異文化への差別

「差別はいけない」と言いつつやってしまうのが, 人間である。なかなか難しい。差別は区別の延長にあるし, そもそも集団(グループ)という感覚の裏側には,集団から ハズレている人を差別するという意識がある。

そういうわけで,差別を無くせとか言うつもりはないが, 自分にとって不条理な理由で知らず知らずに差別してしまって いるものくらいは,なんとかやめたいものである。特に 対象を良くわからず,わからないことにより,かってに ネガティブなイメージを作り出し差別するのは,すくなくとも 私にとってはあまりかっこいいことではない。つまり, 不理解による差別ってやつだ。でも意外に差別を してしまっている,本当の理由はこういうことだったりする。

その最たるものがジェネレーションギャップである。 「最近の若い者は」という言葉がかなり昔からあるように, 世代間には不理解が存在する。今回はこのように小さな 不理解による差別についてちょっと考えてみる機会が 何度かあった。人種や職業,性別のように誰でも語ってくれる 大きな差別については,意識することがあっても, そういう近いものはあまり意識しなかったりする。

最近高校生が,ひどい言われようである。地方都市は わからないが少なくとも東京辺りでは良く言われる。 マスコミが高校生の援助交際を取り上げ,それにより 大人達は,彼らを理解不能の様に感じる。 電車に乗ると地べたに座り大声で喋ってたり, 男女が人目をはばからずベタベタしていたりする。 髪を染め,女性はルーズソックス,男性はダボダボの ズボンをはいている。 あと高校生に限らずだが,ピアスをしたり髪を染めたり 派手(??)な服を着ている若者もいる。 大人達とは違う格好だ。大人達はあの格好や振る舞いを 見て,理解不能になり,きっと悪いことを しているかのように見る。

しかし,どうも最近私は彼らが,思った以上に いいやつの様な気が,もしくは普通の様に 思える。ある種大人達よりすなおでズルくない。 先日とある野外レイブに行った際に,そこには いわゆるいろんな人(変わった服を着てる人,変わった髪型, ピアスとかをしている人)がいたが,基本的に,皆親切で, 譲合いや助け合いを感じた。困ってると助けてくれるし, 物を落としたりすると声をかけてくれたり。

よくよく考えると,我々は彼らと直接話していないことに気づく。 彼らが仲間同士で喋ってるのや,TVで喋ってるのを聞いて 印象を持っている。実際にフッと(それこそ例えば 道を譲ったり,落し物を指摘されたり)街で喋った数少ない 印象では,意外に普通なのだ。むしろすなおさを感じる。 もちろん最初からこっちが警戒して声をかければ,それなりの ものが帰ってくるのだろうが,普通に喋れば普通な気がする。 むしろずうずうしさでは大人の方が遥かにすごい(笑)。 良く理解してないから差別しているのではないか?

格好の違い,言葉の違い,文化の違いが更に距離感を 増やしている。しかし一般的に「格好だけで人を判断する のは良くない」。だとすれば,いままで彼らを特別の物の 様に思っていたのは良くないことだ。援助交際が悪いので あればその行為を非難すべきで,人前でいちゃいちゃするので あれば,それはそのことに抗議すれば良い。行為は ある程度人格を表すのであろうが,個々の行為で,全体を 評するのは少し虫がいいように思う。もっと理解しようと すべきだろう。格好が違うからカルチャーが違うから, それはある種の異人だからといって,違うと思う必要は 無いのだと,最近強く思う。

余談だが,先日漫画を読んでいたら,明治維新に日本人が 西洋列強に植民地化されなかったのは,髪を切って 洋服を来て,つまり格好を西洋人に似せて接した のも大きい,というようなことが書いてあった。 逆を言えば,格好の違いで相手を(良く理解しないで) 非難するとは,そういう考え方(異文化を未開と勘違いし, 植民地化する)に繋がることになる。気をつけるよう。

なんか偉そうな文になってしまったが,基本的には 反省の文です(^^;)。偉そうな文体は芸風なので,お許しを。 当たり前の事を書いたんですが,私なりに,新たな気持ち だったので…。あまり表しきれてませんが…。


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99 Sep. 2nd


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