「戦争は必要悪か?…」,とても難しい問題。
生物の人口爆発を防ぐ要因としては,つまり 環境がその人口を賄いきれなくなったときに起ることとしては, 飢餓,争い(戦争),(集団)自殺,病気等があるのだと思う。 そうむりやり結論つけると,戦争も自然の法としては意味があるものになると いえる。つまり人間が生まれて以来なくならないのだから,それは それで自然ということである。 もっとも人間以外で同種同士でこれだけ集団で殺し合いをするを する動物というのは思いつかないが…。
しかし一方で,身近なものの死を恐れ,何とかしたいというのも 種が生き延びるためには必要で自然なことだと言える(本能と いうよりはそういう文化を持ったものが生き残ったということ かも知れないが。どちらかというとミームかとも思う)。 人が戦争や殺し合いを嫌うというのも自然なことなのである。
一方で人間は「死」を見えないところに追い遣ることを一生懸命に 行ってきたため,先進国では目の前で人が死ぬ,また自分がその加害者に なるということに対し,大きな恐れを持つようになった。 喰うか喰われるか?という世界に生きていれば,目の前で 人が殺されようが,自分や自分の家族が生きていれば, まぁそれでいいか…と思うのかも知れない。また,死ぬ場合も 死後の世界で成仏することを祈るのかも知れない。ではあるが, だからといって,人殺しがいいと言っているわけではない。 現在,戦争反対の意見が市民の間で盛んなのは,そういう身近な死を 排除して,そのうえで,国家が戦争を起すという,あたかも 権力が生殺与奪権を独占しているかのように見えるからだ。
人殺しがない安全な国家を作っておきながら,国家は他国の 人達を殺すからだ。言ってることとやってることに矛盾があるからだ。
そういうわけで,戦争というのは,全く非合理的なのだと思う。 やってることと言ってることが違うという意味で…。
しかし,戦争が悪だと決めつけても,では一方で医療というのは 必要なのか?,という問題が発生する。 いまたまたま「脳と生命」という養老先生と森岡先生の対論を読んでいるから, そう思ってしまったのであるが,これは帰するところ 「死とは何か」という問題なのかも知れない。脳の時代に なって,脳だけ生きていれば,体がなくても生きていると言ったり, 脳が死んだら,体は元気でも,それは他人のための部品として 使われたりする時代にすでに突入している。 そういう時代に万人に共感できる死と生の境界はあるのだろうか?。 そもそも科学は死というものは扱えず,それは宗教にまかされている。 なので,論理的に死は扱えない。つまり誰もが納得できる死の定義 というものは,今のところ存在しないわけである。
死んだあとどうなるか,どういう死に方をすればいいのかを 全く提示してないくせに,人の生殺与奪技術だけを発達させてきた 科学というのは,そういう意味ではかなり罪深いと言えるのではないか?。 わたしは科学のもつそういうアンバランスさがどうも気持ち悪いのだが…。
さて,なぜ戦争の話から医療の話になったかというと,戦争の 是非を問うのであれば,もう一つ人間が生死をコントロールする 医療も問いたくなったからである。というより,「人間は なにがなんでも人間を生かす…という方法で人間社会を コントロールできるのだろうか?」という疑問があるからだ…。
昔の人間は人間は死んでも生きている…っていうことを可能にしていた。 それは現代人からみると宗教や思い込みだったりするのだが, 科学が冷静に考えても死を定義できないのであるから,「 あの人は骨になったが,私のココロの中に魂は生きている」とかいうのは 意外に真理なのかなぁ?,とか思ったりするのである。
いろいろ考えると日本人は宗教を意識していないので, 戦争の動機として信仰を考えづらいが,科学や合理性で戦争を 起すより,宗教的理由で戦争を起す方が,首尾一貫しているようにも 思う。とはいえ,現状はそういう風になっていない。そういう 意味で言うと,戦争が必要悪か?…ということ以前の問題である。 科学や合理性で戦争を正当化するということは,損得の 問題であり,損得だけで人を殺すころを正当化するということに なるからだ。
死ぬということを説明せず,なぜ人殺しを正当化出来るのかは わたしには疑問である。