モーツアルトは非常に良く知られた作曲家です。彼の音楽の ファンはたくさんいます。わたしはクラシックはほとんど聴かないのですが, それでも彼の曲は何曲か知っているし,そういうわたしが聴いても いい曲思う曲がたくさんあります。しかし一方で,いわゆる 音楽家や音楽評論家とは関係がない,科学者や有識者が妙にモーツアルトを 絶賛するのが以前から気になっていました。
科学者を単なる1リスナーととらえれば,嗜好の問題なので, たいして気にはなりません。しかしそういう科学者の中には, モーツアルトの音楽を指して「胎教にいい」とか「心が落ち着く」 とか嗜好とは異なる効用を強調する人が少なくはありません。
更に音響研究者らしき人が「モーツアルトの音楽は すぐれた音響的性質を持っている」などというのを聴くと, 「おぃ,ちょっと待てよ。それってどういう根拠でそういうの?」と 聞きたくてしょうがありません。
ここで一つ大事なことを断っておきますが,わたしの根本的な思想で, 「万人に好まれる,究極の音楽は存在しない」というのがあります。 つまり音楽に限らず究極の美は存在しないというのが,わたしの 主張です。そうでないと危険とすら思っています。 美意識というのは文化や,その個人の資質,育った環境等に大きく 依存し,当然人が変われば美の基準も変わると思います。
従って,もしモーツアルトは本当に広く,さらに科学者に特に すかれているのであれば,それはなにかその音楽だけではなく, 背景にも理由があるのではないか?とわたしは考えます。 従って,以下では,それを考察したいと思います。
好きになるのも問答無用というわけでもない
ある音楽を好きになるには,いろんな理由があります。しかし, 単なるヒット曲ではなく,長年にわたり,多くの人にある特定の 音楽が好まれるのであれば,それはその社会に理由があるのかも しれません。美意識というのはおそらく個人の中に存在し, 人が変われば変わります。しかしその人が所属する社会からも 大きく影響をうけていると思います。
考えられるのは「教育」,「時代性」, 「規範」,「社会におけるポジション」等です。 「斬新さ」等もあるんですが,モーツアルトの場合, 何百年にもわたり,愛されているため「斬新さ」が,その主たる理由に なっているは考えられません。また同様にその時代を象徴し 若者などがファッションとして好むような「時代性」も,この場合 当てはまらないと思います。 他にもいくつか要素が考えられるのですが,とりあえず自分の 仮説を表したいので(苦笑),先を急ぎますと,結局わたしは, 「教育」,「規範」,「社会」等が原因ではないか?と 考えるのです。この三つはキレイに別けられないので,ごっちゃにして 説明します。
つまり,こういうことです。「現代の日本(もしくは西欧)は モーツアルトの時代にほぼ完成された,多声調性音楽をいまだに 規範としており,音楽教育,また,メディアで流れる音楽も ほとんどこの規範の上につくられたものである。従ってこの規範を ほとんどの日本人はもっている。そしてその規範の上での音楽表現の 一つの金字塔だったのがモーツアルトである」というのが わたしの考えです。
ここで「金字塔」という言葉を使っていますが,これは別に 「究極」という意味ではありません。これはある意味,ある表現技術が 新たに生まれた時代に,手付かずで転がっている表現手段をふんだんに使い もっともシンプルにそれをうまく使ったもの…という意味です。 そして,そのジャンルにおいては,それ以降の表現者はその表現を 基準にして差異を持って表現を拡張していくことになってしまうため, どうしても,その表現が金字塔の様になってしまうわけです。
それから,あまり今の人は意識してませんが,日本の音楽教育というのは 明治時代に制定された指導要領を元に行っています。これは 西洋の音楽教育の手法をほぼそのまま取り入れたものです。で, その当時(いまでもそうかも知れませんが)の西洋の音楽教育というのは 実はキリスト教教育そのものだったのです。 従って,実は日本の音楽教育も西洋の一神教の影響をうけた カリキュラムで行っていて,これはなにかというと「絶対的な 美(神が作ったもの)が存在する」というものです。ただし, これだと民謡とかをすべて否定することになるため,現在の教育では そういう部分は修正されてると聞きます。
もしこの辺の背景を意識して科学者や有識者がモーツアルトを 賛辞するのであれば,もしかしたら西洋の究極美という 思想の影響を受けているのかも知れません。まぁおそらくそこまでは ないとは思いますが,ただいわゆる「勉強が出来る人」がそういうのを 好きなのは,ある意味そういう学校教育をきちんと習得したと いうことなのかも知れません。
西洋音楽の歴史
ここで,すこし西洋音楽史を述べます。わたしは音楽学をちゃんと 勉強したわけではない(とかいいながら単位を持ってたりするが^^;)ので, 年代など間違いも多いかと思いますが,簡単にざっくり書きます。
小学校の時,音楽の教科書を見ると,昔の作曲家の年表が いわゆるバロック派から始まっているのが,すごく不思議でした。 しかし,確かに現在の西洋音楽はこの時代から始まったと言えるかも知れません。 バロック以前というか中世において音楽は教会のものだったと 聞きます。もちろん街には吟遊詩人ではありませんが,民衆の 音楽のようなものもあったと思います。しかしそれらの音楽は あまり記録が残ってませんが,単に竪琴をならして歌うような 単純なものでした。教会の音楽は教会から不出であり,楽譜が 外に出ることはほとんど無かったのではないでしょうか?。
