九州人と神社のメモ書き

実は年末年始は実家(熊本)に帰ってました。 今回は車で帰省したため,吉野ケ里(工事中でほとんど見れませんでした^^;) に行ったり,実家から車で30分程で行ける,南阿蘇の外輪山の峠の草の山から, 広大な風景を眺めたり,あと…,親に付き合って初もうで行ったり, 地元の友だちとか親とかといろいろ話して,いろいろ, 九州で育って,一旦外に出ている自分と,九州にずっといる人の感覚とか, その辺をいろいろ確かめて来ました。

実はちょっとまとめようかと思ったんですが,全然うまく行かないし, かといってこのままほっておいて,風化するのも嫌なので, ちょっと断片だけでも書かせて頂きます。

年末からいろいろ日本人とか,アイヌ人とかその辺の話を聞いたり 読んだりしながら,頭ではわかるんですが, 感覚的に違和感を感じている部分もあり,その辺の疑問を ずっとひきずっていたのですが,結局「我々」とは?と考えたときに 「日本人」という枠が私にはあまり実感がないということなのかもしれません。

枠はそこに線を引くことにより,その外部と内部を比較するために 引くのでしょうが,私があまり海外の人と付き合いがないせいかも しれませんが,やはり日本人という枠は実感できません。 むしろ「九州人」という枠の方が,東京に住んでいると,強く感じます。 もっとも九州に住んでいる九州の人は,「九州人」という枠は 意識してないと思います(^^;)。

以下だらだら書きますが。

・吉野ケ里にて…。

ここは紀元前3世紀から紀元3世紀に存在した集落の遺跡の様です。 私が行ったときは工事中で資料館は見れませんでした。これから かなり広範囲の公園にするらしく,工事してました。 「まぁこうしないと畑か道路になるそうなので,仕方ないのかなぁー… でもこれってお役人さんの再就職先を増やすってことだよなぁ…」 とか考えました(^^;)。

弥生時代の集落なのでおそらく大陸系だと思います。 銅をつくっていたようですし,勾玉や銅剣,中国の銅貨等も出てきてるので, そうでしょう。一方で九州ではじめて銅鐸が出てきたり, 奄美以南でしかとれない貝等が出てきてますので, 周辺との交流もあったのかも知れません。

私が一番気になったのは,ここにすんでいた人たちは, どこに行ったのか?ということです。このままここに居着いたのか?。 それともとどまらず畿内に行ってしまったのか?…。それとも滅んだのか?…。 ということです。

・神話

九州にはたくさんの遺跡や神社があります。九州の人は, わりと一般の人でもある程度の神話を知ってます。 今回も親とかと話して知ったのですが,そういう遺跡とか, もしくは学校とかもやってると思いますが, 神話が書かれた子供向けの漫画などを配ってるようです。 もちろんマンガ古事記等もあるそうです(^^;)。

ただし,たとえば熊本だと阿蘇絡みの話が多いようです。 宮崎は高千穂がある関係で天孫降臨の話とかが多いようです。

九州の人はこれらの神話を地元の逸話として捕らえてます。 これは論理的には変なんですが(^^;),実際マインドとしてはそうです。

天孫降臨でさえ,今の天皇の起源の話というのを頭では 理解していても,どうも心情的には,違うようです。というか, 「こっちの方が古いんだぞ」と思ってるのかも知れません。 うちの母親は,三重に「天の岩戸」があると教えたら, 「そんな馬鹿な…」とか言ってました(笑)。

おそらくは,地元の逸話を朝廷が書き換えたというのも 多いでしょうし,実際に大陸から畿内に移っていく段階で起きたことも 多いでしょう。 阿蘇をつくったのはタテイワタツノミコトですが, 神武天皇の孫とされてます。しかし,実際は地元の豪族が天孫族に降伏した後, 権威づけに,そうしたのではないか?…と私は思います。

北部九州には大陸(新羅)と戦争をやっていた頃の跡が結構あります。 おそらく,そのころは結構朝廷からしても重要な場所で, 地元を統制するために盛んに神社をつくり神話を書き換えていったのかも 知れません。

しかし,大陸奪還を諦めてから,単なる忘れられた場所になり, 九州は九州で書き換えられた神話を,地元の逸話として 伝えて来たのではないでしょうか?。

ただし,地元の逸話だろうが,国家神話だろうが, 「天皇」というキーワードが残っているので,国家に利用されることは事実です。 実際に第二次大戦中はそういうことが盛んに行われたのではないでしょうか?。

ですから,そういう危険性をはらんでいることは確かです。でも古 事記や風土記の神話が土着の民話として定着しているのも事実で, なおかつ九州人は権力を振るう側ではないだけに,結構面倒だなぁ という気がします。

・公共事業と神社

地方と都市部のマインドの違いというと,今でも選挙や公共事業の 話が良く上がります。都市部が公共事業を無駄遣いといい, それを行う政党の議員が負けても,地方では,全く逆の結果が出ることが, 現在のように情報が早く伝わる時代でもあります。

マスコミが,あれだけ批判していても,やはり公共事業は行われます

わたし自身は,公共事業はあまり好きではないし, 中央が地方の金を巻き上げ,再配分するような現在はあまり好きではありません。 基本的には,もう少し地方自治を進めてほしいと思ってます。 しかし,実際には地方にとって中央とは, お金(=仕事)を持ってきてくれる存在でもあります。

さて,では,昔はどうだったのか?を考えてみました。 大名のいる江戸時代はともかく,平安時代とかは,九州にも国府がおかれたり, 朝廷系の神社とかも建っていったはずです。

朝廷は単純に地方の人に役を課すだけのものだったのか?。 神話を押し付け,文化を弾圧するものだったのか?。 正確なところはわかりません。

ただ,平安時代等を考えると,ほとんどの地方在住の人々は, あばら屋に住み,麻の粗末な着物をまとっていたように思います。 そういう中に朱塗りの柱に,金箔の装飾をした, 神社や寺がいきなり建ったときに,彼らはどう思ったのでしょう?。 圧倒的な文明を感じたのかも知れません。驚異に思ったかも知れませんが, 一方であこがれを感じたかも知れません。また, その境内で祭りや市などが開催され,人々が集まっていたかも知れません。

今回の,実家の近くの山に行く途中に, 以前から神社がある場所(池があるので)があって, そこには駐車場などがあったのですが,その道向かいに, 道の駅(には小さいですが)みたいのがたってました。そこで, 農家がつくった野菜や,工芸品が売られていて,店員も 地元の人がやってるようでした。それなりに人は集まっていて, それなりに売り上げは出てるようでした。 そこで買い物をして帰るときに建物の入り口の柱を見ると 「簡易保健施設」と書いてました。 つまり国家が,国の予算を使って建物をつくって, それをありがたく(?),地元の人が商売に使っているという 図式がそこに見えます。 まぁ売り上げを一部搾取しているのかもしれませんが…。

それは私には一瞬,神社のように見えました。もしかしたら, 昔の人にとって,神社はそういう面があったのかも知れません。

・顔

関西から九州に転勤になった知り合いにあって, いろいろ話したのですが,「九州は綺麗な女性が多い」という話を聞き, 改めて道行く人々を見てみました。

確かに目が大きく少し離れている,顔が平坦,丸顔, ちょっと頬骨が出てる,という特徴が多く見えます。 人種が違うって感じはします。この特徴は「縄文人」 だと知り合いがいっていましたが,良くわかりません。 アイヌ系とは違うと思いますが…。

九州はまざり具合い多いという話もありますが, その辺は良くわかりません。

とりあえず,今思いつくことを書いてみました。

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01 Jan. 6th


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