取り留めもなくディジタルの話(04/05/11)

日記を書くとボケが進まない…らしいが,つまりは人間漠然と 考えたり,適当に人と話していることを文章に変換するには それなりに頭を使わないといけないって事でしょう…。思ったことを 文章にするとき,何かしてますよね,頭は。

というわけで,最近思ってたことを文章にしようと思ったのですが, ボケてるのかまとまる気がしないので,脈絡無く徒然に書いてみます。


先日某S氏と生音でのライブの後に喋っていて,わたしが「フィルタ かかってない音だ」と言ったら,S氏が「ディジタルだとずっと ついて回る問題だよね。でもアナログのままだったらノイズが ずっとついて回る問題だったかも」と発言したのを聞いて, なるほど,そういう風に考えたことはなかったな…とちょっと はっとしました。

まぁディジタルでも最終的にはアナログになるからノイズの問題は あることはあるんですが…。

で,思ったのはディジタルが民生器に登場したのは85年あたりだったと 思いますが(20年って事か),たしかに当時録音というとアナログテープか レコードしかなく,どちらもノイズがひどいものでした。 ノイズがひどいっていうのはつまりダイナミックレンジが狭いってことです。 アナログでもダイナミックレンジが120dBくらいあれば,ノイズが 気にならないので(←厳密には違いますが)。

当時,民生で使っていたテープというとカセットテープでダイナミックレンジ …というかS/N比が良くて70dBくらいしかありませんでした。メーカや クラスで結構これが違っていて,どういうテープを選ぶかがこだわりだった 気がします。一方レコードの方は埃とかに弱く,おそらく理論的には かなりのダイナミックレンジを持てるんでしょうが,実際はテープよりも S/N比が悪い状況でした。

そういう状況でディジタル(CD)が出てきていきなり90dBのS/Nを聴かされたので まぁ普及したわけです(本当は取り扱いの楽さもあって そっちが大きいのですが,ちょっとそれは置いておきます)。 でも,ってことは上に書いたように120dBとかのテープとか レコードが出来たら,やっぱりディジタルは要らない… ってことなのでしょうか?。さぁどうでしょう?…。

ディジタルに対するオーディオファンの批判は16bit,48kHz(等)の 情報量が人間の可聴領域を全部押えていないってことで,つまりは 音が変わってる…ってことなんですが,本当は違っていて,わたしは 上記のようにテープを選ぶ楽しみ(つまりこだわりとかアイデンティティ)を 奪われた怨みなんだと思います。まぁそれは置いておいて,わたしが ディジタルでうーん…っと思うのは,ディジタルのデータは結局 変換された記号である点です。最近MP3等の圧縮技術が普及していますが, そのせいでPCMは非圧縮であたかも生データの様に言われてますが, 実際はアナログ信号をPCMという符号化方式で変換したもので, 当然ですが生データではありません。というかPCMのルールを知らないと 音には戻りません。ついで言うとCDに載ってる音というか記号は, PCMをさらに1bitに変換した,つまり約束事によって決められた信号って ことです。音をルールで書き起こしたものですから,情報が変わるのは 当然なのです。じゃぁアナログだと違うかというと,テープへの 録音は,つまり音を電気信号に変換して,それを磁気信号に変換したのを 記録している…。実は音を電気信号に変換するのも,それを 磁気信号に変換するのもこれもルールといえばルールです。なので 音そのものを録音しているとは言えません。じゃぁアナログレコードは? というと,音を物の形状に変換している。まぁ実際は一旦電気信号に 変化して書き込んでますが,蓄音機の様に形状から直接音に変換できます。 溝を何かで引っ掻けば音になるわけです。そういう意味でボエジャーには アナログレコードが載せられているのでした。

何が言いたいかというと,音を記録するってことはかならず ルールによって定義された変換が行われている…ってことと, レコード,テープ,PCM,MP3と進むにつれてルールは複雑に なっているということです。まぁMP3は別として,生音を追求するのに 手続きが複雑になるとは不思議なことです。


もう一つ全然別の話。

ヘッド氏が,「根本原因はまったく同じ品質でコピーができちゃう、 という今まで人類が体験しなかった状況に突入したこと」て書いてるのを 読んで,なるほどなぁ…と思いました。こっちはデータの 不正コピーやCD輸入権の問題ですが…。

でも氏が自分で突っ込んでいるように活版印刷…,っていうより わたしが思うのは文字ですが,その発明も一種のそれに近い状態 だったのでしょう。まぁ活版印刷前の文字は手書きとかだから, 「大量に」は出来ませんが,でも間違えさえしなければ,文字情報は 正確に複製されます。

実は文字の成立は文明の成立と関連しており,いわゆる知識の 蓄積,伝承が可能になった瞬間であり,相当な社会的 影響があったわけです。実は音声(言葉)を文字に変換する際にも 相当な情報の欠落が起きていて,更に手書きからタイプになると また落ちて…というのは,ネットでのチャットでのやり取りから くる誤解…とかを観ていると相当に感じます。 少なくとも文字で伝承できる情報はディジタルなんだよな…, と思うわけです。

ヘッド氏がいうところの「コピー」は自分で増やす…って 意味ではなく,他人のところに増やす…つまり再配布できるって 事ですね。PCMでのコピー自体はもうちょっと前から出来ていたし, 厳密にいうとMP3でのコピーは劣化コピーなんだけど, そういう次元では問題にされてない…ってことなんでしょうね。

まぁ今回は徒然に書いているので結論があるわけではありませんが, 言葉を文字に変換できるようになったことで文明が発生するのだから, 音や画像やプログラム(方法自体が記録されるって事も画期的ですが)が 複製できる様になったら,そりゃ大変だよなぁ…と思ったのでした。


でもなぁ…,そう思う一方で我々の周りにはそういう複製されたもの, 変化されたものばかりがあるっていう状況になってきてたりもします。 以前音楽を聴かない知り合いに「なんでCD買える金を払って,一回きり しか聴けないライブに行くの?」と言われて,びっくりしたんですが, 世の中の人はああいう変換されたもので十分って事なんでしょうね。 変換っていうのはあくまでも元の情報のある側面だけをすくい出して いるだけなんですけどね…。

でもそうやって複製ばかりに囲まれて育った人が,本物に 触れたらそりゃショックだと思いますが…。そうでもないかな?。 複製品に囲まれたら,本物を感じる受容器も育たないか?…。


等などと…,ちょっと思ったのでした。散漫な文章ですみません。

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04 May. 11th

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