おそらく中世の音楽というのは教会をのぞくと,単旋律, つまりハーモニー等がほとんど存在しない音楽だったのではないでしょうか?。 ちなみに江戸時代までの日本の音楽も,そして多くの国の民族音楽も ほとんどハーモニーが存在しない音楽です。 従って,中世が終わり,西洋音楽がある発展をとげた…というのは イコール多声調性音楽になっただと思います。
まず多声音楽は聖歌から始まったと思います。 グレゴリオ聖歌というものがあります。これは合唱ですから, 多声調性音楽なんですが,今みたいに「長調」「短調」という 概念ではなく教会旋法(モード)で考えられてます。また,ハーモニーも コードやケーデンス等があるわけではなく,対位法的に 考えられてます。初期の多声音楽は対位法から始まったのです。
しかしここで革命が起きます。ルネッサンスにより,芸術が 教会の外に解放され,また技術的にもオルガンやピアノといった, たくさんの鍵盤を持つ楽器が生まれます。これにより,作曲者は 一人でいろんなハーモニーを試すことが可能になったわけです。
そうやって,西洋音楽は教会旋法や対位法から,長調や短調といった 調性音楽へと移行していきます。その変革期で,一番活躍したのが バッハ,モーツアルト,ベートーベンなのではないか?というのが わたしの考えです。
バッハはケーデンスがつくられていく時期に,2〜3声ぐらいの あらゆる音の組み合わせを試しまくったのではないでしょうか?。 バッハの曲に使われているコード進行はいまだにポップスの中に 使われているもの(例えば山下達朗のクリスマスイブとか,Zardの 泣かないでとか)があり,あまりにも基本的構造のため,一つの 金字塔になってしまってます。バッハと違ったコード進行を 使うにはどうしても奇をてらったものにする必要が 出てくるため,シンプルさとその効果においてバッハを越えることは 出来なくなってしまうのです。
モーツアルトは,そういうバッハの(時代の)後を受けて 管弦楽とピアノ演奏を完成させたのではないか?と 思います。交響曲やオペラという形態を使い,管弦楽という 大量の和声からハーモニーをつくり,そして楽曲のストーリ性を 持たせた構成,それらのもっとも美味しい表現を使ってしまった というのがモーツアルトではないのでしょうか?。従って その後に続く,交響曲や協奏曲をつくる作曲家たちは どうしてもモーツアルトという金字塔の上に自分達の 個性を載せていかなければいけなくなります。
ベートーベンもその一人なんでしょうが,彼はクラシック音楽を 鑑賞音楽にしたという点で,モーツアルトとはまた違った なにかをやったような気もします。まぁベートーベンについては あまり,書きませんが,すくなくともモーツアルトとバッハについては かなり現在においても称賛されているというのがわたしの印象です。
で,なぜバッハじゃなくモーツアルトなのか?…というのは わたしもちょっと不思議です。しかしバッハはある意味,西洋音楽の 骨格をつくり,それに血肉をつけ,最初に形にしたのが モーツアルト…だからなのかも知れません。
他ジャンルにおける金字塔
さてモーツアルトについて,長々と書いてきましたが,実際に わたしはクラシックをちゃんと聴いているわけではありません。 従ってクラシックの中におけるモーツアルトの位置を正確に 把握しているわけではないので,本当に彼以降の作曲家が フォロアーなのか?,とかは良くわかりません。とはいえ, こういう仮説を出したのは,他のジャンルの 音楽について似た様な現象を感じるからです。
現在の音楽の主流が多声調性音楽であれば,明らかに西洋クラシック 音楽が原点と呼べるのですが,しかしもちろんそれ以降,新しい 音楽スタイルは生まれています。ただし,やはり12半音で オクターブという音階の中での多声音楽,そして2の倍数を基準とした リズムという大きな枠は基本的に続いていて,そういう意味では, 現在の新しいスタイルの音楽も基盤としてクラシックの音楽が あるといえるでしょう。しかしいろんな音楽家が,新しい基盤を つくったり,上に重ねようと試み,そしてそこから新しいジャンルの 音楽が生まれ,いくつかは一般化しています。
黒人音楽と西洋音楽が出会い,ブラス,ドラムセット等の 楽器の新しい使い方とともにつくられたジャズは, デュークエリントンにより鑑賞音楽として一つの完成を見ますが, 現在の主流である即興主体のコンボ演奏はBeBopで完成されたと 見た方がいいでしょう。3,4声より多いテンションを多用した 和音を積極的に使い,それを単音のフレージングで表現する BeBopのソロに関しては,やはりチャーリー・パーカーが 一つの金字塔と言え,それ以降のソリストはほとんどの場合, 彼のソロスタイルを複雑・高速化+αという感じで, そのせいか,今でもパーカーのソロを聴くとシンプルですが, 非常に最適化された印象を受けます。
また,ロックのエレキギターに関しては,チョーキング, ディストーション,アーミング,フィードバック等のエレキの 技術を最初にロックに適応させた形を示したジミ・ヘンドリックスの ギター演奏が,どうしても今聴いてもシンプルかつ自然に 聴こえます。
こういう風に考えると,ジャズはパーカー,ロックギターはジミヘンの 呪縛をいまだに振り払うことが出来ず,それゆえに いまだにおおくのファンに愛されているのだと思います。
ちなみに余談ですが,ジャズ界におけるマイルス・ディビス, ロック界におけるビートルズは,一つのスタイルを確立したというより, 多くのスタイルを取り入れて,常に変化していたため,明確な 一つの音楽スタイルを思い浮かべることは困難です。 この様な音楽家の場合,後世どういう形で残っていくのかは 良くわかりません。ただし両者が作り出したスタイルは,いまだに ちまたに蔓延しているため,やはりいまだに多くの支持を集めている 音楽家です。
なにを感じているか?
