20世紀について

というわけで,私なりに「20世紀を語る」。しかしこれってつまりは 自分のこれまでを語る,もしくは自分が勉強した知識を ひけらかすってことで,えらく恥ずかしいというかみっともない 気もします。 そういうわけで(^^;),項目を分けて,サクサクっと(^^;)。

音楽(アートを代表して)

まず音楽を考えると,1900年頃というと,スイングジャズの 頃くらいでしょうか?。そうだとするとまぁアメリカだけで 考えると,1960年代までジャズは全盛であったわけで,20世紀の 大半はジャズの世紀だったといえます。それ以降はロックといって いいのでしょう。

日本では明治になって西洋の音楽教育が始まり,和声とか そういう概念が入ってきて浸透した世紀でしょう。以前なにかの 本で当初の日本人は長調が苦手だったという話を聴きました。 そういえば,初期の歌謡曲やフォークも短調が多いですね。 しかし今はどちらかというと長調の曲も多くなっている気がします。 そうやって考えると調性などに関する感じ方も変わってきてるのでしょう。 テクノやジャズ,現代音楽等を聴くと,すでに非調性の 音楽やノイズを積極的に利用してる様です。よく純正律の 音程関係を「自然」とか比喩しますが,何が自然か?という ことも,この100年で変わったのかも知れませんし,今後も 変わっていくかも知れません。

自分自身を振り返ると音楽と行ってもジャズとかロックとか フォークとかを聴いてきてるので,結局自分より以前の音楽というと どうしてもジャズのことしかよくわかりません。幼少の頃は 童謡やTVの主題歌によって育って,学校に上がってからはTVの アイドルなどを聴いて,中学くらいのニューミュージックブームから レコードを買うようになり,楽器をはじめ海外のハードロックを コピーとかして,そのままジャズに入りました。そして大学に 入ってからはジャズといってもECM等のヨーロッパ系のジャズ, そしてインプロビゼーションに傾倒していった感じです。

こうやって若いころから外へ外へと向かっていたので,ずっと それ以前聴いていた音楽には見向きもしなかったのですが, この歳になると,やはり自分のなかにそれがあることは否定できなく 再度見つめなおすようになりました。それと平行して,テクノのような 新しい音楽の魅力もわかるようになったのは,うれしいことです。

技術

一応自分は技術者・研究者だと思っているので,そういう側面を 語ります。自分の研究者としての歴史は語る価値もないので(涙), やはり今世紀のことを,勝手な解釈で…(^^;)。

産業革命は今世紀ではなく,もっと前に起きていることですが, 結局日本にとっては,その産業革命の勢いがずっといまだに続いて いると言って良いでしょう。いや世界的にもほとんどそうでしょう。 「技術は無限に進歩し,技術の進歩は人々に幸せをもたらす」という 幻想がまだ続いているように思います。公害による工業の行き詰まり, エネルギー問題,宇宙開発の遅延等により,多少そういう考え方には 陰りが見えたかな?って気もしていたんですが,ITとかゲノムとか いう話が話題になるのを見ていると,やはりそういう幻想を捨てきれない, ある意味妄信的な感じがします。どうなんでしょうねぇ…?。

さて私は音響屋なので,音響の話を例に挙げると,昔音響学という学問は, 「数理音響学」でした。そしてそれが「物理音響学」になり,今は主に 「情報音響学」という感じになってます。これは別に音響に 限らない話でしょうが,技術のポイントがシフトしているということを 示してます。つまり最初は理論だったのが次に物理現象に なった。物理時代には音響学は実際にものを生産するために用いられ, スピーカやマイク,アナログ回路等がその成果としてでてきました。 そして今は情報処理の時代。信号はディジタル化され, 情報として扱われます。信号処理や音声圧縮などがその成果となり, 最近はパソコンでも音を扱うようになってます。

これはよく考えると,別に音響に限った話ではないと思います。 いろんな分野の技術がそうやって技術のポイントが移っていってるのでしょう。 ただし,やはり技術というのは積み重ねです。古いものを理解しないで 新しいものを積み重ねても,間違った方向に行くことも多いです。 音響に関しては,ちょっとそういう感じがします。つまりディジタル化 してしまった後ばかりに捕らわれて,最初の収音や最終的な出音を 気にする人が減っているというか…。

情報音響の次は何が来るんでしょうか?。最近の流行りからすると 心脳音響とか遺伝子音響とかになるのでしょうか?(笑)。 いずれにせよ,研究としての情報処理はちょっと新しいネタが なくなってる気がします。

社会

20世紀というと,ソビエトが生まれて崩壊したわけで,ある意味 大きな実験が行われた世紀でもあるでしょう。アメリカの力は 巨大化し,日本は経済成長をし,まぁ戦争やったり,いろいろ したわけです。アジアやアフリカの国々も次々と近代化されようと しています。そういうなかで,逆にアメリカのような巨大国家の中に 再び小さなコミューンを作るようなヒッピーが現れ,またネイティブ の人たちの文化を取り戻そうという動きも出てきました。

はっきりいうと,多様化と変化の激しさに,私はついていけません(^^;)。 しかし,なぜこうなったかというとやはり情報の伝達速度や範囲が 物凄く広がって,世界中のことがみんながわかるようになってきている ということでしょう。特に特定の階級の人でなくても世界の様子が わかるようになれば,そのなかでいろんな意見が出てきて,その 試みが行われようとするってことでしょう。

情報交換の速度が速くなっているゆえに,社会の変化も大きく激しく なっているように思います。しかし変化というもの自体は,昔から あったもので,今だけが特別とは思いません。今が特別としたら それは,どこかを征服すればいいという考えが通じなくなったという ことくらいでしょうか?。

そう考えると,今世紀までの国の考え方は拡大指向で,結局産業革命や 帝国主義の考え方を引き摺った世紀だったといえます。そして それが行き詰まった現在,既に力で征服できない時代となった今, もうちょっと違ったものが必要なのかな?,ということだけは 何となくわかります。

この閉塞感を打破すべく,新しい社会の在り方が来世紀生まれるのか?, はたまた,なーにも変わらず,今のまま何となく過ぎるのか,それは よくわかりません。しかし技術のところでも書きましたが,発展するとか 未来はよくなるという概念がつまずいている現在は個人レベルにおいても, 幸せになるにはどうしたらいいか?というのがわかりにくい時代になってる (まぁある意味妄信的な部分はなくなってる)とも言えます。 この状態に限界があるのかどうかはわかりません。

自分

最後に自分を振り返って…。実は私は今年というより,2年くらい前に, いろいろあって,その結果人生の折り返し点を回ったという 強烈な自覚に捕らわれました(^^;)。そしてここ2年くらいかけて, それを肯定的に捕らえられるようになりました。わかりやすく言うと, 体力・知力の限界を自覚し,そして,自分が死に近づいていることを 自覚し,そしてそれを肯定的に捕らえられるようになったということです。 この二年間はいろいろな人にお会いしたし,いろんな体験をしたりしたし, また今までとは違ったいろんな本を読んだりした気がします。

そういう意味では,まぁ今日の夜と言うよりは,ここしばらくが 新しい時代の門だったきがしますが,そういうことを改めて 感じつつ世紀末を終えることにしましょう。

それでは。ありがとう20世紀。


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00 Dec. 31


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