養老孟司先生の本を読んでいるときに,「言葉というのはものを 切り取る性質がある」という言葉を見つけた。さすが解剖学者的な 表現であるが,要は言葉には必ず意味を表す定義があるということだ。 もちろん,それは一定ではないが,しかし明らかに言葉が表すものと, 表さないものが存在する。そうなるとその境界が問題になってくる 場面が必ずあるのである。養老先生は解剖学者だから肉体で説明する。 例えば「手首」という言葉あると,「どこまでが手首だ?」というのが 問題になるわけである。脳と延髄はくっついているが,「どこまでが 脳か?」というのを決めなくてはいけなくなるわけである。
現実の世界を見ると,物事は曖昧なものの方が多い。例えばジャズという 音楽があるとすると,どの音楽がジャズでどの音楽がジャズでない とかいう境界は,万人が納得できる形では決められない。 「あなたは右翼ですか?左翼ですか?」と聞かれても明確に答えれる人は 少ないだろう:-p?。色だって,青色と水色の境界がどこにあるのか? というのも決められない。
性質,思想,嗜好…ほとんどのものが,一つの言葉できちんと 表現できるほどはっきり言えるものではない。それは結局言葉自体の 性質が物事をはっきりすることを要求するが,人の心が ほとんどの場合それについていけないからだろう。 状態,現象,思想,性質など,それらは言葉により切り取られ, 曖昧さが剥奪される。そして明確な境界を発生しようと する。だから言葉で,それらを表現しようとすると,「何か違うなぁ…」 というような状態になったりする。ほとんどのことは 言葉でうまく表せないニュアンスが重要だったりするからだ。
しかし,皮肉なことに他人とのコミュニケーションには, 言葉が必要である。なぜなら「情報」というのは「曖昧さ」の 反対そのものだからである。情報理論における情報量は まさに「曖昧の少なさ」で定義される。曖昧を無くすということは, 境界をはっきりすることである。
そして,言葉はそれを発した自分さえ再洗脳してしまう。 「自分はジャズが好きだ」と人に伝えると「自分はジャズが好きなんだ」と 思い,さらにジャズを聴いてしまう。自分はエコロジストだ,と 言うことにより,更にエコロジストとして振る舞おうとする。 本来はいろんなものの境界に自分が存在しても,言葉にすることで, その境界から,極端へ連れていかれてしまうのである。
しかし,個性というかその人らしさというのは, 細かいニュアンスで成り立つものである。自分が境界の どの辺にいるか?,が大切だったりする。しかし,自分らしさを 人に伝えようとすると,伝えるという行為自体により, ニュアンスが取り除かれてしまう。 曖昧な状態を表す言葉を使えばいいという話もあるかもしれないが, 曖昧な言葉は,そもそも受け取る人によって受取り方が異なる 場合が多く,あまり意味をなさない。
仕方ない事だが,かなり皮肉な気がする。言葉を使って 説明すると,「何か違うなぁー」と思うことが多々あるが, それは伝えるという行為がそうさせてしまっているのである。