さて,ここまで書いてきて,結局のところ結論をいうと, モーツアルトが多くの人に支持されるのは,結局彼が金字塔として 打ち立てた多声調性音楽のスタイルが,いまだにほとんどの 音楽の基盤スタイルになっているからだろう…ということです。 従って,多声調性音楽を知らなかった,例えば江戸時代とかの 日本人がモーツアルトを聴くのと,我々が聴くのでは,全く 印象が異なるはずです。もちろん,江戸時代の人も「素晴らしい」 というかも知れません。しかしそれは,未知の構成美に 触れた驚きであり,我々の場合は逆に自分の感性の基盤を 直接刺激するような懐かしさの様なものではないでしょうか?。
特にクラシック音楽のようにジャズやロックが持ち込んだ 新しい別の基盤が混ざってない純粋な多声調性音楽を好きな 音楽ファンの場合,特にモーツアルトを素晴らしいと思うことは 予想できます。従って,(ナゼか)クラシックファンが多い 科学者はモーツアルトを絶賛するわけです。
ただ,一つ深読みをすると,科学者がクラシックを好きなのは, 西洋文化に対する憧れと,学校で習ったものに対する肯定が 他の人よりも強い…ということもあるのかも知れません。
新しい金字塔は現れるのか?
そういうことを考えると,多声調性音楽と全く異なる基盤を元に 音楽をつくり,それが一般化すると,モーツアルトを絶賛する人は 減るはずです。果たしてそういう音楽が今後生まれていくのかは わかりません。1900年代は,様々な西洋以外の音楽が取り上げられ, 調性音楽ではない音楽(いわゆる民族音楽やワールドミュージック)が, 紹介されました。それを取り入れていく中で, ポピュラー音楽やジャズ等も従来の和声のルールと異なる,和声の 方法を模索したり,またリズムもポリリズム化しています。
ただし,今のところ,一部の前衛的な現代音楽などをのぞくと, 基本的には12音階楽器を用いていて,完全に従来のスタイルから 解離出来てないというのがわたしの印象です。
しかし,それから完全に脱却でき新しいルールをつくれた場合, もしくは従来の基盤が目立たないほど,大きな基盤が出来た場合, その場合は,モーツアルトを越えた,多くの人に愛される音楽家が 生まれるはずだと思います。
おまけ:至高の美の危険性
ちょっと,余談ですが,なぜ究極の美,至高の美が危険かという話です。
キリスト教文化圏は一神教の文化圏なので,「神が作ったものが 究極である」という思想があるようです。従って,真実というものは 確固として存在し,科学者や哲学者はそれを探求,芸術家は, それに近いものを作る…というのが,(どうやら)西洋には今でも あるようです。これは哲学者や科学者の話を聴いていても, よくそう思うこともありますし,日本で現在用いられている科学は 基本的に西洋発なので,やはり日本人科学者にもそれは感じます。
実はこれは真実ではなく,「一つのものの見方」だというのが わたしの主張なんですが,こういうのは東洋の思想の中には存在しており, わたしだけがとっぴなことを言っているわけではありません。
で,なぜ西洋のそういう考えか危険かというと,彼らは過去に その論理を使い,「西洋の文化が一番すぐれているのだから, 自分達の文化で世界中を塗り潰してもいい」と考え植民地をたくさんつくった という実績があるからです。最近は多様性を認めざるを得ない方向に いってますが,いまだに「自分達が世界を監視するのが世界のためだ」と 思ってる,世界警察国家もあるようです。
まぁ百歩譲って本当に究極がある…と認めても,それが西洋のそれ… とはわからないのですが,それでも,自分達の文化を否定するわけにも いかないので,そういう思想の国家は,結局少数文化を弾圧するというのが 過去の歴史です。
わたしは100人いたら100人の美があると思います。そういう中で なにか大きな傾向があるとしたら,それは共有している文化背景とかに なにか原因があるのではないか?,と思い,今回の文章を書いたわけです。
科学者には,真実があると思ってる人がもちろん多いので,もしかしたら, モーツアルトを究極という科学者もそういう思想が入っているのかも知れません。