脳みそが筋肉で出来ている…ってこと(03/08/09)

「脳みそが筋肉で出来ている」って言葉は通常ネガティブな 言葉として使われます。ある意味体育会系に対する差別用語です。 そもそも少なくとも日本においては,「物事を良く考える」と いうことは絶対的に良いことの様に扱われてます。 「物事を深く考えない」というのは誉め言葉にはなかなか なりません。「脳みそが筋肉…」という言葉は通常は 「良く考える」こととは逆の様に言われます。

しかし「絶対的に良いこと」とされることほど胡散臭いものは ありません(笑)。というわけで,最近わたしは「脳みそが筋肉で 出来ている」って事にはいい面もあるんではないか?,と考えたりしてます。

そもそも「脳みそが筋肉…」という表現で思い浮かぶ人物像は

等でしょうか?。まぁ下の方はともかく上の幾つかの項目は 別に悪い意味じゃなく純朴というかある意味いい人物像 の様にも思えます。 一方「脳みそが筋肉…」にあてはまらない人物像を挙げてみます。 ちょっとフェアじゃない書き方をしてる気がしますが(^^;),なんか ろくでもない人物像です。でも前者(筋肉な人)の方が愛すべき 人物像のように思えませんか?…。でも後者(考える人)はこういいます。 「そんなに物事は単純じゃないのだよ。単純なやつばかりだと 世の中うまく回らないのだよ」と…。

しかしそうでしょうか?。本当に考えることが必要なんでしょうか?。 わたしは時々思います。「物事を複雑に考える奴がいるから, 世の中が複雑になっているだけではないか?」と…。

わたしは普段はあまり運動をせず,また,物事を調べたり,考えたり するのが好きな人間ですが,時々運動を始めると,物事の感じ方, 考え方が変るのを感じます。運動をすると実際に考え方がシンプルになる 気がします。なんというか世界に対してしっかりと足が地についた リアリティを感じたりもします。一方,運動をせずに一日中引き籠もって 考えたりしていると,いろいろ悩んだり妄想の世界に 入っていくことがあります。

引き籠もって考え事ばかりしていると妄想的になるのには理由があると 思います。人間のは考えるところと言われてますが,実際は 身体中に張り巡らされた神経の刺激によって考える動機を 与えさせられてます。「痛い」とか「お腹が減った」等という思いが浮かぶのも からだからの信号がキッカケですし,メディアの情報を受け取って考えるのも 目や耳からの刺激が元です。いい風が吹いて気持ちいいとかいうのも 皮膚感覚からの刺激が元です。

一方SFとかを見ると人間は脳だけになったも 思考したりするのではないか?…と考えられる場合もあります。 しかしわたしはそうではないのでは?…と思います。 人間を感覚遮断する装置にいれると幻覚をみるといわれてます。 これは脳が入力がなくなったときに暴走する事を示してます。 また動物の脳を単独で切り取っておくと次第に活動が鈍っていくという 様な事を聴いたことがあります(真偽はわかりませんが)。 これは,つまるところ入力がなくなってしまうとそのうち 活動が無くなることを示してます。 また人間は酸欠になっても幻覚をみます。 これらのことからいえるのは人間は脳だけになり,外部末梢神経からの 刺激が減ると,ろくなことにならないということです。

従って,運動もせず閉じこもり考え込んでいる…というのは 一見物事を良く考えているように思えますが,それは単なる妄想だったり 考え過ぎだったりする危険性があるのです。 実際に運動することにより自律神経が 正常になり更年期障害が治ったりするケースもありますが, この他に心肺機能が強化されたりして,脳に十分に酸素がいったり 刺激がいったりする事が考えられます。そうなると酸欠故に 陥っていた妄想から解放されます。もしかしたら欝も治るかも 知れません。

こういう風に考えると,そもそもは人間の知能なんていうのは 外に出て植物を採取したり動物を狩猟するために必要なものとして 発展したのでしょう。現在の文化というか思考は, 文明が発達してそういう事に使われる機会が減った 脳が勝手に産み出している妄想なのかも知れません。

そう考えると,「脳みそが筋肉で出来ている」というような 言葉が指すようなキャラクタは実はあちらが正しい人間像の 様にも思えてきます。人間悩みがなくからだが健康なのが一番な はずです。みんなが物事をシンプルに考えればきっと物事は シンプルになるような気がします。それはそれに越したことがないような, そんな気がします。

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03 Aug. 9th


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