例によって,宗教をちょっと調べている。世界中という レベルで見ると,ほとんどの人は何かしらの宗教を 信じているようだ。もちろん,信仰の深さは様々であるが。 私は現代科学も一種の宗教だという捉え方を している。宗教は世界観であるから,科学という 尺度で世界を説明すればそれは宗教である。
しかし一般には科学を宗教と捕らえる人は少ない。 だから近代化された社会,特に日本においては,自分は 無宗教だと思っている人が多い。西洋はわからない。 キリスト教的基盤の上に科学を展開している人も多いと聞くからだ。 もっとも日本人でも西洋から見ると,不思議な思考をするのだろうし, それを信仰といわれて仕方ない場合もある。それくらい 常識や道徳と宗教は密接だったりする。 科学を宗教と思わせない理由は何であろうか?。神を 明確に持たない宗教もあるので,それが第一の理由ではないかも しれない。
違う視点から考えよう。宗教はなぜ発生したのか?。 人生において,確実に存在し, 実感を持ってうまく説明出来ないものがある。 それは死であり生である。科学は死を 単に生物としての機能停止の様に説明する。これもどうも あまりピンと来ないが…。 自分が死ぬということを単に機能停止と いう風に人はとららえているのであろうか?。であれば, 宗教は不用である。しかしそうでなければ,それを うまくイメージさせる宗教は,解答を与えてくれる ということになる。そして宗教はそのために何らかの 規範を必要としているのであろう。
無宗教の人は自分が死んだらただの物質になると思っている のであろうか?。そうではないのではないか?。頭では そう思っていても,そう実感しているかが大事だ。 しかし宗教が不用になったのは,それ以前に 人が生前と死後をイメージしなくなったからではないか?。 生前は今の自分に関係ないし,死後は死自体を社会から 遠ざけることにより想像しにくくしているように思う。 私は人が死んでいく瞬間など,見たことがないし, 死体も数回しか見たことがない。 従って自分が死んでいくところを非常に想像しにくくなっている。
つまり現代科学は死を説明することはせずに,死を 遠ざけることにしたのではないか?。実際に 科学の一分野である医学は死をなるべく先送りになるように 発達しているし,現代の道徳観は殉死などは認めない。
しかし死というのは確実に存在する。そして科学は死後は 無いと説明している,他人事のように。
しかし本当にないのであろうか?。時計が止まることを 時計が想像できるのであろうか?。スローモーションの 中にいる人は,その中では普通に時間も動いている。 数分後に時間が止まる事を感じることも,テープが 止まることを感じることもできない。 現代科学はそんなものではないか?。死後は実はあるが, 科学がそのテープの中からの説明としてしか機能しておらず, 今(その中)から見るとその先が見えないというか,あたかも 「無い」事のように動いているように思えたりすることもある。
人にとってイメージできないことは存在しないことである。 だから死後も存在しないのごとく扱われている。生前も 存在しないのごとく扱われている。しかしイメージすることが 出来ればそれは当たり前のごとく存在するのだ。
今考えると当たり前のことが,過去の人に提唱されることにより 現在存在していることはたくさんある。 宗教を調べていると,預言というのが今みると全然たいした 事がないと思うことがよくある。それは今の人が既にその イメージをもっているからである。しかし 例えば男女が平等だと考えることも不可能だった時代もあり, 人種により優劣など無い等と考えられなかった社会が存在していた。 それはその考えをイメージした瞬間に当たり前のことになったのだ。
従って死後を明確にイメージできればそれは存在する事になる。 それはきっと死を無かったことにしようしてきた科学より, 人に実感に合うのかも知れない。